優劣の檻

鋏池穏美


 とりあえず──


 その言葉は、あなたの口癖でしたね。

 「とりあえず行こうか」、「とりあえずやってみよう」、「とりあえず大丈夫だよ」──軽やかに、けれどもどこか頼もしく響いたその声が、今でも耳の奥に聞こえるようです。

 日常の何気ない選択やささやかな冒険のたびに、あなたはその言葉を口にしました。それはまるで、前を見据えては立ち止まらずに歩いていくための呪文のようでしたね。


 出会いは春の匂いがまだ肌寒い風に混じっていた、中学一年の教室でした。

 窓際の席に座る私の隣に現れたあなたは、躊躇いもなく笑いながら、「とりあえず、これから一年よろしくね」と言いました。

 無邪気なようでいて、不思議とこちらの不安をやわらげるその言葉に、私はふっと肩の力が抜けたのを今でも思い出します。

 それから私たちは、三年間を同じクラスで過ごしましたね。季節が巡るたびに、心の距離もまた少しずつ少しずつ、近づいていったのだと思います。


 高校に上がった春、またも同じクラスになったとき、あなたは笑顔で言いましたね。

 「とりあえず、これは運命なのかもしれない」と。

 そのとき私は少し照れながら、あなたのその楽観的な言葉の裏に、胸の奥が熱くなるのを感じていました。

 私たちは当たり前のように傍にいて、そして当たり前のように未来を語るようになっていった。


 やがて同じ大学へと進学し、学年が一つ進んだ春、あなたは不器用に告げました。 

「君のことがずっと好きだった。とりあえず……、僕は君を幸せにしたいと思ってるんだ」

 その時のあなたの表情が、今でも目に焼き付いています。決して完璧なセリフではなかったけれど、そのぎこちなさがむしろ愛おしくて、心の奥に温かさが広がりました。


 私はそっと笑って、「こういうときは、“とりあえず”は使わない方がいいですよ」と返しました。

 あなたはすぐに「ごめんなさい! あっ、でも……、とりあえず返事! 返事が欲しい!」と言葉を重ねながら焦っていましたね。

 その必死な姿があまりに可愛くて、つい意地悪をしてしまいました。「告白するの、少し遅かったですね」と。

 途端に沈んだあなたの顔。その表情を忘れたことはありません。でも私はすぐにあなたを抱きしめ、「よろしくお願いします」と言いました。


 あれが私たちの愛の始まりでしたね。恋から愛へ。とても大切なかけがえのない瞬間。

 共に過ごした大学生活は日々がきらめくようで、なんでもない会話さえ宝石のように感じました。

 卒業後はそれぞれに仕事を得て、ほどなくして同棲を始め、穏やかで、けれど確かに満ち足りた日々が流れていきました。

 そして大学卒業から四年目。あなたがプロポーズをしてくれたあの日──すべてが突然に崩れ去ったのです。


 劣性能力者隔離法可決。


 耳を疑いました。「一定の能力より劣った者は、社会秩序を乱す可能性があるため隔離する」という、まるで悪夢のような法律が現実のものとなったのです。

 全日本国民に対して、AIによる二百項目以上の能力検査が義務付けられ、その結果によって「優性」と「劣性」とに振り分けられる世界が始まりました。

 数値を満たした者だけが、社会の一員として生きることを許される。その冷酷な仕組みのなかであなたは……、「劣性」と判定されたのです。


 その額に消えることのない烙印を押されながら、あなたは最後に言いましたね。 「とりあえず、君は幸せになってほしい」と。


 その言葉が、私の中で何度も何度も再生されます。

 胸の奥をかきむしるように、耳の奥に、記憶の裏側にまで染みついて、私を離してくれません。


 その後、私は国の指示に従い、AIが選んだ「優性」の男性と結婚させられました。

 まるで商品を選ぶようなマッチングに、私はただ頷くだけしかできなかった……。「とりあえず」結婚し、「とりあえず」二人の子供を産み、時間は止まらずに進んでいきました。

 傍から見れば、「とりあえず幸せそう」に見える家庭がそこにはあったかもしれません。


 もちろん、今の夫は優しく、子供たちも素直で愛らしいです。私はこの家庭を大切にしています。

 けれど、それでも、私は──


 あなたに、会いたいのです。


 理由も理屈もなく、ただ、あなたに会いたいのです。

 あの春の日のように、何も考えず、ただ「とりあえず」会いたいのです。


 こんなことを思ってはいけないと、何度自分に言い聞かせたでしょう。

 でも心は正直でした。気づけばあなたのことを思い、あなたとの日々を夢に見る。

 そうして気がつけば、あなたと離れて七十年が経とうとしています。


 たくさんの孫たちにも恵まれました。世の中は一見、安定と秩序に包まれているように見えます。「劣性能力者隔離法」のおかげで社会は繁栄し、秩序だった未来が築かれていると人々は口を揃えて言います。


 でも私は、そんな世界をどうしても愛せません。

 あなたと私を引き裂いたこの社会を、心の底から憎んでいます。


 私はもう、寿命の終わりを迎えようとしています。

 けれど、死ぬことであなたと再び巡り会えるのだとしたら、それは何よりの救いです。


 話したいことは山ほどあります。

 けれどもしまた会えたなら、言葉なんて交わさなくてもいい。

 ただ「とりあえず」でいいから、抱きしめてほしいのです。


 自死した者は天国に行けないと言われています。心が綺麗だったあなたは、きっと天国に向かうはず。生きてきました。ただあなたに会いたくて、生きてきました。

 この優劣に縛られた世界に背を向けながら、それでも生き延びてきたのは、あなたが待っている天国があると信じていたから。


 とりあえず……、


 頑張ったよね?


 とりあえず……、


 今はただあなたに……、


 逢いたい。




──────────────

劣性能力者隔離法


第一条(目的)

この法律は国家の秩序と安全、ならびに社会の生産性を維持・向上させるため、能力に著しい劣等を有する者を適切に選別し、必要な措置を講ずることにより、公共の福祉を実現することを目的とする。


第二条(定義)

本法において使用する用語の意義は、次の各号に定めるとおりとする。

一、劣性能力者。国の定める標準能力値に達しない者であって、社会的自立または貢献の見込みが著しく乏しいと判定された者

二、優性能力者。本法に基づく能力審査において、全項目の基準値を満たした者

三、隔離施設。劣性能力者を収容し、管理・保護を目的として設置される国指定の施設


第三条(審査の実施)

すべての日本国民は、十八歳の誕生日を迎えた日から起算して三十日以内に、国が指定するAI自動評価機関において、統一能力審査を受けなければならない。


第四条(審査項目)

統一能力審査は、以下の分野における二百二十項目以上の能力を総合的に評価する。

一、知能認識能力

二、身体運動能力

三、社会適応性

四、言語・計算・論理的思考能力

五、心理的安定性および攻撃性


第五条(判定基準)

前条の審査結果に基づき、AI判定機構は国民を「優性能力者」または「劣性能力者」と分類し、直ちに通知する。


第六条(隔離の義務)

劣性能力者と判定された者は、判定日から起算して十五日以内に最寄りの隔離施設に出頭し、国の監督下に置かれなければならない。


第七条(隔離施設の運用)

隔離施設においては、劣性能力者に対し、人道に配慮した管理を行うとともに、必要最小限の教育および生活支援を提供する。


第八条(接触制限)

劣性能力者と一般市民との直接接触は、原則として禁止とする。特別な事情がある場合に限り、国の許可を受けた上で一時的な面会を認めることがある。


第九条(隔離命令違反)

劣性能力者が隔離命令に応じない場合、警察権の行使により強制的に確保されるものとし、必要に応じて罰金または禁固刑を科す。


第十条(優性偽装)

審査結果の改ざん、または優性能力者の地位を不正に取得した者には、懲役五年以上の刑罰を科す。


附則

本法は公布の日より施行するものとする。すでに成人に達している者については、公布後六ヶ月以内に審査を受けなければならない。






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優劣の檻 鋏池穏美 @tukaike

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