第18話 再確認

 何の前触れも、予兆もなかった。


 異常な魔力の流れも、剣士の踏み込みも、矢の風切り音も存在しない。


 そこには結果だけがあった。


 シモの胴体を、見えない何かが斜めに深く切り裂いた。ザブッ、という生々しい水音。彼がまとっていたローブと、その下のインナーアーマーが、まるで鋭利なカミソリで裁断されたかのように綺麗に裂ける。その奥からは、鮮血が噴水のように噴き上がった。


 「え……?」


 私の思考が完全に停止した。


 「シモ……?」


 シモの顔から穏やかな表情が消え、自らの胴体に刻まれた深々とえぐられるような傷を捉えると、静かに瞼を下ろした。


 「……っ」


 シモの口から、堪えきれない苦悶の息が漏れた。肺から逆流してきた鮮血が彼の口端を濡らす。そして、その細い身体がゆっくりと前のめりに傾いた。


 「シモッ!!」


 イフカウントとシェバンニの絶叫が私の耳に届いた。だが私の身体は、金縛りにあったかのように動かなかった。


 アリーナの乾いた砂が、彼から流れ出る大量の血を吸い、瞬く間に黒く染まっていく。


 「あ……あ……」


 嘘だ。


 きっとこれは夢だ。


 シモは勇者、最強の勇者で、魔王を倒した私の、私たちの光だ。シモがあんな子供の、理不尽な遊びで、こんなにあっさりと死ぬわけがない。


 「正解は〜月でした〜! ふふ、ふふふ、楽しいね〜!」


 財宝の山の上で、スフィアが満足そうに笑っている。その頭上ではドラゴンが「次こそは」とでも言うように、低く唸り声を上げた。


 ……許さない。


 ドス黒い感情が、私の思考の底からマグマのように沸き上がってきた。恐怖、絶望、悲嘆。それら全てを焼き尽くして、ただ一つの純粋な感情が私の全身を支配する。


 ————殺してやる。


 「おい、小娘」


 隣にいたインヒューマが、私の異変に気づいて声を上げた。だがもう遅い。


 「うるさい、うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい!!!!!!!!!!!!!!」


 私は、私を制御しようとする全ての理性を自ら振り払った。ロックフェルでシモを治せなかった無力感。炭鉱でシモを守るために無我夢中で放った、あの得体の知れない力。


 そして、夜にインヒューマから受けた警告。


 この力はシモを消してしまうかもしれない、危険な力。


 ——ならば。


 シモ以外の、シモを邪魔する輩を消すために使えばいいんだ!


 「あぁ、あぁ————!」


 私の内側で、これまで必死に押さえつけていた魔力の堰が決壊した。治癒の更に、更に奥深く。傷が『なかったこと』になる力。


 その力の矛先を今、私は明確な殺意を持って、スフィア・アンドロという存在を、この世界から消滅させたいという一点に集中させた。


 闘技場の空気が歪み、観客席の住民たちが、スフィアでもドラゴンでもない、この新たな脅威の出現に息を呑んだ。


 もうどうでもよかった。


 杖をスフィアに向かって突き出した。その先端に、世界そのものを白く塗りつぶすかのような、純粋な光が凝縮していく。あれを放てばスフィアも、あのドラゴンも、財宝の山も、闘技場の一部すらも分子のレベルまで分解され、なかったことになるだろう。


 死ね。


 私が破滅の言葉を紡ごうとした、その時。


 「待てチコル! よく見ろ!」


 イフカウントの力強い声が、私の暴走を寸前で押し留めた。


 「……ッ」


 イフカウントの言葉に、私は憎悪に燃えていた視線を恐る恐るアリーナの中央、血の海に沈んだはずのシモへと戻した。


 「……あぇ……?」


 シモが、立ち上がろうとしていた。


 あれほどの血を流し、胴体をほぼ真っ二つにされながら、彼は震える腕で地面を押し、おもむろにその身体を起こしていたのだ。


 そして、それ以上に信じられなかったのは。


 「……傷が……ない?」


 彼の胴体に刻まれた致命的であるはずの深い傷が、ジワジワと早送りで時間を巻き戻すかのように塞がっていく。裂けた皮膚が繋がり、断裂した筋肉が再生し、噴き出していた血がピタリと止まる。


 「…………こほっ」


 シモは最後に血の混じった咳を一つすると、ふらつきながらも完全に自らの足で立ち上がった。


 服こそ無残に切り裂かれているが、その下の肌は傷一つない、元の綺麗な状態に戻っていた。


 「な……なんで……?」


私の頭は再び混乱に陥った。目の前の出来事が理解できない。


 私が放とうとしていた凝縮された光が、行き場を失って霧散していく。


 「悪ぃ悪ぃ、言い忘れてたわ」


 後ろから聞こえてきたのは、シェバンニのどこか間の抜けたような声だった。


 さっきまでシモの負傷に狼狽えていたはずの彼も、インヒューマも。いつの間にか武器を下ろし、どこか「やれやれ」といった表情で頭をかいていた。


 「え……? みなさん、なんで……」


 「いや、な」

 シェバンニは私に向き直ると、気まずそうに鼻の頭を掻いた。


 「シモってな、勇者の加護だかなんだか知らねぇけど……怪我で死なない体質なんだよ」


 「……けが、で……しなない?」


 「ああ。斬られようが、焼かれようが、よっぽど心臓とか脳みそを潰されねぇ限り。だいたいの傷は勝手に治る」


 「……」


 「まぁ見ての通り……痛いのはすっげー痛いみてぇだがな」


 シェバンニは、アリーナで冷や汗を拭いながら深呼吸しているシモを親指で指し示した。


 「俺らもさ、流石に死んだかってビビったけど……ああそういやコイツ、こういう体質だったわって思い出して、すまん」


 私はシェバンニの説明を、ただ呆然と聞いていた。そして、アリーナに立つシモへと視線を戻した。


 シモはこちらを振り返り、私たちが無事だということに安堵したのか、いつものように穏やかに微笑んだ。


 「ごめん、チコル。心配かけた……」


 その笑顔を見た瞬間だった。


 私の内側で、さっきまでの殺意とは全く別の、しかし、同じくらい強烈な感情が爆発した。


 単純な安堵と、怒り。


 「…………なんでっ!!」


 私の怒号が闘技場全体に響き渡った。心の底からの叫びだった。


 シモが、その場でビクリと肩を震わせた。


 「な、なんで、そんな大事なこと、教えてくれないんですかぁっ!」


 私の目からはせきを切ったように涙が溢れ出した。それはもう、恐怖や悲しみの涙ではない。怒りと悔しさと、そして心の底からの安堵がごちゃ混ぜになった感情の氾濫だった。


 「私……! 私、本気で、シモが死んじゃうと思ったんですよ!?」


 涙で視界が滲む。私は泣きながらシモに向かって叫び続けた。


 「さっき、私、本気で……本気で、あの子を殺そうとしたんですよ!?」


 「インヒューマさんに、シモを消しちゃうかもしれないって、あんなに止められてたあの力で、あの財宝もドラゴンも、あの子も全部、全部なかったことにしようとしたんですよ!」


 「もし……! もし本当に、シモが怪我では死なないって知ってたら……! 私、こんな、不安で、怖くて、こんなバカなこと、しようとしなかったのに!」


 私は、自分の足が震えていることに気づいた。魔力を暴走させようとした反動か、それとも、誰も殺さなかずに済んだからか。


 「私だって……私だって、仲間なんですよ……!」


 「守られるだけの、ただの荷物じゃなくて……シモと、みんなと、一緒に戦ってるつもりなんですよ!」


 「なのに……なのに、シモはいつもそうやって、肝心なこと、何も言ってくれないから!」


 「私が、どれだけ心配して……どれだけ不安だったか、知ってるんですか……!」


 もう何を言っているのか、自分でも分からなかった。ただこの溜まりに溜まった感情を、吐き出さずにはいられなかった。


 「……大事なことは、ちゃんと共有してください! 私がどれだけ、シモのこと……!」


 私はそれ以上、言葉を続けられなかった。ただ子供のように声を上げて泣きじゃくった。


 闘技場は私の泣き声を除いて、異様な静けさに包まれた。


 シモは私が初めて見せた感情的な怒りを、その全身で真正面から受け、何も言わずに立ち尽くしていた。彼の飄々とした穏やかな表情が、初めて罪悪感に染まっていた。


 「……はぁ」


 インヒューマが私の背後で、わざとらしくため息をついた。


 「お……そりゃ、まあ、チコルの言う通りだよな……すまん、いや本当に、ごめん」


 シェバンニが、なぜかシモの代わりに私に謝っている。ちらちらと泳ぐ視線は、シモに対して「説明責任は果たせ」と訴えているようだった。


 その異常な空気の中で。


 「…………」


 アリーナの主役であったはずの少女、スフィア・アンドロは。


 シモが復活したことにも「えー、なんで治っちゃうのー! つまんない!」と不満そうに口を尖らせていたが、それ以上に、私が先ほど放った純粋な殺意と、今この場で爆発した本音とに、完全に気圧されていた。


 彼女のスフィンクスとしての本能が、私を「自分よりも上位の、あるいは極めて面倒な存在」と認識したようだった。


 いつの間にか、あれほど愛していた財宝の山の影にサッと隠れ、小さな羽と尻尾をしおらせている。怯えた目で泣きじゃくる私と、困り果てているシモとを交互に見ていた。


 ナゾナゾによる恐怖の支配は、私の感情の爆発という全く予期せぬ形で、一時的に中断されることとなった。


 「チコル……」


 シモが傷は治っても、私の言葉で心が痛む、といった表情でようやく口を開いた。


 「僕は、キミを危険な目に遭わせたくなくて……」


 「それを言ってください! ちゃんと! 先に!!」


 私はシモの言葉を涙声で遮り、それでもはっきりと言い返したのだった。

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