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本影もとかげ塾』と言えば、親不孝通りで知らない者はいない。

 原綿はらわた市の繁華街は、バブル期に栄え、バブル崩壊後に衰退するという、お決まり通りの結末を辿った土地だった。かつては人で溢れた活気のある場所だったが、今では場末のスナックや洒落っ気のない町中華と言った、繁華街の抜け殻のような寂れた風景だけが残っている。

 そんな飲み屋街の中心を貫く親不孝通りを、真っすぐ行った突き当たり。そこに構えられた武道場こそが『本影塾』であり、七尾の住む家だった。

 本影塾では主に空手と柔道を教えているが、師範である七尾の父、本影大吾だいごはその他様々な武道に通じており、求められれば分野を問わず教えられる。そのため本影塾では他流の門下生と、合同練習をすることも少なくない。

 そんな一風変わったこの塾は、未就学児から社会人、果てはシニアまで、幅広い年代の門下生を抱えており、これらの門下生が皆、七尾の父の指導の下、日々鍛錬を積んでいる。稽古日は祝日を除く平日全て。土日の試合などを含めれば、ほぼ年中無休で開かれている。

 本影塾が、決して治安がいいとは言えない立地にありながら、多くの塾生たちに愛されているのは、ひとえに七尾の父の人徳ゆえである。

 元々この土地は酔っ払いや札付きどもの溜まり場で、たとえ真っ昼間であろうと子どもが出入りしようものなら大人にこっぴどく叱られるといった場所だった。この土地で生まれ育った父はそんな風評に心を痛め、過去数十年に渡って醸成された悪しきイメージを払拭すべく、自由業故の時間を活かし、ひとり自警団の真似事を始めることにした。

 暇があれば繁華街を練り歩き、悪さをしている輩がいれば追い返す。喧嘩があれば赴いて仲裁する。どんな相手にも怯まず、どんな危険な状況にも立ち向かった。気付けば、酒癖の悪い大人たちも、ヤンチャな学生たちも、七尾の父を恐れるようになり、遂には親不孝通りで悪さをすれば「本影が来るぞ」などと言われるまでになっていた。

 そんなことを続けるうちに地域の困りごとを相談されたり、父の思いに共感した者が自分も手伝いたいと道場に顔を出すようになり、やがて組織化された自警団によって地域の治安は格段に向上した。

 この飲み屋街も今では、子どもが一人で歩ける安全な場所になっていた。

 そして七尾の父、引いては本影塾は、この土地の治安の象徴として老若男女を問わず憧れの的になったのだった。

 七尾もそんな父が大好きで、みんなに頼られる父が誇りだった。幼い頃から父の背中を見て育ち、父の技を受けて大きくなった。

 七尾にとって父とは、師であり、目標であり、憧れだった。

「私も父さんの力になりたい。父さんやみんなと一緒にこの街を良くしたい」

「駄目だ」

 きっぱりと父は言った。

「半人前は邪魔だ」

「じゃあ早く一人前になる。父さんみたいに強くなる」

「そうか」

 父はとても嬉しそうだった。

 今ならあの時の会話も、一人娘を危険に晒さないための親心だったと理解できる。そ

 して、その日から稽古後の道場で、七尾に戦い方を教えてくれるようになったのも。


「立て」


 父との組手はいつも、その言葉で始まる。

 塾生がいなくなった夜の道場で、七尾と父は互いに視線を交わす。二メートル近い身長と百キロを超える父の体は、立ち上がった七尾のものより遥かに大きかった。

 同級生を見下ろす方が多い七尾の体が、父の前では文字通り子供に見える。その体格差を見れば、技術云々ではなく、どう足掻いても勝てない相手であることが分かる。

「…………」

 七尾は父を睨みつけながら帯を締め、静かにこぶしを構えた。

「今日はどれ?」

「見りゃ分かんだろ」

 父が構える。

 格闘技の基本となる中段の構え。手はこぶしを開いた開掌拳。打撃中心の空手のものとは違う。合気道か日拳あたりか。いや、重心が低い。これは───


 だん! 父が一気に間合いを詰めた。


 ───柔道だ!

 袖を取る手を払いのけ、その勢いのまま相手の体勢を崩しにかかる。父は体捌きのみでそれをいなし、ガラ空きになった襟を狙う。柔道では体重がそのまま強さに直結する。倍以上の体重差がある相手に襟を取られることは敗北と同義だ。

 七尾は襟に向かって伸びる腕をギリギリで捌いて側面を取る。力を流された手が虚空を掴んだ。死角を取った七尾は、そのまま脇腹にこぶしを叩き込む。

「!」

 浅い手応え。肘で防がれた。

「ちっ」

 有効打に繋げられないと悟った七尾は、距離を取って体勢を立て直す。

 父はそれを追わずに防御を緩めると、山のような巨体をゆっくりとこちらに向けた。

「体格差のある相手は急所を狙う、ってのは正しいわな。逆に言や、どこを打ってくるかモロバレってことだ」

「うるせーよ」

 余裕綽々の言葉に悪態をつく。

 父との組手にルールはない。ここでは持てる技術を駆使することだけが求められる。スポーツ競技では禁止されている技も、父相手なら技術のひとつとして扱われる。

 このルール無用の組手には、七尾の道が正しくあるようにという父の思いが込められていた。


「いいか七尾、体だけ鍛えても何の意味もねえ。肝心なのは心の有り様だ」

 幼い七尾に父は語る。

「ただの力に価値はねえ。その力をどう使うかが価値なんだ。もし強さだけに価値があるんなら、俺たちは銃や爆弾にひれ伏さなきゃならねえ。力ってのはそれに応じた強え心がねえと駄目なんだ」

「それじゃあおとうさん、ナナがやってるおけいこにも、いみはないの?」

「心を鍛える方法が判ってるやつから見ればそうかもしれん。だが俺が知る限りじゃ、体を鍛えることが心を鍛える最も手っ取り早い方法だ」

「ふーん」

 笑顔で頭を撫でる父に七尾は言った。

「それってほかのやり方をしらないだけでしょ」

「うるせえよ」

 頭に拳骨をもらった。


 この組手を始めてから、七尾は思いつく限りの技を試し、あらゆる手を尽くしてきたが、未だに一撃を決められた試しがない。体を鍛えても技術を磨いても、そのたびに圧倒的な力の差を叩き込まれるだけだった。

 今の七尾では父に届かない。そして恐らく父にも届かない相手がいて、きっとその相手にも更に届かない相手がいて……。

 誰かに勝つためだけの力を求めるというのは、そんな途方もない迷路を彷徨うことなのだ。それは心の成長を伴わない無為な道でしかないのだ。

 それを早くから教え込まれた七尾は、父の期待通りに成長した。

 大切なのは心だ。自分の力を正しく使うことが大事なんだ。

 周りより成長が早く、身体能力の抜きん出ていた七尾が、自身の力を誇示することなく日々を送っているのは、この価値観によるところが大きかった。自分の意見を通すために暴力をチラつかせたこともなければ、誰かと喧嘩をしたこともない。言い争いになっても手を出すことは絶対にしなかった。

 戦えば必ず勝つと分かっていたからだ。

 力を持つ者はいたずらに力を振りかざすべきではない。まして我欲のために力を行使するなど、七尾と、父の信条に反する行為であると認識していた。

 七尾が能力を発揮するのは、自分や周囲の身が危険に晒された時だけだ。そのほかは精々男子の喧嘩に割って入るくらいで、それも年に一度あるかないか。

 全力で倒しに行くべき相手は父だけで十分だった。

「…………」

 七尾は打撃を中心に型を組み立てる。当て身を駆使して相手の体勢を崩しつつ、技を掛ける状況を作る。これが七尾の基本戦術だった。

 対する父の技術は多く、洗練されている。空手、柔道、日本拳法、合気道。七尾が知らないものも含め、その技術は多岐に渡る。だが、父が使う格闘技はいつもひとつだけ。内容もその日の気分次第。今日はそれが柔道というだけ。

 七尾はそれが気に入らなかった。

 あらゆる技術がありながら、それらを織り交ぜた複雑な技を父は使わない。基本的に打撃だけ、あるいは投げや固めだけといったシンプルな戦い方に終始していた。

 要するに手加減しているのだ。お前などその程度で十分だと。柔剛織り交ぜた複雑な技術など必要ないと思われているのだ。

 不愉快だ。

 どれだけ埋められない差があるとしても、どうやっても勝てない相手だと分かっていても、それでも露骨な手加減を加えられるのがたまらなく悔しかった。

「───!」

 今度は七尾から間合いに踏み込んだ。深く腰を落としての接近。上段からの掴みを意識しての構えだ。

 案の定、柔道に徹している父の対応が一手遅れる。距離を離そうと重心を移した隙を七尾は見逃さない。姿勢を低く保ったまま、半歩下がろうとする足を引っかけるように下段蹴りを打ち込んだ。

 ぐらり。バランスを崩された巨体が揺らぐ。七尾は重心を失った脚と宙に浮いた袖を掴むと、立ち上がる勢いのまま朽木倒しの要領で父の体を引き倒した。

 そして、

「─────────っ!」

 だぁん! と叩きつける音を最後に、七尾の意識はそこで途切れた。


 …………

 ………………………………

 …………………



         *


 七尾が目を覚ますと、板張りの天井が見えた。

 道場の天井だ。どうしてこんなところに……。

 そこまで考えて、がばっと跳ね起きた。素早く構えて周囲に目を向ける。だが、道場には七尾の他には誰もいない。

「あー! くそっ!」

 七尾は意識が飛ぶ直前のやり取りを思い出して声を上げた。

 あの時、父を崩したと思った瞬間、父は倒される力を利用して、七尾の首に三角絞めを極めていたのだ。そして、その後の抵抗も空しく、七尾は数秒で意識を手放した。

「思い通りに行ったからって簡単に気を抜くなよ」

 そう、父に言われているような気がして無性に腹が立った。

 七尾は爆発しそうな感情を抑え込むように体に力を込めた。頭から背中、握り込んだこぶしまでもがぶるぶると震え、溜め込んだそれを吐き出すように咆哮を上げる。

 しばらくして、怒りを放熱し切った七尾が大きな溜め息を吐いた。

 終わったことをぐちぐち言っても仕方ない。今回の反省を活かしてまた明日から頑張ろう。

 からっとした表情で、七尾は道場を後にした。

 さっさとシャワーを浴びてしまおうと脱衣所に向かいながら、七尾はふと今日の出来事を思い出した。

「わらわちゃん、かあ。ミヤは気にしてたけど、実際どういう存在なんだろうな」

 和服に狐耳と大きな尻尾。それだけ見れば漫画やアニメに出てくるキャラクターのようではあるが、実際に目の前にすると、思ったよりも自然な相手のようにも感じられる。

「ま、せっかく友達になったんだし、ゆっくり知っていけばいいか」

 がらりと脱衣所の扉を開けると、風呂上がりの父が素っ裸でポーズを取りながら、鏡に映った自分の体を眺めていた。

「きゃっ」

 父が小さな悲鳴を上げて自分の体を隠した。

「………………」

 七尾は黙って、脱衣所の扉を閉めた。

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