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当てもなく、目的もなく、真っ暗な廊下をただ走る。自分でもどこに向かっているのか分からない。それでも走り続けるしかなかった。
まだあの絶叫が耳にこびりついて離れないのだから。
あの異常な空間からマキと都を連れて逃げ出した七尾は、こんな場所に来てしまった事と、深い考えもなくここに来ることに賛成してしまった自分の浅はかさを、激しく後悔していた。
なんとかなるんじゃないかと思っていた。わらわを初めて見た時も、都が危険を訴えた時も、それを聞いたマキが青ざめていた時も、目に見える問題は何もなかったから。
それに、多少の揉め事くらいなら、今までも自分がなんとかしてきたという自負もあった。
だから今回も大丈夫なんじゃないかと、楽観していた。もし実際に何かが起きたとしても、自分ならどうにかできる、みんなを助けられると、そう思っていた。
だが現実はどうだ。あの階段で、自分はなにも出来なかった。美麗たちの叫び声が広がる中、あの狂乱に身が竦み、まともに動くことすら出来なかった。それでもマキに迫るわらわの姿に、なんとか気力を振り絞り、どうにかここまで逃げ出してきたのだった。
そして階段を駆け上がった後はこの、当てのない逃走。しかしこのまま走っても逃げ道などない。下り階段にするべきだったか? しかしあの異常な連中と、わらわの横をすり抜けていくなど、とてもではないが考えられなかった。
七尾は、ぎり、と奥歯を噛み締める。
目の前の恐怖に委縮してしまった悔しさと、咄嗟の判断を誤った自分への怒り。
状況を甘く見ていた自分が腹立たしい。馬鹿な自分を殴りつけたかった。
止めるべきだった。マキが責任を感じてあの美麗という女子に関わろうとするのを。
マキのせいじゃないよ。マキは悪くないよ。だからもういいだろ。あの時どうしてそう言わなかったのか、七尾はただただ後悔していた。
「な、七尾ちゃん! ま、待って……!」
七尾に手を引かれて走っていたマキが声を上げた。
体力差のある七尾のペースに追いつけないマキは、苦しそうに息を荒げている。
同じく、脇に抱えられた都が、か細い声で訴える。
「わた……も……おろし、て……さい……」
それに気付いて七尾は、はっと立ち止まった。
勢いに任せて走りすぎた。慌ててマキの手を離し、都を壁に寄りかからせる。
「ご、ごめん。大丈夫か」
「私は大丈夫だけど、都ちゃんが……」
うなだれる都の顔は血の気を失い、虚ろな瞳で虚空を見つめている。
「大丈夫か、ミヤ」
都は浅い呼吸を繰り返すだけで、七尾の言葉にも反応がない。
「もしかして都ちゃん、どこか怪我したんじゃ……」
「いや、怪我はなさそうだ。多分、一時的なショックだと思う」
七尾は都の体を改めると、意識のはっきりしない都の目の前で指を弾いてみせる。
「無理そうだ、どこかで休ませないと」
辺りを見回し、手近な教室の引き戸に指をかけると、がらりと音を立てて扉が開いた。
七尾とマキは、両脇から都を抱えて教室に入ると、出入り口の鍵を閉めた。
窓から差し込む白い月明かりに照らされた教室には、いくつもの机と椅子が並んでいる。息を吸い込むと、部屋全体にうっすらと人の匂いが感じられた。恐らく日常的に使用されている教室なのだろう。
「どこの教室だ?」
「四年生みたい、ほら」
マキが指差す先を見ると、教室の後ろに掲示された習字の半紙に、一つ下の学年と名前が書かれてあった。
七尾は教室の奥まで移動すると、都を床に横たえた。
「ごめんな、こんなとこで」
「都ちゃん、大丈夫?」
「…………すみ、ません……」
力なく応える都。嘔吐した影響か、べたついた涙と鼻水が都の顔を汚していた。
「いいよ。とにかく今はなんとかして逃げるしかない」
七尾は立ち上がって言う。今更立ち向かおうなどという気はなかった。得体の知れない相手というのは何をしてくるか分からない。それが怪異ともなれば尚更だ。いざとなれば覚悟を決めるしかないが、それが出来るという自信は、今の七尾にはなかった。
「取りあえず、ここから出ないとな」
「そうだね……」
ハンカチで都の顔を拭いていたマキが頷いた。
「窓から外に出られないかな?」
「私は大丈夫だろうけど、今のミヤには無理だな」
七尾が窓からコンクリートの地面を見下ろして言う。
「ロープでもあれば行けるかもだけど……」
当然、そんなものを持っているはずがない。漫画みたいにカーテンを繋げられればとも思ったが、教室の窓に備え付けのカーテンはなく、それに近いものも見当たらない。
考えろ。なんでもいいからここから逃げる方法を見つけ出すんだ。
そうして七尾が、ズボンのポケットに手を突っ込んだ時だった。
ぽとり。
ふと、ひっくり返ったポケットの端から、何かが滑り落ちた。
軽い音を立てて落ちたそれは、小さなアクセサリーのようだった。よく見るとそれは、学校に忍び込む直前に、都からもらった御守りだった。
「おっと」
気付いた七尾が御守りを拾い上げ───思わず眉を寄せた。
「なんだ、これ」
御守りが、ズタズタに引き裂かれていた。
先ほど都から受け取った時に見た、真っ赤な布地と細かな刺繍が施された御守りは見る影もなく、ほつれた糸が血管のようにうねる、ボソボソとした感触のズタ袋になっていた。
「ひっ……!」
七尾の反応を見たマキが、自分の御守りを取り出して短い悲鳴を上げる。手から滑り落ちた御守りが、重力に引かれて地面に落ちた。
「あ……あ……」
マキは浅い呼吸を繰り返してその場にへたり込むと、今にも泣き出しそうな顔になった。
「な、七尾ちゃん……」
縋るように名前を呼ぶマキの視線は、力なく横たわる御守りに注がれている。死んだように沈黙する御守りの姿はまるで、自分たちの運命を暗示しているようだった。
「マキ、落ち着け。余計なことは考えるな」
七尾は、マキの視線を遮るようにしゃがみ込むと、今にも叫び出しそうな様子のマキに語りかけた。
「こっち見て、私の目を見て。そう、呼吸を合わせるんだ」
七尾はゆっくりと深呼吸しながら、マキにも同じ呼吸を促す。
「ゆっくり吸って……そう、止めて……一気に吐いて……もう一度、吸って…………」
何度か深呼吸を繰り返すと、次第に呼吸が安定し、決壊寸前だったマキの心も段々と落ち着きを取り戻した。
七尾はそれを確認して、口を開いた。
「マキ、私も怖い。さっきも今も、何が起きているか分からなくてすごく不安だ。でもそういう時こそ落ち着いて自分を律するんだ。本当に怖いのは何も分からないことじゃない、恐怖に負けて自分が今出来ることを見失ってしまうことだ」
いつになく真剣な表情に、マキは驚いた顔をする。目を見開いて七尾の言葉を反芻する。それから一度、大きく深呼吸をしてから、ゆっくりと頷いた。
「うん。私、何も出来ないまま終わりたくない。最後まで絶対に諦めない」
そう言ってマキは立ち上がる。さっきまでの怯えて縮こまっていた姿は、もうどこにもなかった。
「ありがとう、七尾ちゃん」
「ん……あー、今の全部、父さんの受け売りな」
決まりが悪そうに頬をかく七尾に、マキはくすっと笑う。それを見て七尾も小さく笑い返してみせた。
今の状況を忘れてしまいそうな穏やかな空気が、二人の胸の中に広がっていた。
「あの、これいつまでやってるんですか?」
不意に投げかけられた声に振り返ると、都が呆れ混じりの目でこちらを見つめていた。
「都ちゃん!」
「ミヤ、大丈夫か!」
駆け寄る二人に、都は両手を上げてみせた。
「あー、はいはい。大丈夫ですから、もう動けますから」
そのまま二人を、うっとおしそうに押し返す。
そして言う。
「なのでさっき七尾さんが言った通り、さっさとここから逃げましょう。今の私たちには、わらわちゃんへの対抗策はありませんし、他の子たちにもしてあげられることはありません。───マキさんは不満があるかもしれませんが」
「ううん、なにも出来ないのは本当だもん」
都の冷静な判断に、マキは後ろ髪を引かれる思いで頷く。
本当はわらわと向き合ってちゃんと話がしたい。美麗たちのこともなんとかしてあげたい。しかし現実的に、今の自分たちに出来ることは何もない。今はこのまま逃げることが最善なのだ。……そう分かっていながらも、マキの胸の中には、どんよりとした黒い霧が重たくのしかかっていた。
しかし、続く都の言葉は、そんなマキの心の霧を一気に晴らすものだった。
「ええ、ですからここを上手く脱出したら、あいつらをなんとかする方法を探しましょう」
「!」
都の意外な提案にマキは顔を上げる。
「わらわちゃんのおまじないだって見つけられたでしょう? もっと詳しく調べれば対処法なんかも見つかるはずです」
「いいの、都ちゃん⁉」
「どうせ言ったって聞かないでしょう。それなら行くところまで行っちゃいましょう。当然七尾さんにも付き合ってもらいますよ」
「いいぜ、私もやられっぱなしは気に食わないんだ」
七尾が手のひらにこぶしを叩きつける。
「だそうです。いいですね、マキさん」
「……うん! うん!」
マキは大きく頷いて都を抱き締める。腕の中にすっぽりと収まった小さな体が、今はとても頼もしく感じられた。
「ああもういいです、そういうのはもういいですから」
そう言って都はマキを引き剥がすと、スマートフォンを取り出した。
「それではまず、学校に電話しましょう」
「学校に?」
「学校の電話が鳴れば、わらわちゃんはそっちに気が向くでしょう。そうしたら私たちは、電話のある職員室を避けて、校舎から脱出しましょう」
都の提案にマキは疑問を口にする。
「でも待って、玄関は職員室の前を通らないと行けないよ」
一階に降りる階段はいくつかあるが、玄関は防犯上の理由で職員室の前を経由する構造になっている。たとえわらわが職員室に向かったとしても、必ず玄関前で気付かれてしまう。都は一体どうするつもりなのだろう。
その疑問には、七尾が答えた。
「いや、一階まで行ければ、後は適当な窓から出ればいいんだ」
都が頷く。
「そういうことです。それにもしかすると、電話に気付いた警備員さんが助けてくれるかもしれません」
そっちは期待薄ですが、と付け足して、都は目を閉じる。
さっきの学校全体に響くほどの絶叫に、警備員が気付かないとは考えられない。普通に考えれば見回りが来るか通報がされているはずだが、あれから数分経った今でもそんな様子は感じられない。となると、警備員に何かあったか、あるいはこの状況を誰も感知できないような常識外の力が働いている可能性がある。
もしそうなら私たちだって、ここから逃げることはもう不可能なのかもしれない。
滲んだ不安に、都は頭を振るう。
考えても仕方ない、今はやれることをやろう。
「では、かけますね」
そう言って、都はスマートフォンに学校の電話番号を入力した。
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