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「しっ!」
それは都が、スマートフォンの画面に表示された通話ボタンを押そうとした時だった。
都の動向を見守っていた七尾が突如、口の前で人差し指を立て、全員の動きを制した。
そのまま七尾は周囲に視線を向けて、警戒の糸を伸ばす。張り巡らされた意識が、空気に直接触れているかのように鋭敏になる。
机。椅子。黒板。壁。扉。鋭い視線が教室中を駆け抜ける。
そしてそれは、廊下側の窓で止まった。
「…………」
じっ、と七尾は窓を見つめる。ざらついたすりガラスの先には、ぼやけた闇が音もなく漂っている。ひりついた空気に、誰も声を上げることすらしない。この場にいる全員が息を呑んで、すりガラスに映る闇を見つめていた。
そして、
ぬう、
と、闇が蠢いた。
「!」
ぞろりと蠢く闇が、とぐろを巻く蛇のように頭をもたげ、べとりと音を立ててガラスの向こう側から強く押し付けられた。
「……!」
手のひらだった。
闇から生えた二つの手のひらが、ガラスに押し付けられていた。
そして、小さくガラスを軋ませて、ひた、と白い顔が教室を覗き込んだ。
「っ!」
思わず息を呑んだ。
わらわの顔だった。
モザイク状にぼやけたわらわの顔が、すりガラス越しでも分かるほどの異様に大きく見開かれた目玉で、ぎょろぎょろと教室中を眺めまわしていた。
心臓が跳ねた。瞬時に全身に緊張が張り詰める。わらわの視線が、でこぼことしたモザイク模様のガラス越しに全身を舐め回す。
マキは震える手で口を抑えて息を止める。わらわの頭の上にある大きな耳が、微かな音も聞き逃すまいと、ピクピクと動いていた。ガラスを白く曇らせる湿った吐息が、音のない教室に生温かく響き渡った。
「…………!」
気付いた。
気付いてしまった。
泣きそうだった。
叫び出しそうになった。
わらわの背後にあるものに、気が付いてしまった。
両手と顔をべったりと窓ガラスに押し付けた、わらわの背後には、生気を失った美麗たちの影が映っていた。
黒いわらわの背後に付き従う、少女たちの影。すりガラス越しに見えるその姿はおぼろげで、柳の下に佇む幽霊のような冷たい気配を纏っていた。生きた人間が持つべきなにかを決定的に失った、がらんどうな死人の気配。
涙が溢れた。声を漏らさないよう袖に口を押し付けた。気付かれたら最後、自分もああなってしまうのだと、そう確信した。
震える唇を噛み締めて必死に声を殺す。
息が漏れないように、決して気付かれないように。
「……………………」
どれだけの時間が過ぎただろうか。やがて影は窓から離れると、ゆっくりと廊下を歩きだし、教室の扉の先へと消えていった。
「…………」
沈黙。無音。
残された緊張に誰も口を開かない。わらわが去って、その気配を感じられなくなってからも、しばらくは誰も身じろぎひとつしなかった。
やがて三人は周囲から音も気配も無くなったことに気が付いて、互いに視線を交わし、そして誰ともなく安堵のため息をついた。
その瞬間。
がりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがりがり‼
「───ひっ!」
突如、教室の扉が凄まじい音を立て始めた。
まるで扉の開け方を知らない動物が、爪を立てて扉を引っ掻くようなその音に、全員が短い悲鳴を上げる。
扉にはめ込まれたすりガラス越しに見える人影が、今にも扉を破らんと両手の爪を突き立てる。施錠された引き戸は壊れそうなほど振動し、軋んだ叫び声を上げながら徐々に歪みを生じさせる。
「やばい!」
七尾が慌てて駆け出して扉を押さえ、都がそれに続いた。
「うっ、ぐ……!」
扉に密着したまま力を込める七尾の顔に、ガラス越しに鋭い爪が突き立てられた。
がりがりとガラスを引っ掻く感触が、薄いガラスを通して頬に伝わる。
やがてガラスの硬度に耐え切れなくなった爪が割れ、赤い飛沫が飛び散った。だが少女たちはそれをまるで意に介することなく、爪が剥がれ落ちてもなお七尾に爪を立てようと、血染めの指でガラスを執拗に叩き続けた。
「わああああああああああああああっ‼」
視界が赤に染まっていく。透明なガラスのキャンバスが、クレヨンの落書きのように滅茶苦茶な赤色に塗り潰される。自分に向けられた狂的な執念と、おぞましい殺意に、声を上げずにはいられなかった。
それでもここを離れるわけにはいかないと、七尾は絶叫で恐怖を麻痺させながら必死に扉を押さえ続けた。
「……っ」
その様子を目の当たりにしながら、マキはその場から動くことが出来ずにいた。
今から助けに向かっても、扉は七尾と都が押さえているし、これ以上は人が多すぎて邪魔になる。かと言って何もしないわけにもいかない。
「えと、えっと……」
その場でたたらを踏みながら、マキは考えを巡らせる。
なにか出来ること、私がやるべきこと……考えろ。
逃げ道。扉はダメ、窓も無理だ。逃げられない。持ち物は財布、懐中電灯、お供え物、御守り、手鏡……。駄目だ。どれも使えそうにない。
それでも何かないだろうかと、縋るようにスマートフォンを手に取った時だった。
ぽっ。
小気味のよい音を立てて、画面にポップアップが表示された。
『坂田美麗、メッセージ一件』
「えっ?」
それはチャットアプリからの通知だった。美麗の名前に一瞬、マキは放心する。そして半ば無意識的に通知タブを押してチャットを開くと、短いメッセージが表示された。
『あけて』
マキがそれを見たのと同時に、再びスマートフォンが、ぽっ、と音を立てて新たなメッセージを受信した。
『あけて』
「あ……あ……」
マキは美麗のメッセージと、激しく振動する扉を交互に見る。
違う、美麗ちゃんじゃない……。このメッセージを送っているのは……あの、扉の向こうにいるのは…………。
冷たい思考が頭の中を広がってゆく。
ぽっ、
スマートフォンが音を立てる。
固くなった唾を飲んで、画面を見る。
『あけて』
冷や汗が頬を伝う。
ぽっ、
『あけて』
画面から、目が離せない。
ぽっ、
『あけて』
通知が、止まらない。
ぽっ、ぽっ、ぽっ、ぽっ、ぽっ、ぽっ、ぽっ、ぽっ──────
『あけて』『あけて』 『あけて』 『あけて』『あけて』『あけて』『あけて』 『あけて』『あけて』『あけて』『あけて』 『あけて』『あけて』『あけて』『あけて』 『あけて』『あけて』『あけて』『あけて』
「いやあああああっ‼」
悪寒が全身を駆け上がった。衝動的にスマートフォンを投げ捨ててしまいたかったが、意思とは反対に体が硬直したまま動かない。端末を持った手が、画面から離せない目が、見えない何かに強要されているかのように、流れるメッセージを受け止め続けていた。
そして、
ぽっ、
『あいた』
かちり、と音を立てて、施錠されていた扉の鍵が外れた。
「うわっ!」
七尾が咄嗟に都を抱えて扉から飛び退く。同時に扉を引っ掻く音が、ぴたりと止まった。
動かなくなった扉の隙間から、背筋の冷たくなるような気味の悪い空気が流れていた。
そして、薄く開いた扉の縁に、する、と白い指がかかった。
「…………!」
ず、ず、と軋んだ音を立てて開かれる、歪んだ引き戸。そのまま、ぽっかりと口を開けた闇から伸びる手と共に、
ぬう、
と、わらわが姿を現した。
夜を食らうような暗闇を濃縮した気配を放つ、黒いわらわ。その背後には四つ足で廊下を這う少女たちと、鍵束を手にした美麗が、幽鬼のような青白い表情で佇んでいた。
美麗は鍵束をポーチに戻すと、糸が切れたようにその場に崩れ落ち、はあはあと荒い呼吸を繰り返して周りの少女たちと同じように地面を這った。
涎を垂らして牙を剥く獣の少女たちは、陣形を組みながらじりじりと獲物に迫る。
七尾がマキと都を庇いながら後ろへ下がるが、既に逃げ場はどこにも無かった。
三人は追い詰められる形で教室の隅へ、ゆっくりと後退する。唸り声を上げる獣の群れが近付くにつれ、血と髪の毛を焦がしたような獣臭は密度を増し、生暖かい呼気が剥き出しの肌を舐め上げた。
とん、と背中に触れた壁が、これ以上の逃げ場がないことを伝えてくる。それでもなんとか後ろに下がろうと背中を壁に押し付ける。
もはやここから逃げ出す道などありはしない。恐怖で締め上げられた喉が、悲鳴を上げることすら許さない。
四方に広がる獣の中心から、わらわが一歩、踏み出した。
病的に白い顔。不敵に浮かべた笑み。だがそこに人並みの感情はない。ただ上辺だけを模倣した異形の笑顔。歩くたびに濃い墨を垂らしたような艶めいた黒髪が闇を揺らし、夜に溶ける黒い和服が喪服のように死を暗示させた。
マキは、都は、七尾は、互いの体を庇い合い、一塊になって身を寄せ合った。
何も考えられなかった。ただ恐ろしかった。最後まで諦めないという先ほどの決意など一瞬で吹き飛んだ。
恐怖で摩耗した心が、諦めろと告げていた。
ざり。
わらわの足が目の前で止まる。
「…………」
沈黙。圧力。どす黒い、圧倒的な存在感に、視線を上げることすらできない。体がどうしようもなく震え、ただただ涙が溢れた。
これで終わりなんだ。
そう確信したマキが一言、絞り出すように叫んだ。
「助けて……っ!」
断末魔の悲鳴のような懇願。だが、そんな願いが聞き入れられるはずもなく、わらわの手がゆっくりと、無慈悲に伸ばされる。
マキは涙を流し、恐怖から逃れるように、強く、目を閉じた。
「………………………………」
空白。
静寂。
直後に感じるはずの恐怖と苦痛はいつまで経っても訪れず、ただ透明な時間だけが過ぎていった。
「マキ」
名前を呼ぶ声。
聞き慣れているような、どこか懐かしいような声。
まるで朝のベッドで誰かが起こしてくれているような、そんな優しい声。
もしかして今まで見ていたのは夢? すごくリアルな悪夢を見ていたのだろうか。
「マキ」
また呼ばれた。おばあちゃんかな? でもこれは、おばあちゃんの声じゃない。
誰? そこにいるのは。
マキは瞼を開き、ゆっくりと顔を上げた。
そこにあったのは、自室のベッドでもなく、救いの見えない悪夢の教室でもなかった。
「…………わ、」
そこにいたのは、
「また、困りごとか?」
黒衣の
「わらわちゃん!」
白いわらわは目を細め、静かな笑みを浮かべた。
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