第16話 実態
陽炎の大砂漠に入り、すでに三日が経過していた。私たちの旅は奇妙なローテーションで成り立っていた。
日中、太陽が砂漠を焼き尽くす時間。インヒューマは、シェバンニが背負う特製の棺桶に引きこもり、シモと私はただ黙々と、重い棺桶を背負うシェバンニの後に続く。その口数は極端に少ない。
シモが先頭に立とうとすると、シェバンニが「お前は体力を温存しろ」と、有無を言わさぬ迫力でそれを制するのだ。炭鉱での一件以来、シェバンニはシモを徹底して守られるべき存在として扱っている。
それがシモの自尊心を、さらに傷つけていることに気づかないまま……
そして、夜。嘘のように冷え込む砂漠ではインヒューマが棺桶から姿を現し、代わりにシェバンニが棺桶に引きこもる。私たちは満天の星空の下、足を休めるのだった。皆が寝静まった頃、私への特別講義が開かれる。
「昨日の復習だ……源泉に蓋をしてみろ」
「は、はい!」
インヒューマは、私に力の制御術を教えてくれていた。それは私の魂の奥底にある魔力の源泉を認識し、そこへ強引に蓋をして出力量を抑圧するする精神鍛錬だった。
「甘い、その程度では感情に左右されすぐに暴発するぞ」
「す、すみません!」
慣れない鍛錬に困難を極めたが、この危険な力を制御するため、私は必死だった。
シモは時折目覚め、そんな私たちの様子を少し離れた場所から静かに見つめているのだった。
そして、四日目の夜。
いつものように私がインヒューマの指導を受け、砂丘に沈んでいたその時。
「来る」
棺桶の中から、シェバンニのくぐもった声が響いた。インヒューマが、不機嫌そうに棺桶を叩く。
「どうした駄犬。月が怖いと泣き言か?」
「うるせえ、そのまま聞け」
声はいつもの冗談めかした響きではなく、どこかピンと張り詰めていた。
「……人間の匂いだ。それも複数……こっちを囲む気だ」
その言葉と同時に、シモと私は武器を取り、インヒューマは面倒くさそうに息を吐いた。
月の光が、砂丘の輪郭を白く浮かび上がらせる。その稜線にいくつもの人影が浮かび上がった。
「止まれ!」
甲高い、しかし妙にプレッシャーを放つ声が響いた。十数人、いや二十人近くいるかもしれない。
彼らは月の光を浴びて鈍く光る剣や槍を手に、私たちを完全に包囲していた。
「旅人か。運がなかったな」
リーダー格らしい、ひときわ体格のいい男が砂丘の上から私たちを見下ろした。
「水、食料、金目のもの……そしてそのふざけた棺桶も、全て置いていけ。そうすれば命だけは……」
初撃が放たれたのは、男が言い終わる前だった。
バガン! と凄まじい音を立てて、棺桶の蓋が内側から吹き飛んだ。
「な、なんだ!?」
盗賊たちが驚くその一瞬。棺桶から飛び出した黒い影——シェバンニは、リーダー格の男のまさに目の前に、音もなく着地していた。
「……え?」
男は何が起こったのか理解できていなかった。シェバンニは月の光を背に、その黄金色の瞳だけを爛々と輝かせている。
「オレの安眠を妨げたなぁ!!」
「ひっ……!」
シェバンニの動きは、もはや人間の目には追えなかった。彼は男が剣を振り下ろすよりも早くその懐に潜り込むと、手刀で手首を打ち、剣を宙に弾き飛ばす。
そして空中で回転する剣の柄を掴むと、そのままの勢いで隣の男の槍を両断した。
「う、うわあああ!」「化け物だ!」「いや、怯むな! かかれーッ!!」
パニックになった盗賊たちが一斉にシェバンニに襲いかかる。
「……鬱陶しいんだよ!」
シェバンニはまるで踊るように、彼らの攻撃を全て紙一重でかわし、すれ違いざまに武器だけを奪い、あるいは破壊していく。
彼が通り過ぎた後には武器を失い、手首や肩を押さえてうずくまる盗賊たちだけが残った。わずか、数十秒の出来事だった。
「……な……なん、だ……こいつ……」
生き残った数人が腰を抜かして後ずさる。シェバンニは奪った剣の切っ先を、リーダー格の男の喉元に突き付けた。
しかし、その様子はどこかおかしい。ガクガクと肩を振るわせ、切っ先がぶれている。
男の胸元にかかったペンダント。それが月光を反射し、シェバンニを狂わせていた。
「うああああッ!!!」
「ひ……!」
口端から泡をこぼしながら刀を振り上げる。男の目は恐怖に見開かれていた。
「まあ待て、殺すでない」
その時、インヒューマが悠然と手を伸ばした。開いた小さな手を徐々に握ると、その先にいたシェバンニが苦しげな声を漏らし、そのまま後ろへと倒れてしまった。
恐るべき吸血鬼は月明かりの下、恐怖に震える盗賊たちをまるで汚物でも見るかのように冷ややかに見下ろした。
「な、なんだ、このデブ……!」
男はシェバンニの握っていた獲物を奪い返すと、震える手でインヒューマに突き付けた。
「……フン」
インヒューマは切っ先が自分の腹に触れるのも構わず、一歩前に出た。
「……死を目の前にする気分はどうだ?」
「な、何を……!」
インヒューマは何もしていない。ただその瞳で、男を見つめただけだった。
だが直後、男の顔から急速に血の気が引いていく。
「あ……あ……」
男は刀をカラン、と砂漠に落とした。そして次の瞬間、その場に膝をつき、まるで目に見えない何かに首を締め上げられているかのように激しく咳き込み始めた。周囲の盗賊たちも同様に、地面に伏してもがき苦しんでいる。
ミイラのように萎んでいく男に対して、インヒューマは愉快に顔を歪ませていた。徐々にその身体が縦に伸び、脂肪が薄くなっていく。
これこそ、真の吸血鬼の姿なのだろう。気付けば身長は二メートルを優に越し、私を見下ろしていた。
「インヒューマ、やりすぎだ!」
シモの声が慌てて飛んだ。インヒューマは魔術を使ったのではない。彼が真祖の吸血鬼として長きにわたり君臨してきた、その純粋な存在の格。その気になれば、いつでも他者の生命を奪えるという絶対的な畏れ。それをわずかに解放しただけだった。
盗賊たちは、本能的な恐怖——死そのものと対峙する感覚に襲われ、完全に戦意を喪失していた。
「もういいだろう」
「んん……残念」
痩せこけ、薄くなった唇に舌を這わせるインヒューマの姿は、完全に捕食者の威厳を放っていた。
「ゲホッ、がほッ……! くそ……ッ」
呼吸を取り戻したリーダー格の男は、砂漠に唾を吐き捨てた。
「……ツイてねえ」
彼はもはや抵抗する気力も失っていた。顔を覆っていた布を剥ぎ取ると、謝罪の代わりに、身の上をポツポツと語り始めた。
「……俺たちは、元は兵士だった。なぁ、お前たちは勇者派か?」
「……勇者派というのは?」
私が問うと、男は凛々しい眉をしかめて唸った。
「お前は、魔王が倒されて平和になったと思うか? 俺、俺たちはそう思わない」
ハッと顔を上げると、砂地に倒れる者たちの目線が、全てこちらへと向いていた。その悲しげな表情に、自然と背筋が伸びた。
「平和になった途端、俺たちは真っ先に解雇されたんだ……『もう兵士は必要ない』ってな」
「……」
シモが隣で息を呑んだのが聞こえた。遮るもののない砂漠で、私の心臓の鼓動が伝わらないかどうかが気がかりだった。
「これじゃあ家族を養うこともできねえ……戦うことしか知らない俺たちに何ができる? こうして、旅人を襲うしか……こうするしか、生きる道が、なかったんだよ!」
男の叫びはロックフェルで聞いた、魔王崇拝者の言葉とはまた違う、悲痛な叫びだった。シモは何も言えず顔を伏せた。
「……あ」
その時、私はシェバンニの手刀を受け、肩を脱臼している兵士が痛みに呻いているのに気づいた。私は反射的に彼のもとへ駆け寄ろうとしたが、
「待て、小娘」
インヒューマが私を制止した。その細い指先が私の頬を掴み、ぐっと身体を引き寄せられる。
「……その者は敵だぞ? 私たちに仇なす害だ」
「で、でも、怪我人は……!」
「我儘な娘だ……しかし、いい機会か」
インヒューマは私の耳元まで頭を下げると、試すように言った。
「……教えた通り、貴様の源泉に蓋をしたまま治癒してみせろ」
「え……」
私は戸惑った。あれを使わずに治癒する?
インヒューマ曰く、私が無詠唱で魔法を使えるのは、身体に魔力を貯蔵できるからなのだと。私は精霊が自然と魔力を受け渡してくれるからと、それに頼っていた。
しかし、直接外界から魔力を拾うとなると……
「で、でも、そうしたら治りが……」
「当たり前だ。教科書通りの、普通の魔導士が扱う魔法に戻るだけだ」
彼は私の葛藤を見透かすように続けた。
「成長の機会を逃し、その敵を一瞬で治すか? それとも今、私の教えに従うか……選べ」
それは、私自身の魔導士としての在り方を問う、厳しい選択だった。
私は、深呼吸を一つした。インヒューマに教わった通り、普段使う魔力の回路に意識的な蓋をする。そして、脱臼した兵士に近付いて、その肩に手をかざした。
「……ヒール」
私が使ったのは、最も基礎的な治癒の魔法だった。魔力を外から取り込み、魔力回路を通して、正確に患部へと流し込む。淡いかすかな緑の光が兵士の肩を包んだ。
「う……っ」
兵士が小さく呻いた。私のヒールは、いつもなら一瞬で傷をなかったことにする。けれど今、私の使ったヒールは、じわじわと時間をかけて、彼の幹部を活性化させていく……ほのかに痛みが伴うものであるようだった。
「……これで、どうでしょうか」
だが、骨の位置は徐々に元の位置へと戻っていった。インヒューマがその様子をフン、と鼻で笑う。
「……不格好だが、まあ及第点だ。お前の特性などなくとも人は救えることを、しかと覚えておけ」
私は汗だくになりながら、初めてヒールを成功させた。得体の知れない魔力の壺に頼ることなく魔法を使えた、そんな当たり前の事実に、私は胸が熱くなるのを感じていた。
「……な、なんだ、あんたら……」
リーダー格の男は、私たちを信じられないという顔で見ていた。
「殺さないのか、俺たちを……」
彼は武器を全て失い、仲間は怪我を治してもらい、戦意は完全に砕かれていた。
「……キミたちの行く末を、僕は祈っているよ」
シモが力なく彼らに言った。フードを深く被り、その表情を見られないようにして。
「……あんたら、オアシス街の『サフィール』に向かってるのか?」
男が立ち上がりながら尋ねた。シモが「そうだ」と答えると、男は声を一段階低くして告げた。
「……やめておけ。俺たちもそこを追い出されて、こうなったんだ。今のサフィールは人間の街じゃない」
「どういうことですか?」
「『ナゾナゾ魔人』がいる」
「ナゾナゾ魔人? 随分と馬鹿げた名前だな」
インヒューマが初めて興味深そうに眉を上げた。男は怯えながらも話を続ける。
「ああ……訳の分からない問題を出す、気味の悪い魔人だ。それに答えられねえ奴は二度と、オアシスから出てこられない……魔王がいなくなってから、そんな奴等ばっかりだ……お前らみたいなのもな」
盗賊団は、私たちが差し出した水筒の水をいくつか受け取ると、砂漠の闇へと逃げるように去っていった。
後に残されたのは、不穏な情報と、私たちのそれぞれの葛藤だった。
「……上手くいかないね」
シモが月を見上げて呟いた。彼が救ったはずの世界に見つけた、新たな歪み。
オアシス街「サフィール」は、もう目と鼻の先だ。
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