２

　文化と芸術の発展を重視する原綿市は、図書館の運営にも力を入れている。

　かつてのアパレル産業が隆盛を迎えた頃、当時の市長は、図書館、美術館、博物館を始めとした文化施設に莫大な支援を行った。

『文化無くして進化無し』そんな市長の言葉を題目に始まったこの施策は、原綿市の文化形成に大きな影響を与えた。各種施設の増設に始まり、文化財や資料の収集、研究、展示を推進したこの施策は、今や市内に留まらず県内全域に広がっており、本来は地方では見られないはずの展示や興行なども、必ず原綿市にやってくるほどになっていた。

　この事業に最も熱心に取り組んだ人物の一人である当時の市長は、公金のみならず自らの私財を投じたことでも有名で、原綿市の文化発展に大きく貢献した人物であると知られている。

　そして、そんな過去の恩恵を受けた原綿小学校にも、学校の規模に似つかわしくない、立派な図書室が併設されていた。

　子どもの手が届かないほどの大きさの本棚が部屋の四方を埋め尽くし、それでも納まり切らない数の蔵書が、後付けされた本棚に綺麗に整頓されている様子は、地方の図書館顔負けと言っていい。

　そんな圧倒的な本によって埋め尽くされた空間には、インクと紙の匂いの混じった香りが空気に染みるように広がっていた。

　ぱら、

　静かな空気の中に、小さな音が響く。

　紙をめくる音。それに合わせて古い紙特有の埃っぽい匂いが広がった。

　その音と匂いの出処には、大量の本が山のように積まれてあり、そのどれもが古い蔵書であることが窺える。

　そして、その中に埋もれるように、都がいた。

　ぱら、

　都がページをめくると、再び鼻腔をくすぐる粉っぽい空気が舞い上がる。思わず、くしゃみをしてしまいそうなその空気を、都は気にすることなく吸い込んだ。

　都は、この香りが好きだった。

　本を読むときに、胸いっぱいに広がるこの感覚が好きだった。

　活字の海に浸りながら、自由な文章の波を漂う感覚が好きだった。

　読書とは、都にとって日常の行為であり、心を落ち着かせる手段だった。

　黙々と文章に目を通す都は、ぱらぱらとページをめくり、やがてパタンと本を閉じる。そして次の本を開いては、再び文字に視線を滑らせる。その動きは本を読むためのものではない。必要な知識へのアクセスを目的とした作業だった。

　淡々とした作業。そのスピードは驚異的と言っていい。ページをめくって文字を追う動きに無駄はなく、これまで読書に費やした時間と反復を感じさせる。

　そして、手にした本が目当ての内容ではないことを確認すると、都は無言で本を閉じ、次の本を手に取った。

「……………………」

　都は、わらわを疑っていた。

　このひと月の間、都はずっとわらわを危険なものではないかと疑い、その証拠を探していたのだ。表面上は笑顔で接していようとも、本心では一度たりとも気を許さず、監視し続けていた。

　初めに感じたのは脅威だった。得体の知れない存在に対する脅威。これはよくないものだと、都の直感が告げていた。

　直感とは、言語化できない思考の延長だ。人間の思考とは表面上のものだけではなく、言葉で表せない無意識の領域がある。それは時に、あらゆる過程をすっ飛ばして答えに行きつくことがある。それが直感として現れるのだ。

　少なくとも都はそう思っていた。

　　　　　　　　　＊

　都には幼少期の記憶がない。

　最初の記憶は、真っ白な室内の病室だった。

　頭や体から延びたコードがよく分からない器械に繋がっていて、一定のリズムで電子音を鳴らしていたことを、都は今でもハッキリと覚えている。

　自分は誰なのか、なぜこんな所にいるのか、今までどうしていたのか、思い出せるものは何もなかった。不思議とパニックはなかった。ただこれが記憶喪失というやつなんだな、と冷静に自分を俯瞰すると同時に、これから起こるであろう事態を想像してひどく面倒な気分になった。

　やがて目を覚ました都に気付いた看護師が医師を呼び、問診や検査を繰り返した末、やはり記憶喪失であると告げられた。

　どうやら自分は事故に遭ったようだった。両親ともに交通事故に巻き込まれて、生き残ったのは自分だけだったと。しかし両親の顔も思い出せない都には、自分ではない誰かの話を聞かされているようで、特別感傷を抱くこともなかった。

　都、という自分の名前を教えられた時も、なんだか他人の名前を与えられたような気がして、慣れるまで時間がかかりそうだなと思った。

　その後は色々と難しい話を聞かされて、その内容の半分も理解できないまま長期入院が決まった。それからは毎日何人もの大人が来て、都には分からない話や、知らない話をして帰ってゆく日々が続いた。

　書類を手に難しい顔をしたスーツのおじさん、経過観察だと写真を撮っていくカラフルな服のお姉さん、目に涙を浮かべたおじいさん。みんな知らない人だ。

　ある日、両親のことを教えてくれたお医者さんが、誰かと口論しているのを見かけた。何の話をしているのかは分からなかったが、自分の名前が出ていたのでまた面倒なことになるんだなと思った。

　数日後、大きな病院に転院することが決まった。

　その日から、病院の中と病室の窓から見える景色だけが、都の日常となった。

　今まで来てくれた大人は誰も来なくなった。先生や看護師さんも知らない人になった。ただみんな、とても機械的に働く人ばかりだった。そこでは全てがスケジュール通りの生活だった。決められた時間に起き、決められたご飯を食べ、定期検査や投薬があり、決められた時間に寝る。目に入る景色はいつも同じ。白い壁、白い天井、白い機械、白い服の大人たち。そこは自由から隔絶され、全てが管理された白の世界だった。

　ひどく退屈でつまらない世界だった。

　だが、そんな世界の中、本だけは自由だった。

　誰がよこしてくれたのか、外からの差し入れだと様々なジャンルの本が都のベッドの棚に積まれていた。

　そこには全てがあった。白以外の色がそこにはあった。誰かが空想した赤い物語。誰かがまとめた青い知識。誰かが辿った緑の軌跡。本は白に染められた都の心に鮮やかな色をくれた。

　いつしか都はこう思うようになった。本とは書いた人の色彩なんだ。本を読むということは、その人の色をもらうことなんだ、と。

　都は読書に耽溺（たんでき）し、有り余る時間を読書に注ぎ込むようになった。睡眠、食事、問診、検査、投薬。それ以外の時間は全て読書に費やした。どれだけの間そうした生活を続けたのか、もはや都にも分からなかった。

　やがて、都に退院の日取りが告げられた。

　退院に際して中年の夫婦が都を迎えに来た。黒髪に白髪交じりの男の人と、少し太った女の人。聞けば彼らが都の新しい保護者ということだった。

　彼らに連れられ、都は病院の外へ───意識を取り戻して初めて出たのだった。

　夫婦は優しかった。彼らは入院生活が長く、外の世界にもまだ慣れない都を色んな所に連れて行ってくれた。

　太陽の光で肌の色が変わることを知った。海の水が砂浜を行ったり来たりするのを初めて見た。山の空気に味があることを知った。知識の上だけで知っていたことを、都は事実として実感した。

　全てが初めての世界、初めての体験だった。

　楽しかった。嬉しかった。世界はこんなにも沢山の色に溢れていたのだと歓喜した。

　だがその喜びは、都が学校に通うようになったことで終わりを告げた。

　転校という形で家から近い小学校に通うようになった都は、教師を始めとした大人達に可愛がられた。元々本を読むのが好きで勉強も出来た都は、同年代の児童に比べてしっかりしており、大人受けが極めてよかった。

　大人が不在のクラスで何かあれば、教師は都に事情を聞き、子供同士の問題が起きた時も都に頼った。教師たちは、都を起点にクラスを回すことを望み、事実そうしていた。

　だが、そういう子供は得てして子供受けが悪い。

　都がテストで満点を取ったり、クラスの間違いを正したりするたびに、いけ好かないやつとして、妬みや嫉みを含む感情を向けられることが増えていった。教室でも親しい友人を作らず読書にのめり込む都は次第に、いじめの対象として見られるようになっていた。

　まず筆箱がなくなった。最初は気のせいかと思い、新しい筆箱を買いなおした。次に上履きがなくなった。確かに昨日、下駄箱に入れて帰ったのに。不審に思いながら新しいものを買った。教科書がなくなった。散々探し回った末、ゴミ箱の中から見つかった。登校すると椅子がなくなっていた。体操服がトイレに漬けられていた。ランドセルが彫刻刀でボロボロにされていた。

　都には、どうして自分がこんな事をされなければならないのか分からなかった。

　クラスでも抗議の声を上げた。だが返ってきたのは嘲笑だけだった。始めは親身になってくれた教師も、終わらないいじめに次第に何も言わなくなり、都に問題があるんじゃないかと言い出す始末だった。保護者である夫妻が学校に苦情を申し立てたこともあったが、いじめをより助長させる結果に終わった。いじめの首謀者を告発したこともあったが、連鎖的に責任を問われることを恐れた関係者と、大ごとにすることを避けた学校により、事実は無かったこととして扱われた。

　やがて都は、なにをしてもいい相手として見られるようになった。学校に都を助ける者はいなくなり、学校内の人間全てが直接的、あるいは間接的に都の敵となった。

　やがて都の内に、どろりとした黒い感情が潜むようになった。

　その感情は都の心をじりじりと蝕み、焼けた紙のように歪ませた。

　───くずどもが。

　子供と接する経験の少なかった都にとって、同年代のクラスメイトはもはや、論理的な話し合いの通じない幼稚な存在にしか見えなくなっていた。こいつらは浅はかな行為に労力を費やす愚かな連中でしかないのだと、侮蔑(ぶべつ)の眼差しを向けるようになっていた。

　こんなやつらに負けてたまるものか。これしきのことで自棄(やけ)を起こしたりなんか絶対にするもんか。

　都は賢く、そして強かった。だが、それでも人の心は鉄ではない。味方もおらず、姿の見えない敵に囲まれる毎日を過ごす都の心は確実に蝕まれ、摩耗していった。

　幼い都の心はもはや、決壊寸前の水瓶だった。

　しかし、その日々は唐突に終わりを迎えることとなる。

　ある台風の日のことだった。この日も都はクラスメイトから嫌がらせを受けていた。

　持ち物を窓から投げ捨てるという、つまらない嫌がらせ。

　都はいつものようにそれを無視していたが、その日はいじめの主犯格の虫の居所が悪かったのか、そいつは都の態度に段々と腹を立てはじめた。ランドセルをひっくり返して中身を引きずり出すと、次々と中身を豪雨の吹き荒れる窓の外へと捨てていく。始めはそれを無感動に眺めていた都だったが、そいつが最後にランドセルから取り出したものを見て顔色が変わった。

　小さなクリームソーダのストラップだった。

　それは都が両親と出かけた時にねだって買ってもらった、思い出のストラップで、つらく苦しい学校生活を送る都にとって、唯一と言っていい心の支えだった。

　だがそれも他の鉛筆や教科書と同じように外へと投げ捨てられた。慌てて窓に駆け寄ったが、ストラップは茶色い濁流に飲み込まれて排水溝に吸い込まれていった。

　どろり。

　その時、都は確かに感じた。自分の中から、真っ黒な何かが溢れ出したのを。

　直後、凄まじい破裂音と共に窓ガラスが砕け散り、荒れ狂う嵐が凄まじい勢いで教室に存在する全てに襲い掛かった。

　突如訪れたガラスの弾丸と殴りつけるような豪雨により、教室は地獄と化した。絶叫は暴風にかき消され、痛みと恐怖だけがこの場を支配した。黒い嵐が全てを破壊する中、生徒たちはわけもわからず、ただ叫ぶことしかできなかった。

　教師が駆けつけた時、教室は嵐による破壊の爪痕と、壁や天井に叩きつけられた血塗れの生徒たちの阿鼻叫喚に満ちていた。

　都は、その地獄の片隅で意識を失って倒れていた。

　次に目覚めた都が目にしたものは、前にも見た病院の天井だった。すぐに検査が行われ、心身ともに衰弱が認められた都は再び、入院生活を送ることとなった。

　あの時、何があったのか都は覚えていない。ただ、尋常でないことが起こったことは間違いなかった。

　その証拠に、都の手には無くなったはずのクリームソーダのストラップが握られていたのだから。

　それからしばらく後、見舞いに来た両親が色々と話をしてくれた。ずっと心配だったこと、無事でいてくれて嬉しかったこと、学校が台風でめちゃくちゃになったこと。新しい学校に転校する必要があるということ。

　それに伴って、原綿という土地にいる、祖父のもとに引っ越さなければならないこと。そして原綿には、両親は一緒に行けないこと。

　ごめんなさい。何度も何度も謝られた。

　都は彼らの話を全て聞き、その全てを受け入れた。

「心配しないでください。パパとママが思っているより、都はしっかり者ですよ」

　家族は互いに手を取り合い、涙を流して抱き締めあった。

　その日は遅くまで話をし、いつかまた家族で旅行に行こうと約束をした。

　退院の日。受付を済ませて病院を出ると、一人の老人が待っていた。老人は両親と軽い挨拶をすると、腰を曲げて都と視線を合わせた。

「僕のことを覚えていますか」

「はい」

　都はその老人を知っていた。

「私が目を覚ましてすぐの頃、何度かお見舞いに来てくれました」

「…………ああ、そうです。覚えていてくれてありがとうございます」

　この人が都のおじいさんだよ、と改めて両親から紹介を受けた。

　そして、いくつかのやり取りの後、都は祖父に連れられて原綿市までやってきたのだった。

　　　　　　　　　＊

　転校した当時の都は、何かに取り憑かれていた。

　起きている時も眠っている時も、何者かが耳元で囁き、常に自分を攻撃するのだ。

　それはいじめの経験によって都の内に生まれた、トラウマという悪霊だったが、そんなことを知らない都は他人に本心を見せることを恐れ、人間関係に強い忌避感を感じるようになっていた。自分を信じて送り出してくれた両親や一緒に住む祖父の手前、あくまで平静を装っていたが、本心では学校に通うことに苦痛を感じるほどだった。

　そんな都を受け入れたのが、マキだった。

　人間関係を避けて周囲から孤立しがちだった都を、マキは積極的に仲間に入れた。その無神経にも思えるマキの気遣いに、最初は煩わしさを感じていた都だったが、関係が深まるにつれてマキの持つ素直さに気付き、次第次第に心を開いていった。

　そうして、いつしか二人は親友と呼べる仲になり、気付けば悪霊が都に囁くことも無くなっていた。

　今にしてみればマキは、都に限らず孤立している子全員に声をかけていたように思える。例えば七尾がそうだ。彼女も普段は男子とばかり遊んでいて、女子のコミュニティから孤立しがちな印象があった。それをマキが仲介することで関係を繋いでいたのだ。結果として七尾は今まで接点のなかった都と出会い、互いに親密な関係を築くまでになったのだった。

　初めての友達だった。

　都にとって、二人は初めて心を許すことができた友達で、過去の痛みでささくれ立った心をほぐしてくれた恩人だった。

　かけがえのない存在だった。

　失いたくなかった。失うわけにはいかなかった。

　だからこそ、わらわの姿を見た時、都は恐怖したのだ。自分の世界を脅かす存在だと直感的に理解したのだ。

　あれは怪異だ。怪異というものは、必ず人間に害をなすものだ。

　そんな存在を許すわけにいかなかった。大切な友達に害を及ぼす存在を認めるわけにはいかなかった。

　マキも、七尾も、絶対に失いたくない。そのためにどんな手段を使ってでも脅威を排除すると誓ったのだ。それがたとえ、他の何を犠牲にすることになったとしても。

　それからの都は空いた時間の全てを、原綿市に伝わる昔話や郷土資料などの検索に充てていた。図書館で、資料館で、見られる限りの資料を目にし、触れられる限りの文献を手に取った。だがこれまでにめぼしい収穫はない。もしかすると原綿市にまつわる存在ではないのかもしれない。そうなれば日本各地に存在する膨大な資料と、いつ終わるとも知れないにらめっこをする羽目になる。

「これも違う……！」

　既に人がいなくなった図書室で、都は苛立ちを露わにする。

　市の図書館でも資料館でも、わらわに関する資料は見つからなかった。そんなものが、学校の図書室なんかで見つかるはずがない。ここでの調べ物も半ば自棄(やけ)で行っていることだ。

　しかし、もしもということもある。探し物というのは、いつだって意外なところから見つかるものだ。過去の経験からも、そういった事は何度もあった。とは言え、流石に今回ばかりは万策尽きたように思えてならない。

　……いけない。実りのない現状に弱気になっている。こんなことで諦めちゃ駄目だ。

　都は次の資料を手に取って表紙を開く。日焼けしたページをめくる手には焦りが混じっていた。

　『とうかさん』などという、あからさまに狐が絡む祭りがすぐ近くまで迫っているのだ。その祭りに合わせて、わらわが何かしないとも限らない。むしろこのひと月の間、何もなかったことを思えば、そこで何かあると考える方が自然だ。

　タイムリミットは残り二週間。いや、対処を考えれば一週間か。それまでになんとかわらわの正体を掴まなければ。なんとか、絶対に、なんとしても。

「……………………」

　ふ、とページをめくる手が止まった。

　黒い装丁の施された本を開いたまま、都は動かない。まばたきすらしない。食い入るように文章を見つめたまま、時間が静止した。

　そして、

「あった…………‼」

　都は口元を歪めて声を上げた。

　興奮のまま表紙を確認し、今見たページを開き直し、内容を何度も読み返しては、書かれてある内容が求めていたものであることを確認する。

　これを見れば、マキも七尾も分かってくれるはずだ。

「ふふ、うふふふ……」

　都の口から漏れ出た笑みが、静かな図書室の空気に吸い込まれていった。

　大きく広げられた本だけが、じっとりとしたその笑い声を聞いていた。

　………………

　…………………………

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