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「マキさんの馬鹿!」


 朝の教室に似つかわしくない、大きな声が教室に響いた。

 何事かと顔を上げた生徒たちが視線を寄せる中、声の主である溜井戸都が涙ながらに教室を飛び出し、眉間に皺を寄せた本影七尾がそれを追っていった。最後に残った境井マキは、しばらくその場から動かなかったが、いたたまれなくなったのか、やがて教室から出ていった。

 三人が去った後の教室は、彼女たちの話題で持ちきりになった。仲良し三人組で通っていたグループの異変に様々な憶測が並べられる。

 境井マキが変ないたずらでもしたんじゃないか。本影七尾が無神経なことを言ったんじゃないか。案外好きな相手でも被ったんじゃないか。等々……。

 そんな下世話な好奇心に満ちた話題に溢れる教室でひとり、誰とも話をすることなく机に突っ伏して眠っている女子生徒がいた。

 いや、その少女は眠っているわけではない、眠ったふりを続けていたのだ。

 少女の名前は坂田美麗。成績は下の上。痩せぎすな見た目通り、運動は苦手。授業中の居眠りを咎められる以外、素行に問題はなし。占い好きなことで有名で、友達関係も比較的良好。

 出席番号は七番。席は六番である境井マキの、真後ろ。


「わらわちゃん、ね」


 美麗は机に突っ伏した顔を上げると、ぼそりと呟いた。

 そう、美麗は全てを聞いていたのだ。都の言葉を、七尾の焦りを、マキの動揺を。話が始まった時から、ずっと。

 不思議に思っていたのだ。最近の境井マキの変化と異変を。同時に彼女のグループが、何らかの秘密を持ち始めたことを。

 その秘密がなんなのか、初めは分からなかった。美麗はマキのグループに気軽に話しかけられるような関係ではなかったし、警戒心の強い都や活発な七尾相手に、信頼を勝ち取れるようなコミュニケーション能力も持ちあわせていなかった。

 だが、マキの態度は非常に分かりやすかった。なんせ後ろの席に座っているのだ。授業中や休み時間に関わらず、彼女の周辺には常に何者かの気配があった。美麗自身、実際にその姿を目にしたことはないのだが、マキの反応や仕草を見る限り、そこには目には見えない誰かがいるとしか思えなかった。

 そしてどうやら、その何者かを感知しているのはマキだけでなく、マキのグループ全員であり、またそれを自分たちだけの秘密にしているらしかった。

 そしてその秘密は今、空眠りする美麗のすぐ前で、マキたち自身によって暴かれたのだった。

 ───どうして?

 私がオカルトや不思議な世界が大好きだってこと、マキちゃんだって知ってるはずなのに。席が近くていっぱいお話もしたから、知らないはずがないのに。それなのにこういう話を私にしないなんてありえない。どうして私に教えないの? 前の席のよしみで何度も占ってあげたじゃない。だからなの? 私が占いに秀でているから? 私が特別だから? 特別な私に嫉妬して、だから自分たちだけで一人占めしようとしてるの? そんなのひどいよ。そんなのあんまりだよ。そんなの、そんなの、


 そんなの、許せない。


 美麗は静かに席から立ち上がり、マキの席へ向かう。

 机の上には影よりも濃い黒色の本が、『わらわちゃん』と題されたページを無機質に広げていた。

 周囲の目がこちらに向いていないことを確認した美麗は、本を手に取ると素早く自分の鞄に仕舞い込み、再び自分の席で空寝入りを始めた。

 やがて戻ってきたマキが、机の上から消えてしまった本を探していたが、美麗にその疑いを向けることは無かった。

 それから数日間は、ひたすらに黒い本を読んだ。

 読んだ、と言ってもあの本は難しい漢字や古い言い回しが多く、実際に読めたのは事前に知っていた『わらわちゃん』と、ほんの少しの小噺だけだった。それらの小噺も要領を得ない話や、意味の分からない内容ばかりで、結局、美麗が理解できたのは『わらわちゃん』だけだった。

 そして美麗は、『わらわちゃん』を実行することに決めた。

「本当は別のやつがいいんだけどなあ」

 これだけ選択肢がある中で、マキと同じ『わらわちゃん』を選ぶのはオリジナリティに欠けるという不満もあったが、やっぱりよく分からないものよりは効果が実証されている『わらわちゃん』にすることにした。

 決行はとうかさん祭りの日に決めた。夜に子供だけで出歩いていても不審に思われない日だ。いつもの友達数人に「肝試しをしよう」と連絡を入れ、入念に準備をした。

 そして当日、美麗は学校に忍び込み、みんなが見ている前で『おまじない』を実行したのだ。

 その賞賛は凄まじかった。元々占いによってある程度の神秘性を確立していた美麗だったが、わらわを呼び出したことにより、その特別性は確固たるものとなった。

 今までに感じたことのない優越感に、美麗は頬が上向くのを抑えられなかった。


 みんな見た⁉ 見て、これが私なの! 私は特別なのよ! ほら、特別な私をもっと称えて!


 新たな力を実感した後は、更なる特異性を示さずにはいられなかった。

 当てつける形でマキにわらわを紹介し、自身の優位性を誇示すると、次なる一歩を宣言した。

「今夜もやることにしたの。みんなでわらわちゃんの本当の『おともだち』になるためにね」

 焦ったのか、あいつは取り巻きを引きつれて「私たちも一緒に参加する」と言い出した。

 何が目的だ。もしかして私を恐れて『おまじない』を邪魔する気か?

「心配するな、わらわがついておる」

 そう、そうね。わらわちゃんがいるなら大丈夫。望むところよ。あの子たちにも私の凄さを見せてあげる。みんな、特別な私にひれ伏すのよ。わらわちゃんも私を手伝ってくれる。誰も私を止められない。怖いものなんて何もない。さあみんな、わらわちゃんとおともだちになろう。本当のおともだちになって、みんなでわらわちゃんとひとつになろう。


 だってこれは、



         *


「きゃあああああああああああああああ‼」

 少女たちの悲鳴が夜の校舎に響く。

 凄まじい絶叫に、先ほどまで張り詰めていた静寂が掻き消され、薄い膜にも似た真夜中の空気が引き裂くように恐ろしい悲鳴に塗り替えられた。

 美麗を始めとする少女たちから迸るその声は、異常な高音と声量を響かせ、もはや人の喉から出ていることが信じられないほどだった。

「──────っ‼」

 突如として訪れた異常事態に、マキは身を縮めてただ震えることしか出来ない。その隣では地面に膝をつく都と七尾が、青ざめた表情で戦慄しており、それ以外の者は全て、聞く者の正気を削り取る狂気のスピーカーと化していた。

 わらわがその光景を前に、声もなく笑う。夜を、闇を、影を従えながら佇むわらわの顔は異様なまでに捻じ曲がり、視界に映る全てを嘲る冒涜的な笑みを浮かべていた。


 それは美麗のカウントダウンに合わせ、少女たちが『おまじない』の言葉を口にした直後のことだった。

 ぞ。と悪寒が駆け上がる感覚とともに、周囲の空気が急速に変質した。冷厳な夜気に満ちていた空気が、突如として腐った肉と血を混ぜ合わせたような生暖かい異臭に汚染され、人のものではない視線とおぞましい気配が周囲に満ち始めた。

 その直後、鏡の中に映る少女たちの背後に黒い影が現れたのだ。

 バレーボールほどの大きさの淡い影。反射的に振り返ったが背後には何もない。だが鏡に映る影は、ぽつりぽつりと数を増やし、やがて数えきれないほど増殖した。そして、不定形な形をしたその影が少女たちの背中に、ぴたりと張り付いたその瞬間、小さかったはずの影は、周囲の闇を食らったかのように爆発的に膨張し、鏡の中の少女たちの体を覆いつくした。

 その瞬間、立ち尽くしていた少女たちの顎が千切れそうなほどに開かれ、鏡が破裂するのではないかと思うほどの恐ろしい金切り声を上げ始めたのだ。


「⁉」

 突如として引き起こされた異常事態に、マキは反射的に耳を塞ぐ。だが、本能的恐怖を呼び起こすその絶叫は、鼓膜を容易く突き抜けて頭蓋骨を揺さぶり、恐怖と混乱が入り混じった脳内をぐちゃぐちゃに攪拌した。

 衝撃に耐え切れなかったのか、都が両耳を押さえたまま膝を折って嘔吐する。それを庇うように跪いた七尾が、都の体を抱き寄せた。

 声とも音ともつかない絶叫を撒き散らす少女たちは一様に白目を剥き、限界を超えて開かれた口の端からは、じわりと血が滲んでいる。背骨が折れるのではないかと思うほど背中を反らし、がくがくと痙攣する姿は、最早正気のものとは思えなかった。

 やがて少女たちは立ち姿を維持出来ずにその場に倒れると、口から赤みの混じった泡を吐き出し、しかしそれでもなお痙攣を続けたまま、壊れた機械のように絶叫を撒き散らし続けていた。

 今やこの踊り場は日常から隔絶された地獄となっていた。

「───っ‼」

 叫び出したかった。今すぐこの恐怖に身を任せてしまいたかった。

 だが緊張で掠れた喉からは、ひゅうひゅうと短い笛のような音しか出てこない。肺が役目を忘れてしまったかのように空気をせき止め、ただ引き攣った蠕動ぜんどうを繰り返していた。そんな体に必死に酸素を送り込もうと、マキは涙交じりの呼吸を何度も繰り返す。恐怖に呼吸すらままならない中、自身の内側で暴れ回る狂乱をなんとか抑え込む。

 そんな中、ふと、マキは視線を感じて顔を上げた。

 目の前には、自分たちの姿が映る大鏡。膝をつくマキと都と七尾。狂った声を上げる少女たち。その背後に蠢く黒い影。そして、


 わらわが、じっ、とこちらを見つめていた。


「……!」

 目が合った。鏡の奥からの視線が、じろりとマキをめつける。

 マキは鏡から視線を離し、ぎぎ、と首を軋ませて、隣に顔を向ける。

 黒いわらわがこちらを見つめていた。異様なほど大きな黒目に、縦筋の瞳孔。その瞳はいつかマキが見たものと同じ、狐の目だった。

「なんだ、お前ら」

 知らない声だった。

 それはマキの知っているわらわの声ではなかった。喉奥に血の絡む獣の声。どろりとした声色で獲物を縛る異形の声だった。

 ゆらり。わらわが無言でこちらに近付いてくる。痙攣したまま地面に倒れ伏す美麗を無感動に踏みつけながら、わらわはマキに向かって手を伸ばす。獲物の首に手をかけようと、歪に尖った爪が音も無く迫る。

 そして、その手がマキに触れようとしたその瞬間、ぐいっ、と体を横から引っ張られた。


「!」

「走れ!」


 七尾の声。

 七尾は、ほとんど引き倒した形になったマキの手を引くと、力なく横たわる都を脇に抱えて階段を駆け上がり、廊下の向こうへ走り去った。

 踊り場には、空を掴んだまま動かないわらわと、けたたましい声を上げ続ける少女たちだけが残された。

「…………」

 わらわは上げていた腕を下ろし、しばし自分の手のひらを見つめる。そして背後に首を巡らせると、痙攣する少女たちに向けて。

「黙れ」

 ぴたり、と声が消え、少女たちが動きを止めた。やがて少女たちは四つん這いの姿勢で動き出し、猟犬が主人に傅(かしず)くように、わらわの足元に体を伏せた。

「追え」

 獣の少女たちは地面を這い回り、何度か鼻を鳴らすと、恐ろしい唸り声を上げながら踊り場から飛び出した。

 主の下から逃げ出した獲物を追って。



 ……………………

 ………………………………


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