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『わらわちゃん』

　わらわちゃんって知ってる？

　わらわちゃんは子どもが大好きなお稲荷様で、いつも私たちを見守ってくれているんだよ。

　だから困っている子どもに呼ばれたら、必ず助けに来てくれるんだって。

　わらわちゃんを呼ぶ方法はね、夜中の二時に、鏡の前でお供え物を用意してから、こう唱えるの。

「わらわちゃん、わらわちゃん、おともだちになってください」

　そうすると、わらわちゃんが現れて『おともだち』になってくれるんだって。

　でも気をつけて。わらわちゃんがいる間は、お供え物を絶対に切らしちゃ駄目なんだって。

　わらわちゃんは子どもが大好きだけど、友だちを軽く扱う子には、とっても厳しいの。

　もしもお供え物を切らしちゃった子は、『絶交』されて『おともだち』じゃなくなっちゃうんだって。

　墨田英陽（すみだひではる）『消失怪談収集録』

　 

　　　　　　　　　＊

「どう思いますか」

「どうって……」

　机の上に広げられた本と、都のただならぬ雰囲気に、マキと七尾は戸惑いを隠せずにいた。

　この日、いつものように登校したマキが、廊下で顔を合わせた友達と挨拶を交わしながら教室に入り席につくと、それを見計らっていたかのように近づいてきた都が挨拶もせずに言った。

「わらわさんはどうしたんですか？」

　小さな体から滲み出る強い圧。その迫力にマキは思わず気圧される。

「え、えと、今日は家でゴロゴロするって……」

「そうですか」

　都はそれだけ言うと一度自分の席に戻り、ランドセルから一冊の本を取り出すと、再びマキの元に戻ってきた。

「見てください」

　ばさり、と音を立てて黒い本が机に広げられた。

「え？　え？」

　有無を言わせぬ態度にマキは、都と本を交互に見る。

「おはよー……どした？」

　挨拶がてら近付いてきた七尾が、二人の間に漂う雰囲気に眉を顰めた。

「七尾さんもいいところに。見てください、これを」

　七尾が都の指さすページを覗き込む。

「ほら、マキさんも」

　促されるまま、同じページを見た。

「…………『わらわちゃん』？」

　マキと七尾は、同じ言葉を口にした。

「どう思いますか」

「どうって……」

　まず目につくのは『わらわちゃん』という名前。次にマキが行った『おまじない』と同じ内容。どれもあのわらわに、ぴたりと符合している。しかし後半の内容は、全く知らないものだった。

『絶交』という、不穏な空気を感じさせる言葉。これが言葉通りの意味なのか、それともなにかの比喩なのか。どちらにせよ、良からぬ意味を持つものであることは間違いなかった。

「…………」

　七尾は当事者であるマキを、ちらりと見る。

「こんな、ううん……でも、だって…………」

　困惑。不安。動揺。混乱。それらの感情が入り混じった声で黒い本を見つめるマキは、そこにある内容をどう受け止めるべきか迷っているようだった。

　マキのそんな様子をよそに、都が口を開く。

「やはりマトモな存在ではありませんでしたね」

　冷たく言い放つ都。その口調には隠しきれない棘が含まれていた。

「突然現れて『おともだち』だなんて、怪しいと思っていました」

「そんな言い方……」

「一度でもおかしいと思いませんでしたか？　私たちがいない間、本当に異常はなかったんですか？」

「それは…………」

　言葉に詰まった。どう言えばいいのか分からなかった。

　わらわが来てからというもの、目を覚ました時に喉に油のようなものが絡むことが何度かあったからだ。しかしそれを異常と言うのはあまりにもささやかすぎたため、今の今まで話題にすらしなかったのだ。

　言い淀むマキに、都は続けて質問する。

「それで、この『お供え物』というのはどうしてるんですか」

「えっと、多分ご飯のこと、かな……おばあちゃんが、いつも作ってくれてて……」

　途切れ途切れになりながら、祖母の用意してくれるおにぎりやお惣菜を、わらわが頬張る姿を思い出す。

　だが、続く都の言葉に、マキは言葉を失った。

「じゃあ、マキさんは『お供え物』をしていない、ということですか？」

「……！」

　思わず絶句した。

　そうだ、どうしてそんな簡単なことに気付かなかったのだろう。

　マキがわらわに何かをあげたのは、初めて『おまじない』をしたあの時だけだ。それ以降のわらわからの要求は全て祖母に用意してもらったもので、日常的な『お供え物』も祖母の厚意で賄われているものだった。

　背筋が凍った。

　自分の平穏が祖母の厚意によって維持されていて、もしも祖母に何かあれば一瞬で吹き飛んでしまうような紙一重の状態であったことに、マキは今、初めて気が付いたのだ。

『絶交』

　その言葉が現実感を伴って、マキの心にまとわりついた。

　悪寒が全身を舐め上げて、鳥肌が一斉に素肌を駆け上がった。

　もしもこの瞬間、わらわへのお供え物がなかったら、おばあちゃんが何も作ってくれていなかったら、それをわらわが不満に感じて、『絶交』という手段を取ってしまったら。

　そしたら自分は一体どうなってしまうのだろう。

　どっ、どっ、どっ、

　血の気が引いた体の中で、心臓の鼓動だけが激しく響いている。

　騒々しいはずの朝の教室が、まるでそこだけ音を無くしてしまったのではないかと思うほど、静かで遠くに感じられた。

「で、でも、この『絶交』ってのがどういう事かはまだ分からないだろ⁉」

　同じ想像をしたのか、青い顔をした七尾が声を上げる。都は一度ため息を吐くと、前髪に隠れた瞳を七尾へ向けた。

「そうですね、この本には具体的にどうなるのかまでは書いていませんでした。もし『絶交』された場合、何が起こるのかは分かりません。言葉だけ見れば縁が切れるだけなので、わらわさんがどこかに消えてしまうのかもしれません」

「じゃあ……」

「あるいは消えてしまうのは、マキさんの方なのかも」

「⁉」

　衝撃。

　あまりにも突飛な発想に思考が追い付かない。しかし今のマキには、それが行き過ぎた想像だとはとても思えなかった。

　消える？　私が？　嘘。どうして。嫌。

　支離滅裂な思考が、滅茶苦茶になった頭の中を駆け巡る。

「──さん？　マキさん！」

「！」

　錯乱気味の意識が、都によって呼び起こされる。

「もう分かったでしょう？　あれはマトモな存在じゃないんですよ。何かが起こる前にお祓いなり除霊なり、あれを始末するべきです」

「そんな……！」

　ショックだった。わらわをそんな風に、まるで害獣のように扱われたことに胸が痛んだ。

　確かにわらわについては謎も多い。わらわの正体や出自も結局分からずじまいのままだ。だがこのひと月、わらわとは楽しく過ごしてきたはずだ。多少のすれ違いはあれど、都や七尾も含めていい関係を築けていると思っていたのだ。だからこそ、都の悪意ある発言を素直に受け入れることができなかった。

　少なくとも、これまでわらわが周りに危害を加えたことは一度だってないのだから。

　だからマキは信じたかった。そんな得体の知れない本に書かれていることなんかより、自分の友達である、わらわの事を信じたかったのだ。

「まだ分からないよ。そ、そう、一度わらわちゃんに聞いてみてからでも…………」

　その言葉に、都の瞳に落ちた影が一層深くなる。

「ふざけないでください。そんなやつが素直に、『はい、そうです』なんて言うはずないじゃないですか」

「それでも……ここに書かれてあることが、本当だって決まったわけじゃ」

「それこそ間違いだと決まったわけでもありません」

「だからって、そんな急に───」

「『絶交』されてからじゃ遅いんですよ‼」

　都の絶叫に、クラス中の視線が集まった。

　何やら剣呑な雰囲気。周囲は最初、それが普段仲のいい三人組から発せられたものと知ると驚いた顔をしたが、遅れて先ほどの絶叫が日頃大声など出すことなどない都のものであると気付くと、更に信じられないといった表情になった。

　都は、そんな周囲をよそに声を荒げる。

「私とあの化け物、どっちが信じられるって言うんですか！」

　マキは答えられなかった。都か、わらわか、といった問題ではなく、こんな勢いで感情的に詰め寄ってくる都を見るのは初めてで、そのあまりの勢いに思考が停止していた。

　しばらくその状態の膠着が続いたが、次第に都の体がぶるぶると震えだした。肩を上下に揺らしながら、乱れた呼吸のまましゃくり上げる都の前髪に隠れた瞳に溜まった涙が、今にも零れ落ちようとしていた。

　そして、

「マキさんの馬鹿！」

　感情を爆発させて、都は教室から飛び出していった。

「おい！　ミヤ！」

　大きな音を立てて開かれた教室の引き戸が、衝撃を殺しきれず壊れた自動ドアのようにゆっくりとスライドしていた。

　七尾は、開いたままの扉と茫然とした様子のマキを交互に見ると、「悪い」とだけ言い残し、割り切れない表情のまま都を追って走っていった。

「………………」

　二人がいなくなった後の教室で、マキはクラスの注目を一身に受けていた。やがて遠巻きに見ていたクラスメイトが声をかけてくれたが、放心したままのマキはどれも生返事でしか応えられなかった。

「…………」

　机を見ると、『消失怪談収集録』と題された黒い本が『わらわちゃん』のページを広げていた。

　マキはそれを見つめた後、誰ともなく呟いた。

「私、どうすればよかったの？」

　答えは無かった。

　教室の空気にいたたまれなくなったマキは、緩慢な動作で立ち上がると、背中に受ける視線を感じながら教室を後にした。