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学校という場所は、昼と夜とでその印象を大きく変える。
昼の学校では常にどこかで人の気配がしているが、夜の学校にはそういった生活音というものが一切ない。まるで昼間の喧騒が全て、夜の暗がりに食べられてしまったかのよう。いつもは子供たちの元気な声が響く学び舎は、今ではしんとした静寂に包まれて、まるで果てのない暗闇にそびえ立つ巨大な怪物のように見える。
暗がりに見える学校の窓からは、ぼんやりとした非常灯の明かりが吐き出され、緑に光る怪物の舌のように、ぬらぬらと夜の景色を舐めていた。
「よっ……と」
そんな学校の校門を乗り越える影がひとつ。
「ほら、早く来いよ」
影の主は七尾だった。呼びかける先にはマキと都と、その他にも何人かの人影がある。いずれも先日の『おまじない』に参加した女子たちだ。
「む、無理だよ、七尾ちゃん」
マキがたった今校門を乗り越えた七尾と、自分の身長を超える塀(へい)を交互に見ながらあたふたする。
「あー、そっか。じゃあ私が上から引っ張り上げるよ」
七尾が跳躍して再び堀の上に登ると、女子の中から声がした。
「そんなことしなくっても大丈夫だよ」
くすくすと笑いながら歩み出たのは、坂田美麗。
あの、黒いわらわを呼びだした張本人。
美麗は、おとぎ話に出てくる女の子のような、少し浮世離れした服装で手招きする。
「こっち、入れるところがあるんだ」
そう言って美麗は校門の壁沿いに道を歩いて先導した。マキと都は互いに顔を合わせると、下りてきた七尾を伴ってその後に続いた。
そこは学校の端にある、大きな植木の目立つ
その植栽地の端に、塀の一部がフェンスになっているところがあった。
元々は塀だったであろうその部分は、木の成長を阻害しないためか、はたまた成長した木に追いやられたためか、後付けされたフェンスにすり替わっている。そしてやはり、伸び放題のまま放置された木によって盛り上がったフェンスは、今にもはち切れそうな見た目をしていた。
「ほら、ここ」
美麗が歪に膨れ上がったフェンスを指差す。その先を見ると、フェンスの端が大きく
それはちょうど、子供一人が通り抜けられる程度の大きさだった。
「ね、これなら塀を越えなくても入れるでしょ?」
に、と笑う美麗に、マキは思わずつぶやいた。
「こんなところがあるなんて知らなかった」
「すごいでしょ、私もたまたま見つけたんだ」
そして言う。
「なんでもこの木は曰くがあるみたいで、木を切ろうとすると必ず不幸な事故が起きるんだって。それで仕方なく塀を壊してフェンスに替えることにしたんだって」
突然始まった怖い話に釣られてマキは木を見上げる。ただでさえ、夜の学校という鳥肌が立ちそうな場所に入ろうと言うのに、こんなところから出足を挫くようなことを言われると、帰りたいという気持ちが強くなる。
そんなマキの内心を知らずか、美麗は慣れた感じでフェンスを潜り抜けていく。
「ほら、早く早く」
美麗の呼びかけに、取り巻きたちが順番にフェンスを潜っていく。
そして、それに続こうとマキが腰を屈めようとした時だった。
「マキさん」
誰かに袖を引かれた。
都だ。
「マキさん、これ」
都は、なにか小さなものをマキに手渡した。
「?」
それは赤い布地でできた、小さな御守りだった。表には近くの稲荷神社の名前が書いてある。
「厄除けの御守りです。気休め程度ですが、一応持っておいてください」
そう言って都は、七尾にも同じものを手渡す。
「これは以前、わらわさんに対抗するために用意していたもので、その、実際に役に立つかは分かりませんが、何も無いよりはマシかと……」
わらわに対するマキの気持ちを考えてか、やや遠慮がちな声色だった。そこまで気を使わなくてもと思わなくもないが、こういった誠実さと準備の良さは都らしかった。
「うん、ありがとう」
マキは御守りをポケットに入れると、先に行った子に続いてフェンスを潜り抜けた。
そして一行はフェンスを抜けると、校舎前までやってきた。
校舎の正面はガラス張りの両扉で覆われており、その奥にある下駄箱から先は、見通すことのできない闇が広がっていた。
扉の取っ手を引くと、やはりと言うか、がちりと施錠されている手応えがあった。
「閉まってるよ」
「任せて」
美麗が肩掛けのポーチを探りながら扉に近づくと、かちりと小さな音を立てて鍵が開いた。
「ジャジャーン」
大袈裟に両手を広げながら、美麗は扉を両側に開け放つ。
「な、なんで?」
「いいでしょ、これ」
美麗はマキの目の前で、手にした鍵束をじゃらじゃらと鳴らしてみせた。鍵束には様々な形をした銀色の鍵と、マキたちの担任教師の名前が書かれたタグがついていた。
「
担任を呼び捨てにしながら、美麗と取り巻きたちは笑う。
「栢森、めちゃくちゃ慌ててたよね」
「校長にも怒られたらしいよ」
「いいザマだよ、あいつキモいし」
次々に溢れ出す蔑みの言葉に、マキは思わず眉をひそめた。確かに担任の栢森は脂ぎった中年男性で人間的な魅力に欠ける人物ではあるものの、そこまで言われる筋合いはないはずだ。教師を見下して笑う彼女たちの姿に、もやもやとした感情が渦を巻く。
だからと言って、わざわざそれを止めるようなことはしなかった。今回の目的はあくまで、わらわの真意を見極めることだ。わらわが何のために彼女達と行動しているのか。どうして以前とは違う姿をしているのか。そして、どうしてマキの下を離れたのか。「ここには戻らない」と言っておきながら、こんな形で再び現れた理由はなんなのか。
それがどうしても知りたかった。
「…………」
影のように美麗の隣に立つ黒いわらわを見て、マキはそう強く思った。
*
真夜中の校舎を一筋の光が通り抜ける。
周囲に広がる闇を丸く切り取るその光は、青い制服の警備員が手にした懐中電灯によるものだ。
少女たちは、視線を交えて辺りを照らすライトを避けながら、暗がりに身を潜める。
機械警備を導入していない原綿小学校では、警備員による昔ながらの見回りが行われている。昔は宿直の先生がいたそうだが、教師の成り手が少なくなった今では民間の警備会社に業務を委託している。保護者からは、素人の教師よりも安全だと評価されていることではあるが、そのためにマキたちは不用意に懐中電灯やスマートフォンの明かりを使うことが出来ず、点々と配置された緑色の非常灯と昼間の学校の記憶を頼りに先へと進んでいた。
「行ったよ」
警備員が立ち去ったのを確認して、少女たちは再び動き出す。
先頭を行く美麗は、真っ暗な校舎の中を慣れた様子で先へと進む。多分、今までにも何度か夜の学校に忍び込んだことがあるのだろう。マキたち三人は、はぐれないよう互いに手を繋ぎながら追従する。
そしてようやく暗闇に目が慣れて、黒に沈んでいた周囲のシルエットがぼんやりと認識できるようになった頃。
「ここだよ」
少女たちは壁一面に広がる、姿見鏡の前に辿り着いた。
そこは一階から二階に繋がる階段の踊り場だった。少女たちが横一列になってもなお余裕のある踊り場には、その壁を隙間なく埋め尽くす、一枚の巨大な鏡が張り巡らされていた。
鏡の中には、踊り場に立つ自分たちの姿と、後方に広がる上下階段が映っている。暗闇のせいか位置関係のせいか、鏡に映った階段の先を見通すことは出来ない。日常的に目にしている場所のはずなのに、なぜか初めて足を踏み入れる場所のような、不気味な感覚があった。それは暗闇のせいでもあったし、こんな時間に学校に忍び込んでいるという、後ろめたさによるものでもあった。
ぶつりと暗闇で途切れた鏡の階段が、この世ではないどこかに繋がっているかのように、真っ黒な道を無言で敷いていた。
「それじゃあ改めて、『わらわちゃん』の『おまじない』の説明をするね」
美麗の言葉に全員の視線が向けられる。
「手順は簡単。夜中の二時に鏡の前でお供え物を用意してこう唱えるだけ。『わらわちゃん、わらわちゃん、おともだちになってください』」
既に知っている説明を聞きながら、これからやるものが自分たちの知る『おまじない』と同じものであることを確認する。
「さ、まずはわらわちゃんへお供え物をしよう。みんな、ちゃんと持ってきたよね?」
美麗に促されて、各々が鞄やポーチからお供え物を取り出した。マキ、都、七尾はいなり寿司を、その他の女の子たちは包装紙に包まれた和菓子や市販のスナック菓子など、思い思いのお菓子を用意していた。
「えー、マキちゃん本格的~」
マキが手にしたいなり寿司を見て、取り巻きの女子がにやにやとした笑みを浮かべながら黄色い声を上げる。
「あ、うん。ちゃんとしてた方がいいかと思って……」
「あはは、真面目ちゃんじゃん」
「いやー、いなり寿司は流石に古臭すぎるって」
「みんなやめなよ~。せっかく溜井戸さんも本影さんも、雰囲気出そうと頑張ってくれてるんだよ~」
明らかな嘲笑が込められた言い回しに、都は無言のまま準備を進める。その態度が怒りを押し殺している時のものだと知っている七尾は、内心で冷や汗をかく。
「それで結局、わらわちゃんってなんなんだ?」
七尾は流れを変えようと、そう聞いてみた。
「……………………」
「?」
取り巻きたちの間に何故か、妙な空気が流れ始めた。彼女らはそれぞれ互いに視線を交わしながら、不思議そうな顔をする。
「…………さあ?」
しばらくの空白の後に出た言葉がそれだった。
「はあ?」
七尾自身、この問いかけに明確な答えを期待していたわけではなかった。だが、こんなところまで来ておいて何も知らないと言う取り巻きたちの考えのなさには、どこか落胆を感じるところがあった。
嫌味くらい言ってやろうかと考えた七尾だったが、先に口を開いたのは美麗だった。
「わらわちゃんはね、子供が大好きなお稲荷様なんだよ。でも本当は、わらわちゃんもみんなと『おともだち』になりたいと思っているの。わらわちゃんは普段、私たちと関わることが出来ないんだけど、そんなわらわちゃんと縁を繋ぐことの出来る方法が、この『おまじない』なの」
「⁉」
突然の言葉に声を失った。それはあの黒い本に書いてあった内容と同じ、いや、それ以上のものだった。
そうだよね、と背後に語りかける美麗。それを受けるわらわは、着物の袖で口元を隠しながら静かに微笑んでいる。
「今日学校で紹介したから、今ここにいるわらわちゃんは、みんなにも見えているよね? でもそれだけじゃ不十分。だって『おまじない』をしたのは私だけだから。わらわちゃんと本当の『おともだち』になるには、みんなも『おまじない』をしなくちゃいけないの。わらわちゃんも、みんなともっと仲良くなりたいと思っているんだよ。
だからみんなも『おまじない』をしよう? わらわちゃんの本当の『おともだち』になろう?」
熱に浮かされたような美麗の語りに引かれるように、高揚した空気が周囲を包む。夜気に晒された冷たい頬に、じんわりと火照りのような熱が広がった。しかしそれと同時に、この美麗という少女の持つ不気味な気配と、より長くわらわと行動していた自分たちさえ知り得なかった黒い知識に、どこか冷たいものを感じずにはいられなかった。
「さあ、もうすぐ時間だよ。準備をしよう」
スマートフォンで時間を確認した美麗が、鏡の前にお供え物を置くと、他の子たちもそれに倣ってお供え物を置いた。
準備を済ませた少女たちは、おまじないの手順を再度確認すると鏡の前で横一列に並ぶ。その時が近付くにつれて緊張が高まっていき、やがて誰ともなく口をつぐんだ。
美麗がカウントダウンを始め、期待と興奮が入り混じった空気が伝播する。
そして少女たちは声を合わせ、その言葉を口にした。
「わらわちゃん、わらわちゃん、おともだちになってください」
瞬間、
少女たちの絶叫が、
夜の校舎に響き渡った。
黒いわらわの、黒い笑みが、鏡の奥から覗いていた。
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