第32話

 ――ユグドラシル。

 それは、世界樹の名を冠した人類の希望。国連を中心とする、地球上のあらゆる国境を超えて動く、超々法規的組織だ。

 早速公式サイトが公開され、4秒でサーバがダウンした。

 ネットのSNSは月への移住話でもちきりである。

 そして、ヤイバはといえば……普通にテレビを見ながらイクスの肩を揉んでいた。

 テレビでは、早速ユグドラシルの活躍が次々と報じられている。


『え、今速報が入りました。ユグドラシルの調停により、イスラム圏の紛争は順次停戦に入るとのことです。また、イスラエルの領土問題に関しても……あ、次の速報です!』


 人類がやっと本気になった、みたいなものかなと思った。

 だが、どうにも規模が大きくて少し訳がわからない。

 ただ、地球が現在急激に環境を悪化させているのは実感している。異常気象が続き、天候不順が食糧危機を連れてくる。地球は温暖化を超えて沸騰しており、排出される二酸化炭素で海水温も上昇中だ。

 46億年かけて育まれた、水の星……地球。

 をれを産業革命からたった200年近くで、人間は破壊し尽くしてしまったのだ。


「はあ、そこじゃ、そこ……気持ちいいのう」

「随分凝ってますね、肩」

「こっちに来てから、面白い本が多くてのう。ゆっくり日がな一日読書ともいかんのじゃが……なにせ、キルライン伯爵がどこに潜伏してるかさっぱりわからん」

「結構近くにいそうなんですけどね」


 人類の叡智が地球を救う。

 そのまえに、伯爵をなんとかしないと近所迷惑な話だった。

 だが、伯爵とブランシェがどこにいるのかさっぱりわからない。

 イクスには魔力探知の魔法もあるのだが、やっかいなことに「ブランシェの魔力を探知する」ということが、イコール「ブランシェに探知の魔法をかける」ということになり、結果的に探知魔法を奪われてしまうのである。

 難儀なもので、既にいくつもの魔法を盗られてしまった。

 はやく伯爵を止めないと、本当にイクスの魔法は失われてしまう。

 それだけではない、異世界のはた迷惑な環境テロリストが魔法を手に入れ、元の世界で大暴れすることになるのである。

 そんなことを悩みつつも、どうしても受け身にならざるを得ない。

 開けっ放しの縁側に声が輪唱を奏でたのは、そんな時だった。


「ヤイバ君、大変です! 学校で放送を見ましたが、街中大混乱です」

「ヤイバっち! 月旅行だって! ゲキヤバ……荷造りしなきゃじゃん!」


 チイとカホルが同時に現れ、靴を脱ぎ投げるなりあがってきた。

 どうやら二人共、例の緊急放送を見たらしい。世界全土で今、この二人みたいに誰もが驚き慌てふためいているのだろう。


「あ、いらっしゃい。なにか飲む?」

「……ちょっと落ち着きすぎじゃないですか? ヤイバ君」

「イクスんも、呑気にお茶すすってる場合じゃないし!」


 しかし、騒いだからとてどうなるという話でもない。

 どっちかというと、伯爵のほうが今のヤイバにとっては問題だったし、ブランシェを助けてやらなければと気が焦れる。こう見えても、それなりにイライラもしているのだ。

 それは多分、美少女おばあちゃんのイクスも同じだろう。


「ふむ、月か……こっちの世界にはそういう星が近くにあるのじゃのう。ちょっと本で調べてみたが、なかなかに興味深いわい」

「月の大きさは地球のだいたい1/4、重力は1/6。どういう訳か、常に地球に表だけを向けたまま公転してるんですよね。月の裏の調査も最近始まったばかりですし」

「なにより、夜が明るくていいのう。風情がある。それでいて、実際近寄ってみると荒涼たる無人の荒れ地。なるほど、遠くで眺めてるうちが華というわけじゃなあ」


 そんな呑気なことを言ってる間も、次々とニュースがテレビから飛び出してくる。

 ロシアと中国も計画に参加し、核保有国が緊急の臨時条約を結んだとか。少数民族や国家を持たない民族も、別け隔てなく移住するとか。実はもうすでに、人類以外のあらゆる生命体は遺伝子データとなって月に送られる寸前であるとか。

 突然、世界が様変わりしてしまったような大騒ぎである。

 そして、素朴な疑問をカホルが口にする。


「でもさ、月つったらロケットで行くじゃん? そんなに沢山あんの? 何人乗り?」

「もっと巨大な宇宙船が必要なんじゃないでしょうか」

「それな! チイたん、やっぱ東京ドームくらいの宇宙船ないと駄目じゃね?」

「あるいは、もっともっと大きな」


 その時、ガラガラと玄関をあけて慌ただしい足音が入室してきた。


「ただいま! あと、話は聞かせてもらったわ! 実にいい疑問ね!」


 ヤイバの母、ミラだ。

 帰宅した彼女は、そそくさとノートパソコンを取り出し広げる。

 なにやら色々なファイルがならんだデスクトップで、ショートカットキーから何層もフォルダを伝ってゆく。そして到達した極秘資料を、彼女は特別に見せてくれた。


「これがユグドラシル……軌道エレベーターよ!」


 画面に、CGで巨大な塔が屹立する。

 なるほどとヤイバも納得した。

 これならば全人類を月に移住させることも難しくないだろう。建造には莫大な予算が必要だろうが、地球上の資金と資源を結集させれば不可能とは言えない。

 また、そのためにユグドラシルには特別な権限が持たされているのだから。

 国家よりも強く、国連とは違って強制力を持つ特別な組織なのだ。


「なんと、月に向かって橋をかけるのかや……大きい話になってきたのう」

「もう地球、ボロボロだからね。半世紀かけて全人類は月に移る。住む場所は限られてるから、何割かは冷凍睡眠になってもらうけど。で、地球のリハビリが始まるわけね」


 ミラがトントンとパソコンを踏査し、画面が切り替わる。

 地球の映像が映し出されて、その中に光る点がいくつも線を結んでいた。


「この点はと線は、いわゆる龍脈とかレイラインって呼ばれるパワースポットよ。地球という生命体の血管や神経みたいなもの」

「えっ? なになに、地球って生きてんの? それどこ情報?」

「例えばの話ですよ、カホルさん。あ、おばさま、続きをお願いします」


 ミラの話をようやくすれば、こうだ。

 地球上にはパワースポットが無数に存在し、昔から風水などで存在だけは知られていた。それが科学的に証明され、地球自体の力が大きく弱っていることが観測されたのだ。


「この線が集う先……ちょっと場所は言えないけど、地球の力そのものが集まってる場所があるの。それを私たちは星の泉と呼んでるわ」

「ほほー、奇遇じゃなあ」

「人類退去後は、星の泉を中心に再生事業が行われるんだけど……そのために必要なマンパワーを供出してくれるのが、Earth Life Forceと呼ばれる人造人間たちよ」

「……ん?」

「略してエルフ、ってありゃ? イクスたちと同じ名前になっちゃうね」

「ふむふむ」

「そっか、それでデザイン部の連中、耳を長く描いていたのか」


 星の泉とエルフ、そして地球再生計画。

 ふと、ヤイバは妙な予感に口を挟んだ。


「イクスさんの世界にもあるんですよね、星の泉」

「勿論じゃとも。ワシらはそこから生まれて、そこに還る。しかし、人類たちの文明によってかなり弱ってきててのう」

「こっちの世界と似てますね、事情的には」

「しょうがないことよ、人は皆エごと欲を持つ。ワシも少年も、皆もな。それは良いことにも作用するが、同じくらい悪いことにも作用するのじゃ」


 3,000歳の賢人は語る。

 ヤイバも、伯爵のことを思い出すと妙に実感があった。

 うんうんと頷きつつ、ミラは次々とファイルを展開する。


「もうホント、その人間のエゴと欲で地球は限界なのよね。まあ、反対勢力がないわけじゃないんだけど……ここはこらえてもらって、みんなで月に行ってもらうわ」

「拒否はできないんですか?」

「ユグドラシルの職員が何人かは残るだろうけど、それも軌道エレベーター周辺に限られるわ。悪いけど、一種の強制移民ね」


 チイはふむふむと腕組み頷いた。

 そしてカホルは、ちょっと前から話についてこれずに目を瞬かせている。

 本当に、そういうレベルで地球がピンチだとは、ヤイバは思ってもみなかった。


「月は小さな天体だから、地球の人口全てを詰め込むとギリギリになっちゃう。なんで、年寄から優先して冷凍睡眠してもらうことになるわね。若い子たちはしっかり生きて、種を存続させつつ帰還に備えると」

「……驚いた、母さんがこんな大きなプロジェクトの仕事してるなんて」

「まー、私も冷凍睡眠組かなあ? 本格的に計画が動き出す頃には、おばあちゃんになってるかもだし。だからね、ヤイバ。チイちゃんもカホルちゃんも」


 パタン、とノートパソコンを閉じると、ミラは小さく微笑んだ。

 日頃の激務で憔悴してても、彼女は家庭では笑みを絶やさない。


「こんな時代の潮流に無理矢理巻き込んじゃって悪いんだけど、しっかり生きてね」

「ん、わかったよ母さん」

「努力します」

「あーしも!」


 イクスもうんうんと大きく頷く。

 そしてふと、遠い目をして外を向いた。


「ワシの世界でも、人間たちは賢く生きてくれればのう」


 イクスの生まれ育った異世界は、今まさにこれから科学文明が発達しようという黎明期だ。そして、その先に待つ未来を彼女はもう知っている。

 自分と同じ名の種族を生み出し、地球の管理を委ねねばならぬほどに母星を追い詰めた人類。あっちの世界も、このままでは同じ道をたどることになるかもしれない。

 そんなことを思いつつ、イクスの視線を目で追う。

 午後の青空には、うっすらと白い月が浮かんで見えるのだった。

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