概要
戦争は近づいた。そして「戦争」は遠ざかった。
二〇二二年二月二十四日以後、私たちは戦争を以前と同じようには読めなくなった。SNSや映像配信を通じて届けられる無数の断片は、長らく政治や歴史の言葉によって共有されてきた「戦争」という観念を揺さぶり、一人ひとりの身体へと引き戻した。しかし、個人の経験へ接近することは、そのまま戦争を理解することを意味するのだろうか。そして、その変化は戦争を描く文学にどのような影響を与えているのだろうか。
本稿は、ウクライナ侵攻以後の読者の精神構造の変化を出発点として、「戦争」という公共的観念が近代社会において果たしてきた役割を再検討し、その崩壊が創作にもたらした意味を考察する。観念としての「戦争」と、生々しい個人経験としての戦争は、ともに現実の全体を表象しえないという逆説をたどりながら、現代文学が置かれた条件
本稿は、ウクライナ侵攻以後の読者の精神構造の変化を出発点として、「戦争」という公共的観念が近代社会において果たしてきた役割を再検討し、その崩壊が創作にもたらした意味を考察する。観念としての「戦争」と、生々しい個人経験としての戦争は、ともに現実の全体を表象しえないという逆説をたどりながら、現代文学が置かれた条件