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ゆったりした掛け布団の柔らかさを感じながら、もぞもぞと体を動かして時計を確認すると、夜光塗料で光る針が二時ちょうどを示していた。
マキの生活習慣は安定している。決まった時間にご飯を食べ、決まった時間にお風呂に入り、決まった時間に眠りにつくという、健康的な生活を送っている。加えて、一旦床についたら朝まで目を覚ますことがほとんどなく、旅行や遠足の前日でもぐっすり熟睡できるタイプだ。
そんなマキが、こんな深夜に目を覚ましたのは、初めての経験だった。
マキはまつ毛の絡まった目を擦りながら、ベッドから起き上がる。このまま眠ってしまってもよかったのだが、また起きてしまう可能性を考えると、一度トイレに行っておいた方がいいと判断したのだ。
廊下に出ると、ひんやりとした空気が肌の表面を撫でた。
四月になって暖かい日が続いているが、夜の空気はまだまだ肌寒い。寝静まった家族を起こさないように、忍び足でトイレに向かう。そのまま手早く用を済ませると、来た時と同じように、そろりそろりと部屋へと戻る。
その最中だった。
「?」
歩みを進める足が、ぴたりと止まった。
「…………」
マキは爪先立ちのまま、その場から動かない。顔だけを交互に左右に向けて、小さく首を傾げる。
なにか音を聞いた気がしたのだ。何かが動いたような、そんな音。
一瞬、家族が目を覚ました音かと思った。もしかしたらトイレの音で起こしてしまったのかもしれないと。しかし、その音は家族の部屋の方からではなく、もっと別の場所から聞こえたような気がしたのだ。
不思議に思いながらも、そこまで気にするほどでもないかと、マキは再び廊下を歩き始める。
カタ、コトン───
「!」
やはり音がする。
気付いてしまえば、それは確かに家の中から聞こえてくる音だった。
誰かが、戸棚を開けているような物音。耳を澄ませると、それはどうやら台所から聞こえているようだった。
こんな時間に……?
不審に思いつつも、マキは音の正体を確認するため台所へと向かった。
泥棒だったらどうしよう、などと考えつつ、おそるおそる台所まで行くと、キッチンに立つ白い背中が見えた。
わらわの後ろ姿だった。
わらわはキッチンの戸棚を開けて、ガサゴソと中身を漁っている。
ほっ、とマキは安堵のため息をついた。昨日の今日ではないが、お化けかなにかがいるんじゃないかと思ったのだ。
備え付けられた間接照明の白い明かりに照らされたわらわは、戸棚を物色するのに夢中で、廊下に立っているマキには気付いていない様子だった。そんなわらわの周囲には乾物や調味料の小瓶が適当に放り出されている。
お腹でも空いたのかな?
そう思い、マキはわらわに声をかけた。
「わらわちゃ……」
だがその呼びかけは、言葉になる手前で途切れて落ちた。
「……………………」
違和感。
そう、違和感があったのだ。
わらわはどうして戸棚ばかり漁っているのだろう。お腹が空いているのなら冷蔵庫を開ければいいのに、どうして食べ物の入っていない戸棚なんか開けているのだろう。
その違和感が、わらわに声をかけることを躊躇わせた。
かたん。
不意に、わらわが動きを止めた。
そして、コンロの下にある戸棚から何かを取り出すと、ゆっくりと、その場にしゃがみこんだ。
「……………………」
沈黙。
長い、沈黙。
わらわは、膝をついて俯いた姿勢のまま動かない。その姿にマキは段々と気味の悪いものを感じ始めた。
動かないわらわ、動かない空気、動かない時間。
不気味な沈黙は得体の知れない感情を呼び水に、じわじわと腹の中を冒す仄暗い不安感を呼び起こしていった。
「…………」
気付けば、台所の気温が数度下がっていた。夜気を孕んで冷たくなった空気が、真っ黒な闇となって辺りを包み込んでいる。
そんな冷たい闇に包まれた空間を、キッチンに備え付けられている、ぼんやりとした白い明かりが切り取っていた。だが、その明かりに映し出された光景は、救いの灯とはほど遠い不気味さで、胸の内に渦巻く恐れの感情をただ増幅させる。
異様な感覚を呼び起こす、異様な時間が過ぎていく。
「………………」
そして、沈黙に耐えかねたマキは、ゆっくりと動き出した。
音を立てないように。沈黙を破らないように。
もしもこの沈黙を破ってしまえば、今、自分が立っている世界が足元から崩れてしまうのではないかと思うほどの静寂に、心臓が張り裂けそうだった。
マキは静かに、静かに、わらわに近付いた。
「…………」
白い耳のついた、白い頭が見える。
そおっ、と、近付く。
わらわは動かない。
更に、近づく。
手を伸ばせばもう、肩に触れられる距離にまで。
「……?」
ふと、マキは気が付いた。
わらわは動いていないわけではなかった。遠くから見れば動いていないように見えたその背中は、微かに、ほんの微かにだが動いていた。
背中越しでよく見えないが、わらわは小刻みに頭を揺らしている。
「わ、わらわちゃん……?」
「……………………」
震える声で名前を呼ぶが、反応はなかった。声が届かない距離ではないのに、気付かないはずがないのに。破られたはずの沈黙が、なおも続いていく状況に不安が加速する。
「ねえ、なにしてるの……?」
再度の呼びかけ。やはり反応はない。
「…………」
マキは意を決してわらわの背後に立ち、ゆっくりとわらわの手元を覗き込んだ。
「……!」
絶句した。
手を、舐めていた。
わらわは床にしゃがみ込んだまま、ぺろぺろと、自分の手を舐(ねぶ)っていた。
いや、違う。わらわが舐めているのは手ではない。手で掬った油を舐めているのだ。それを示すように、わらわの傍らには、空になった食用油の小瓶が転がっていた。
わらわはマキに気付く素振りを見せず、生温かい吐息を漏らして、ぬらぬらと濡れた手を一心不乱に舐り続けている。
ぺろ、ぺろ、ぺろ、ぺろ。
小さな口から覗く赤い舌が指に絡まり、とろりと光る油をこそぐように舐め取っていた。照明の反射で怪しく光る指を舐る姿は、官能的な狂気を感じさせた。
「…………っ!」
マキは口元を押さえたまま、動くことができなかった。
目の前の異常事態に理解が追い付かず、ただ見てはいけないものを見てしまったという恐怖が脳内を支配した。全身の産毛が一斉に逆立ち、冷たい戦慄が背中を起点に広がった。
声を上げることはおろか、呼吸をすることも忘れ、冷たく流れる嫌な汗がじっとりと寝間着を濡らした。なんとかしてここから逃げ出したかった。これは全て悪い夢で、本当の自分はベッドで眠っていて、今にも目が覚めるのだと思いたかった。
無理だ。感情が、戦慄が、これが現実であることを突き付けてくる。摩耗した精神は、もはやここから逃げることを許さなかった。浅い呼吸が残り少ない意識を削り取り、体が平衡感覚を失い始める。
その時だった。
がしっ、
と、背後から肩を掴まれた。
「────ひっ!」
喉の奥で絶叫を押し殺した。
「マキちゃん」
知っている声だった。振り向くと、寝間着姿のおばあちゃんが立っていた。
肩に手を添えたまま、おばあちゃんは言う。
「どうかしたの?」
優しい声色。しかし、その表情はとても厳しかった。
「あ、あの……」
マキはどう答えるべきか逡巡して、ふと気付く。
さっきまで辺りを包んでいた闇と、異様な空気が消え去っていた。
まるで今まで感じていた気配が錯覚であったかのように、そこには普段通りのキッチンがあった。目の前にいたはずのわらわの姿もなくなっており、台所にはマキ一人だけになっていた。
寝ぼけていたのだろうか。
いや、だとしたらこの、胸に残る冷たい戦慄は……。
呆然としながら周囲を見回すマキに、おばあちゃんが言った。
「お部屋に戻りなさい」
「でも、おばあちゃん」
「戻るのよ」
「……うん」
背中を押され、言われるままに台所を後にして部屋に戻ったマキは、もやもやとしながらも汗に濡れた寝間着を着替え、そのまま床についた。
*
朝、目を覚ましたマキは昨夜の出来事を思い返そうとしたが、寝起きでぼんやりとしているせいか、そのことをハッキリと思い出すことはできなかった。
ただ喉奥に絡む、ぬるぬるとした、油を飲んだような感覚がやけに煩わしかった。
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