４

　世界は不思議に満ちている。

　特に子どもが見る世界は、あらゆる出来事が不思議そのもので、むしろ不思議でないものの方が珍しい。ご機嫌だったのに突然涙を流す空、火に炙られて身をよじる風、人や車の往来に合わせてまばたきをする信号機。それら全てが不思議な現象として目に映る。

　マキもその感覚を持って成長し、そして知識や経験を蓄える内に少しずつ世界から不思議は消えて行った。

　今では狐の嫁入りも、陽炎も、信号機の仕組みだって知っている。晴れていても雨は降るし、空気は熱で揺らぐし、信号機を管理しているのは交通管制センターのコンピューターだ。かわいい動物やぬいぐるみとお喋りはできないし、みんなを守ってくれる魔法使いの女の子はいないし、人を驚かせるお化けもいない。

　こうして世界から不思議は段々となくなって、いずれ大人になる頃には、全てを知ってしまうのだと思っていた。

　だが、そうではなかった。

　今まさに目の前にある光景は、これまでの知識、経験、常識、そのどれにも当てはまらないものだった。

　『わらわ』と名乗る、人の姿をした白狐は、自身の存在をもってマキの常識を打ち砕いた。

　この世界には、目には見えない未知の領域が存在したのだ。

　

「久しいな、このように人前に姿を見せるのは」

　わらわは首を巡らせて、自分の体をしげしげと眺めた。

「しかし、一時はどうなる事かと思ったぞ。呼ばれて来たはよいものの、気付けばお主は先に寝とるし、起きたら起きたでわらわには気付かんし」

　ピン、と鼻先に指を突き付けられ、思わず視線が集中する。

「いなり一個では、流石のわらわも力が出んわ」

　わらわは唇を尖らせて抗議する。

「あんまりじゃったんで、お主の昼餉をもろうてしもうたわ」

　そのまま、文句はあるまいと言わんばかりに、快活な笑い声を響かせた。

　自分の声に引っ張られているのか、感情的な表現なのか、大きな尻尾がぱたぱたと揺れていた。

　マキは固まったまま、左右に揺れ動く尻尾を見ていたが、その内おずおずと口を開いた。

「…………あの」

「なんじゃ」

　細く笑っているような目を向けられ、胸の内に小さな緊張が生まれる。

「わらわちゃんは、どうして私のところに来てくれたんですか？」

「そりゃあ、お主と友達になりたかったからじゃ」

「でも、まさか本当に……」

　未だに困惑を隠せないマキに、わらわが少しだけ悲しそうな顔をしてみせた。

「もしかして、わらわはお呼びでないのか……？」

「あっ、いえ、そういうわけじゃないんですけど」

「じゃあいいじゃろ、友達なんてものはな、取りあえずなっとけばいいのじゃ」

　そう言って、マキの手を掴んでブンブンと振り回す。

「そ、そういうものですか？」

「型っ苦しいのう、お主は友達に対してもそういう喋り方をするのか」

「いえ……しません」

「ではわらわにもそのように接しておくれ」

「あ、はい」

「はい？」

「えと、わかった」

「うむ」

　なんだか色々と強引に決められてしまったが、わらわから悪意のようなものは感じられないので、マキは取りあえず納得することにした。

　マキはこういう自分の能力で処理しきれない場面に出くわすと、目の前の相手の話を鵜呑みにするという少し危うい性格をしていた。

　内心ではもやもやしたものを感じるが、取りあえずは目の前にいる、わらわの存在を認めることにしよう。

　そう、マキが思った時だった。

　───こんこん。

　不意に、ドアをノックする音が部屋に響いた。

「マキちゃん」

「！」

　名前を呼ばれたマキは、弾かれたように部屋の扉に顔を向けた。

　おばあちゃんだ。

「マキちゃん、ご飯を持ってきたからドアを開けてちょうだい」

「ち、ちょっと待って」

　もしおばあちゃんに、わらわちゃんを見られてしまったら、どう説明すればいいのか分からない。と言うか説明のしようがない。マキは慌ててドアに駆け寄ると、ノブを捻って薄く扉を開いてから、目だけを隙間から覗かせた。

「マキちゃん、どうかしたの？」

　廊下のおばあちゃんが怪訝な顔をする。手に持ったお盆の上で、出来たてのきつねうどんが湯気を立てていた。

「ううん、なんでもないよ。うどんありがとう」

「誰かと話していたみたいだけど、お友達？」

「えっと……うん、電話してて……」

「そう？」

「…………」

　短い沈黙が流れた。さっさとお盆を受け取ってしまえばいいのに、わらわの存在を悟られやしないかという焦りと緊張が、判断力を鈍らせていた。そして、そんなマキが何か言うよりも先に、おばあちゃんが口を開いた。

「マキちゃん、なにか隠してない？」

「……！」

　思わず視線が泳いだ。

　おばあちゃんはこういう時、妙に勘が鋭い。

　『霊感』や、『第六感』とでも言うのだろうか。失せものを見つけたり、事故を未然に回避したり、大きなものだと火事を予言したこともあった。その時に放火を疑われて家に警官が来る騒ぎになったからか、家の外でそういった事は言わなくなったが、以降も折に触れて家族に注意を促すことがあった。

　とにかく、超感覚というものがもしもあるのなら、おばあちゃんは間違いなく『持っている人』だった。

　そんなおばあちゃんの視線が今、マキに向けられている。

「……………………」

　深い皺の刻まれた顔に埋まった水晶のような瞳が、心の中を覗き込む占い師のように、マキの表情や動きを観察する。普段の柔和なおばあちゃんからは考えられないような鋭い視線に、緊張で動けなくなる。

　そして、口元を引き結んでいたおばあちゃんがなにかを言おうと、息を吸い込んだ時だった。

「こゃ～ん」

　マキの背後から、なんとも間抜けな声が通り抜けて行った。

　その声に、マキの全身から冷や汗が溢れ出す。

　それはわらわが発した猫の鳴き真似だった。ただし猫だと分かったのが奇跡的なほどに下手くそな。

　何を考えているのかと、マキは首を軋ませながら背後を振り返る。しかし鳴き声を発したわらわはどこ吹く風といった顔。

「……………………」

　冷たい汗とともに沈黙が流れた。

　今の鳴き声はおばあちゃんにも聞こえただろうか。もし聞こえていたならどう言い訳をしようか。このまま部屋を検められて、わらわちゃんを見られたらどうしよう。頼むから、今だけは聞こえなかったことにしてくれないだろうか。

　頭の中をあらゆる考えや言い訳が駆け巡る。緊張でじわりと背中が汗ばんだ

　しかしマキの不安に反して、緊張はすぐに解消された。

「……気のせいね」

　そう言っておばあちゃんは、マキにお盆を手渡した。

「え？　あっ」

　虚を突かれたマキは、あせあせと渡されたお盆を受け取る。

「食べたら流しに置いといてね」

　それだけ言うと、おばあちゃんはスリッパの音を鳴らして自分の部屋へと帰っていった。

「…………」

　何とも言えない空気が漂った。

　マキはお盆に載ったきつねうどんを落とさないように机の上に置くと、そのまま床に倒れ込んだ。

「はあ～」

　緊張から解放されたことで、体から一気に力が抜けた。

　わらわちゃんの事がバレなくてよかった。本当によかった。

　どう説明すればいいのか分からないのもそうなのだが、もしも霊感の強いおばあちゃんに見られてしまったら、なにか良くないことが起こるんじゃないかという不安が心のどこかにあったのだ。実際にはなにも起きないかもしれないし、この不安もただの杞憂なのかもしれない。それでも今は、これ以上ややこしい状況にはしたくなかった。

　わらわちゃんが一体どういう存在なのかは分からない。でもしばらくは、少なくとも自分の中で答えが出るまでは、一緒にいてもいいのかもしれない。

「せっかく友達にもなったんだしね」

　それまでわらわちゃんのことは、自分だけの秘密にしておこう。

　マキはそう思いながら、寝返りを打って隣にいるわらわを見上げた。

「…………………………」

　わらわが、きつねうどんのお揚げをつまみ食いしていた。

　やっぱり追い出した方がいいかもしれない。