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「はあ……………………」

 学校からの帰り道。とぼとぼと通学路を歩きながら、マキは深いため息を吐いた。

 あれから都は教室に戻ってこなかった。七尾によると、人気のない廊下で過呼吸を起こしていたため保健室に連れて行ったそうだが、後になって様子を見に行くとそのまま調子を崩して早退したということだった。

 心配になってメッセージを送ってみたが、放課後まで既読はつかなかった。

 結局、今朝の一件は都抜きで話を進めるわけにもいかず、かと言って何もしないわけにもいかずといった感じで、マキと七尾は二人して頭を悩ませたのだが、早々上手い案など出るはずもなく、最終的には各々で解決策を考えておくことになった。

 もっとも、このような事態を解決する方法など、存在するかも怪しいのだが。

「はあ…………」

 そんなわけで、マキは何度目になるか分からないため息を吐くのだった。

 神社やお寺に行ってみたり、身近な大人に相談してみることなども考えたのだが、こんなことを急に相談しに行っても信じてもらえるかも分からないし、そうでなくても今の時期はどの神社も、『とうかさん』の準備があってバタバタしている。他の大人にしても、真面目に取り合ってくれるとは思えない。

 都が持ってきた黒い本をもう一度読んでみようかとも考えたのだが、今朝の騒動の後にマキが教室に戻ると、机の上に広げてあったはずの本は消えてなくなっていた。どこかに紛れてしまったのかもと思い、机やランドセルの中も探してみたが、結局あの本は最初から存在していなかったかのように忽然と消えてしまった。

 こうなるともう手がかりになりそうなのは、わらわ当人しかいなさそうなのだが、もしもわらわが都の言う通り悪意のある存在なら、こちらの勘繰りを悟られた時点でなにか良くないことが起こりそうな気がして不安になる。

「……………………」

 そうして悶々と歩みを進めている内に、いつの間にか自宅まで辿り着いていた。

 マキは家の鍵を取り出してから、しばし玄関前で立ち尽くす。

「…………」

 毎日帰っているはずの家が、なんだか知らない家のように感じられた。

 そんなはずはないと頭では分かっているのに、自分の感覚が心のどこかでそれを否定していた。

 マキ自身、わらわに対する不信感が拭えずにいるのだ。都の話を抜きにしても、わらわは尋常な存在とは言い難い。あの時はむきになって都に反発したが、わらわを訝しむ意見を否定することができないこともまた事実だった。

 友達であるわらわを信じたいという気持ちに偽りはない。しかし、それとは別のところで感じる、粘つく泥を飲んだような重たい感情が確かにそこにあった。

 ごくり。心の内に湧き上がる緊張感を、唾と一緒に飲み下す。

 いつまでもこうしてはいられない。マキは一度深呼吸をすると意を決して玄関の鍵を開けた。

「ただいまー」

 いつものように靴を揃えて玄関を上がる。他に靴がないところを見るに、家族は外出中らしい。廊下に繋がる照明を点けて洗面所に向かい、手を洗ってダイニングに入ると、わらわがテーブルに着いて、いなり寿司を食べていた。

「おお、おかえりマキ」

 わらわは笑顔を浮かべて手のひらを見せる。

 そうして再びお皿に乗ったいなり寿司に手を付ける。お皿の隣にはくしゃくしゃになったラップと、「好きなだけ食べてね」と祖母の書き置きがあった。

「そろそろ帰ってくる頃だと思っておったぞ」

 そう言ってわらわは、大きないなり寿司を丸ごと口に放り込む。

 その光景にマキは内心で胸を撫で下ろした。わらわが食べているいなり寿司は、先だって祖母にお願いしていたものだ。それを確認したことで朝からずっと危惧していた、わらわへのお供え物を切らしているのではないか、という不安はひとまず解消された。

 冷蔵庫にあったお茶を注いで椅子に腰掛けると、体に張っていた緊張がほぐれて気持ちが楽になった。

「お腹空いとらんか? わらわはお腹ペコペコじゃから先にいただいておるぞ」

 わらわは口をぱんぱんに膨らませて、いなり寿司をひとつ差し出す。

「う、うん、大丈夫。全部食べちゃっていいよ」

「本当か⁉ やったー!」

 両手を上げて喜ぶわらわにマキは安堵する。こんなに無邪気に喜びながらいなり寿司を頬張るわらわが、悪い妖怪や害のある怪異だとはどうしても思えなかった。そして、そんなわらわを疑った自分が恥ずかしく、なんだか申し訳ない気持ちになった。

 やっぱり、わらわちゃんが悪い怪異なはずないよね……。

 きっとあの本に書いてあったことは間違いか、たまたまわらわと似ているだけの無関係な内容だったんだ。

 そう思うと、なんだかおかしくなって自然と笑みが零れた。

「な、なんじゃ?」

 突然、くすくすと笑いだすマキにわらわが困惑する。いなり寿司を手におろおろと戸惑うその様子がまた可愛らしく、こんなわらわを一日中疑っていた自分がおかしくなり、抑えきれずに声を出して笑ってしまう。

「あはっ! あはははははは!」

「ま、マキがおかしくなってしもうた……!」

「ごめっ、ごめん! あはは、ホントごめん! そうじゃなくて、あははははははは!」

 我慢しようと思うと、更に笑いが込み上げる。

 マキはお腹を抱えてひとしきり笑うと、目元に浮かんだ涙を拭った。

「あー、おかしい。ごめんねわらわちゃん」

「いきなり笑いだすから、こっちはびっくりしたぞ」

「ごめんごめん、そんなつもりじゃなくて」

 胸の前で手を振って否定するが、小さな笑いがまだ心の中に残っている。

「なにか面白いことでもあったのか?」

「実は今日は学校でね───」

 首を傾げるわらわに、マキは今日の出来事を話し始めた。


 ………………………………


 …………今にして思えば、これが私たちの運命を変えた瞬間だったのだろう。



         *


 マキの話は長くも短くもない時間でまとめられた。

 山になっていたいなり寿司は、話が終わる頃には、わらわによってひとつ残らず平らげられていた。

 顛末を話し終えたマキは、改めてその内容と、目の前で空になったお皿を眺めて口を結んでいるわらわを照らし合わせて、そのギャップに笑った。

「あはは、ごめんね。わらわちゃんがそんな本に出てくるような、変なのとおんなじ名前なんだと思うとおかしくって」

 恐ろしい怪異。不気味な怪談。どれもわらわには似合わないものだ。いつものご飯をねだりにくる様子からは、そんなものに関係しているとは到底思えない。恨みを込めて人を呪うわらわの姿を想像すると、その似合わなさに再び笑いが込み上げた。

「おかしいよね、わらわちゃん」

「………………」

 返事は無かった。

 わらわは空になった皿を見つめたまま動かない。普段は感情に合わせてせわしなく動いている耳や尻尾も、固まったように動いていなかった。

 不思議に思い、マキは声をかける。

「わらわちゃん?」

 その瞬間、マキは自分の行動が誤りだったことを知った。


「なんじゃ」


 知らない声だった。

 いや、それはわらわの声に違いなかったが、普段のわらわとはまるで違う、低く冷たいものだった。初めて聞くその声色に、目の前にいるのは、わらわと同じ見た目をした別人ではないかとすら錯覚した。


 ぞ。


 突如、空気が陰った。

 部屋の明度がいきなり影を落としたように下がり、肌を撫でる空気の温度がまるで冷蔵庫の扉を開けたように冷たくなった。

 ひどく現実感のないその感覚に、マキの全身が総毛立つ。鋭敏になった肌の表面を、ひんやりとした空気が撫でていく。陰鬱とした影の滲む室内は、春の夕暮れ時とは思えないほど薄暗かった。

 マキは椅子に座ってわらわの方を向いたまま動けない。まるで体が凍り付いてしまったかのようだ。

 まばたきすら出来ずに硬直するマキ。その視線の先には、こちらを、じっ、と見つめるわらわの目があった。

「………!」


 黒目が異常なほど拡大していた。


 大きく広がった黒い角膜が、本来あるべき白目を塗り潰しており、その中には赤みを帯びた深い縦筋の瞳孔があった。

 それはまるで猫科動物の瞳のようだった。

 いや、それは狐だった。人を化かし、人に取り憑く狐の目そのものだった。

 その目がマキを見つめている。マキの存在を視線越しに飲み込むように捉えて離さない。

「マキ」

 怪異が言った。

「わらわを信じられんのか?」

 その言葉にマキは肯定も否定も出来なかった。喉が痺れ、声が出せなかった。ただ恐ろしかった。異常な状況、異常な瞳、異常なわらわ。恐怖に縛られた体は硬直したまま、ぴくりとも動かない。蛇に睨まれた蛙のように、マキはただ飲み込まれるのを待つだけだった。

「マキ、わらわを怒らせないでおくれ」

 は、白い顔に大きく空いた穴のように真っ黒な瞳と、真っ黒な口で語りかける。

 マキは答えられない。こちらに向けられた三つの悍(おぞ)ましい穴から視線を逸らせずにいる。開かれたまま硬直した瞼は目を瞑ることすら許さない。

 そんなマキを黙って見つめるそれは、一言も発さず硬直するマキの姿を眺め、やがてゆっくりと立ち上がった。

 そして、

「…………そうか」

 一言、そう言うと、


 す、


 と、衣擦れの音を立てて歩きだした。

 歩きだし、机を隔てたマキの方へと近付いてくる。


 す、


 動くことのできないマキは、わらわが座っていた空っぽの席を見つめることしかできない。

 わらわがマキの隣を通り過ぎ、視界から完全に見えなくなる。


 す、


 背後に衣擦れの音が響く。

 そして、


 ぴた、


 と、マキの背中に張り付くように、それは立った。


「………………………………」


 視線。

 背後から感じる、視線。

 それはマキの背中にぴったりと密着したまま動かない。ただ首の後ろに感じる、焼けつくような視線だけが、背後に立つそれがこちらを見ていることを感じさせた。

 音のなくなった空間に、自分の呼吸音だけが響いている。恐怖で今にも途切れてしまいそうな呼吸に反比例するように、心臓が激しく鼓動する。

 呼吸。視線。永遠に感じる時間。

 そして、


 突如、視界が白に埋め尽くされた。


「────!」

 それは髪だった。首(こうべ)を垂れたわらわの髪がマキの視界を埋め尽くしたのだ。

 白く長い髪が頭を、顔を、目を、鼻を、口を、首筋を、肩を、胸を、すだれのように覆う。動かすことのできない空っぽの視界が白で細断されてゆく。そして、マキに覆い被さった頭から感じる真っ黒な三つの穴。そこから漏れ出す、狐の視線と甘い油の匂いが混じった吐息が、マキの精神を恐怖と狂乱に染め上げた。

「────っ!」

 何をされているのか分からなかった。動くことも声を上げることも出来ない状況で行われる、この異常な行為がひたすらに恐ろしく、マキの心は気が狂わんばかりの悲鳴を上げていた。

 おかしくなりそうだった。いや、早くおかしくなってしまいたかった。こんな恐ろしい状況で狂気に飲み込まれずに、未だに正気を保っている自分の精神に狂ってしまいそうだった。

 そんな中、マキはふと気が付いた。

 それが何かを言っている事に。

 頭に押し付けられた口で何かを捲し立てている事に。

 マキは混乱の中、なんとかその言葉を聞き取ろうと意識を引き上げる。

 しかし、


「────ここへは戻らん」


 ぽつり、とわらわの声。

 そして、それを最後にわらわの気配が、ふっと消えた。先ほどまで感じていた肌寒さも、底知れない狂気も、まるで存在していなかったかのように空気中に霧散した。

 そしてその空気が広がる中、マキの意識も白く溶けていった。


 …………

 ……………………………

 …………………


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