二章 おともだち
1
「もう、バレてるんだからね」
通学路を歩いていたマキは、くるりと振り返ると、何もない場所に向かって話しかけた。
「む、案外鋭いの」
わらわの声だけが何もない影から聞こえてくる。そして、すうっ、と音を立てるようにして、わらわが影の中から顔を覗かせる。うっすら透けたその体は、マキが見ている前でみるみるうちに色濃くなり、やがて白い着物を着たわらわの姿を現した。
「来ちゃダメって言ったでしょ」
今朝方、学校に行きたがるわらわを押しとどめて来たはずなのだが、この白装束の女狐はそれを無視して、影のようにマキにくっついてきたらしい。
困った顔をしてマキは言う。
「こんなところ、誰かに見られたらどうするの」
目下の心配はそれだった。
一日一緒に過ごして分かったことだが、どうやらわらわの姿は他の人には見えないらしい。しかし、わらわと話をしているマキの姿は、傍目からはひとりで何かを呟いているようにしか見えず、昨日も塾の友達に気味悪がられたばかりだった。
その時はまさか、そんな風に見られているとは知らなかったので、声をかけられた後は、いたたまれなさに顔を真っ赤にすることしか出来なかった。
そんな心中を知ってか知らずか、わらわが言う。
「案ずるな、わらわには誰も気付いとらんかったじゃろ」
「それは、そうだけど……」
問題は、わらわの言動に反応してしまう自分だった。不意に話しかけられれば反射的に返事を返してしまうし、わらわが何かをしていれば自然と視線がそっちに行く。そんな自分を見て周囲はなんて思うだろうか。想像しただけで頭が痛くなる。
しかしわらわも「帰って」と言って大人しく帰るような性格ではないのは既に分かっている。ここはもう、自分が折れるしか道はないのだ。
「ううー!」
マキは頭を抱えてその場にしゃがみこむと、短く唸ってから無理矢理に自分を納得させた。
「………学校でイタズラとかしないでね」
「わかっておるよ」
にっこりと目を細めて笑うわらわ。本当に分かったのだろうか。
不安を抱きながらも、マキは通学路を歩き始める。
桜の香りのする風に合わせて、わらわの白い髪がふわふわと揺れていた。
*
キーン、コーン、カーン、コーン────
黒板を叩くチョークの音が響く教室に、授業の終わりを告げるチャイムが鳴り響いた。
「起立、礼、ありがとうございました」
日直の号令に続いて、周りの生徒たちが声を合わせる。
長かった六時間目がようやく終わりを迎えたことで、教室内に弛緩した空気が流れ出した。退屈な授業から解放された生徒たちが帰りの準備を始めながら、わいわいと談笑する様子は日常の風景そのものだった。
しかしそんな風景をよそに、マキは深いため息をついていた。
「つかれた…………」
いつもの学校生活ではそれほど疲労感を感じることはないのだが、今日は一日中、わらわがマキの隣に付いて回っていたため、常に誰かに見られているという緊張感を感じていた。それだけならばよかったのだが、このイタズラ狐はマキとの約束など忘れてしまったようで、事あるごとにちょっかいをかけてきたのだ。
マキはそれを周囲に気付かれないようなんとか対応していたが、授業中や休み時間などお構いなしに話しかけてくるわらわに、流石に疲労の色を隠せずにいた。
今日は早く帰ってゆっくり休もう。
マキは周りと同じように手早く帰り支度を済ませると、ランドセルを背負って席から立ち上がる。
「待ちなよ」
ずいっ、とマキの進路を塞ぐようにして、誰かが立ちはだかった。
長身の女子。
口元を引き結んだ七尾は、片手で道を遮りながら強い視線を送ってくる。その態度にマキは思わず気圧される。
「な、なに?」
同年代よりも頭一つ抜けた七尾の体は、日頃の鍛錬も相まって、服の上からでも分かるほど引き締まった体つきをしている。そんな七尾からの視線には、スポーツマン特有の力強さがある。本人にそのつもりはないだろうが、そんな人間に目の前に立ちはだかられるのは、見た目以上の威圧感があった。
「…………」
そんな緊張を知ってか知らずか、七尾は黙ってマキを見つめ続ける。時間にしてほんの数秒の沈黙。
しかしその沈黙は、七尾の脇から現れた別の女子によって破られた。
「変ですね」
ぬるっと姿を見せたのは、前髪の長い市松人形のような女子。
都は、七尾よりも頭二つほども小さい体で、机の隙間を縫うようにマキの前に現れる。
「やっぱり変です。どう思いますか、七尾さん」
「うん、変だ」
「な、なにが……?」
都と七尾の言葉に、思わず声が裏返った。都はそれを見て、怪訝そうな顔をする。
「マキさんですよ。昨日もちょっと変でしたが、今日はもっと変です」
ぎょっ、とした。さっきとは違う緊張が胸の内を走る。
「体調が悪そうには見えないけどな、でもいつもとなんか違う」
まさかもう、わらわのことが気付かれたのだろうか。マキはなんとか誤魔化そうと口を開く。
「そ、そんなことないよ」
平静を装おうとする理性に反して上擦る声に、七尾と都がますます眉間に皺を寄せる。
「嘘。ずっと何かを気にしてる様子だったし」
「あと、誰かと話しているようでしたね、隠しても分かりますよ」
完全にバレている。周囲には気付かれないようにしていたはずなのに、親しい二人には通じなかったようだ。
顔を赤くしたり青くしたりしているマキに、二人が一層、訝しげな視線を向ける。
「んん~?」
「いや、あの、その…………」
しどろもどろになりながら言い訳の言葉を探すが、マキの経験にはここから巻き返す術は存在しなかった。
マキはそのまま椅子に座り直して頭を抱えると、観念したようにため息を吐いた。
「わかった……言うよ……」
「そうこなくっちゃ」
笑顔でハイタッチをする都と七尾。
どうせ信じてもらえないだろうと諦め口調で、マキは昨日の出来事を話すことにした。
*
まばらに集まっていた生徒たちが一人、また一人と数を減らし、マキが話を終える頃には、教室にはマキと都と七尾の三人だけになっていた。
「嘘、ではないよな……」
「流石にそこまでおめでたい人じゃないですよ……ですよね?」
話を聞いた二人の顔には、困惑の色が浮かんでいた。信じていないわけではないが、素直に受け取るにはあまりに荒唐無稽すぎて、どう判断すればいいのか分からないといった様子だった。
わらわは、そんな二人の困った様子をあからさまに面白がっていた。
「マキ! マキ! お主ちょっとおかしいやつだと思われとるぞ!」
「あんたのせいでしょ!」
突然声を荒げたマキに、都がビクッと肩を竦ませる。
「あっ、ごめん、ごめんね。今のもわらわちゃんが……」
慌ててフォローすると、大丈夫という風なジェスチャーが返ってくる。
「うーん、なんかこう……証拠とかないのかよ」
「その、わらわちゃんとやらを見せてもらうのが、一番早いんじゃないですか」
確かにそう出来るのなら話は早い。マキはわらわを見上げる。
「どうにかならないの?」
その質問に、わらわは指を立てて答えた。
「簡単じゃよ、二人がわらわと友達になってくれればいいのじゃ」
「また、あのおまじないをするの?」
マキは軽く眉をひそめる。流石に今から鏡やお供え物を準備するのは少々面倒だ。
そんな内心を読み取ったか、わらわは立てた指を左右に振る。
「いやいや、友達の作り方はひとつではないぞ。例えば、マキがこの二人に、わらわを紹介してくれればいいのじゃ」
なるほど、それならすぐに出来る。これで二人が信じてくれれば、わらわの事を隠し続けるストレスもいくらか無くなるかもしれない。
「どう? なんとかなりそう?」
痺れを切らした七尾が、黙考するマキをせっつく。
「あ、うん。紹介すれば見えるようになるって」
「じゃあ早くしようぜ。こっちからじゃ、マキが一人で喋ってるようにしか見えないからさ」
七尾はこの奇妙な状況に我慢ならないのだろう。授業が終わる五分前のように体をそわそわさせている。
早くこの状況をなんとかしてほしいと言わんばかりのその表情に、マキは困った笑顔を浮かべて言った。
「わかったわかった、それじゃあ行くね二人とも」
都と七尾は、一度、顔を見合わせてから頷いた。
「……………………」
三人だけの教室に微かな緊張が生まれる。
緊張は沈黙となり、まるでここだけ空間が切り取られたような、そんな感覚に包まれた。見慣れたはずの教室が、同じ間取りをした別の場所のように感じられ、自身の存在すらあやふやで曖昧なものだったのではないかという、不可解な錯覚が頭の中に広がった。
全員がそんな奇妙な空気を感じる中、マキは意を決して口を開いた。
「七尾ちゃん、都ちゃん、わらわちゃんとお友達になってくれる?」
「ああ」
「……はい」
二人の返事と同時に、周囲を包んでいた空気が霧散した。
教室には、先ほどまであったはずの違和感がまるで存在しなかったかのように、いつも通りの風景と、机と教材の匂いが混じった独特の香りがあった。
そして、
「これは……」
「マジか……!」
そんないつもと変わらない教室に、わらわの姿が現れた。
マキにとっては最初からそこにいる存在だったが、都と七尾にはわらわが突然目の前に現れたように感じただろう。
信じられない、といった風に目を白黒させる二人。
わらわは、そんな二人に、にこりと笑って手を差し出した。
「都に七尾、わらわと友達になってくれてありがとう」
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