第2話 可哀なるエリンジウム 2


「や……ろ……い……起きろー」


 郷村は頭の上から聞こえる声でおぼろげながら、ゆっくりと頭の回転を始めた。

 

 

 (あーいつまで寝てたんだろ……これもしかしてバレた?)

 

 いつの間に俯せの体制になっていた郷村は、顔を上げる事を恐れていた。顔上げた瞬間、寝ていたことに対する文句をグチグチと言われる……そう予想のついていた彼は頭の中でどう言い訳をしようかと思案していた。

 

 普段はそこまで深い眠りにつく事が無いのだが、疲れていたのだろう、それか夜中まで一緒になってゲームをしていた事が原因だろうか。

 

 そう緩く原因について考えながらも、自身の横にいるだろう人の声とそれが耳に入ってきたことによって体の中で暴れる動悸に、自身の意識が覚醒してきた事と状況を理解してきた事による焦りを少しずつ感じさせた。


 それと同時にある違和感を抱えていた。

 


 (というか、社会科の教師ヤツって、こんなはきはきした爽やかな声だったっけ……)


 彼の知っている教師は、こんな爽やかで初夏を感じるような快活とした声では無かった。もっと……梅雨のようにジメッとしていて太陽を覆う雲のような重々しい暗い声だった、と。



 トントン 

 


 彼が寝起きのぐるぐるとした頭で考えていると、突然頭に肩を叩かれた優しい痛みを感じ、反射で頭を上げてしまった。と、同時に大きく目を見開いた。

 それは考えていた言い訳の言葉も一瞬で消え去るような衝撃を持っていた。


 郷村が顔を上げた瞬間に映った人物は見覚えのない、爽やかな白いシャツを纏い少し緩めた鮮やかな青色のネクタイを締めている爽やかな男だった。

 男の手には公民と記された冊子を持っており、痛みの正体は彼であったことを咄嗟に理解した。


 郷村は肩を叩かれた事に対しては反射で理解することができた。

 が、目に入った男に対しては状況を上手く飲み込む事ができず、困惑してしまい喉が委縮し咄嗟に声を出す事が出来なかった。

 

 

 (いや……だれ)


 目の前で眉を歪め苦笑いしている男に、郷村は全くと言っていい程見覚えが無かった。

 脳内の記憶という記憶の中から目の前の存在を探したが、いくら自身の脳に問いかけても何も応えることがなく、疑問が浮かぶだけだった。


 誰ですか、そう勇気を出して口を動かそうとしたその時――



「ごめんなさい!」


 凛とした少女の声が部屋の中に響いた、と同時に目の前が一面綺麗に板書されたであろうノートと丁寧に手入れされているだろう艶々の黒髪が目に映った。

 その音は紛れもなく自身の口から飛び出したものだった。自身の意思とは関係のない言葉が口から飛び出したことで郷村の頭は益々パニックになった――そして何よりも自身から少女の声が発せられたことが。

 

  

 「珍しく居眠りかぁ?あまり根を詰めすぎるなよ〜?」


 郷村の脳内がパニックになりフル稼働していると、呆れたように緩くパーマでセットされている黒茶の頭を掻きながら目の前の男――先生は教壇の方に戻っていった。


 

 (まて……いっかい……落ち着こう。そう、息を吸って……そう)


 郷村は考える事を一旦頭の片隅に放っておいて、先ずは自身を落ち着かせる事を優先的に考えた。


 顔は動かせない、だが、視線は有り難いことに開けているため周りを見ることができる。

 

  自然を感じる少し耐久性を疑う木造の壁、そして男が歩く度にギシギシと唸る床。


 机と椅子は部屋と同じように木材で作られている。触り心地は……まぁ可もなく不可もなく。そして、部屋全体は古い施設だが、設備はあまり古い物ではないように見受けられる。

 

 使用頻度の高いらしい黒板は、汚れが落ち切っていないのかチョークの白い粉が薄く残っている。そのせいか、黒板の文字が少し見辛い。

 

 視界に見える窓から覗く景色は軽やかな空色で、優しく揺れる桜の木は鮮やかに咲き誇っている。

 


 (周りは同じ制服……)


 学生の象徴ともいえるだろうブレザーを身に着けている人が全体を占めていた為、そう決断した。


 そういう郷村の服装は居眠りをする前とは全く違う、チラリと見える袖口は草臥れていた筈が毛玉や皺一つないものに変わっており、身体にピッタリと馴染むブレザーを身に着けているようだ。丁寧に下のボタンまでキチンと留めてある。

 大きく違っているのは、これが女生徒用である事だ。居眠りをする前は、男物をきていた筈なのにどうして、と郷村は少し頭が痛くなった。見慣れた制服なのに落ち着かないのは、周りの人物誰一人知らない背丈と顔つきだからか。

 

 教壇に立つ男、いや先生は彼らと違って真っ白なワイシャツに少し真新しい高級感が溢れる藍色の縞模様のネクタイに、紺のスラックスを着ている……黒の中に白、そのせいか異質な存在浮いている存在になっていた。



 そう冷静に状況を分析してはいるが、冷静になった事でより郷村の頭の中はパニックに包まれた。


 ここはどこだ、意味がわからない。

 

 どうして喋れない、どうして体がうごかせない。

 

 どうして服が変わっている、女の子になっている。


 

 自分は死んでしまったのか。


 

 ぐるぐると回る思考とネガティブになっていく自身の心、郷村は自身の置かれた環境に戸惑い、焦りと不安で心がずんずんと重くなっていく。

 


――――先…見……よ郷……く……


「起きて郷村くん!」


 囁くよう小さくも勢いのあるソプラノが郷村の耳に入ってきた、と同時に郷村は意識が覚醒した。

 声のする方向を見ると、隣の席の少女――松戸矢那まつどやなが心配そうに郷村の方を覗いていた。


 郷村が周りをキョロキョロと見回すと、眠る前と同じ見慣れた光景が目に映った。

 真っ白いホワイトボードに沢山の文字、座っている椅子の少しざらついた質感と真っ白なノート、何事かとこちらを見る見慣れた顔ぶれ。


 郷村は心底安心した、どうやら先程までのは夢だったのか。


 

「すみません」


 授業が自身のせいで止まってしまったことに気づいて、慌てて郷村は声を出した。

 彼が平気そうだ、と判断した人々は少し後ろ髪引かれるような表情だったが目の前の授業に集中し始めた。


  

「郷村くん魘されてたよ……?大丈夫?」

 

「……大丈夫、ありがとう松戸さん」

 

 体調悪いなら保健室に、と言いかけた彼女に郷村は言葉を遮るように感謝の言葉を贈った。

 彼女が声をかけてくれなければ、あの夢に囚われていたままだったかもしれない。

  

 シャツはびっちゃり汗ばんでいて少し気持ち悪いが、肩にかかるブレザーのリアルさに安心した。

 

 安心した郷村は、伏せていた顔を上げる拍子にぐしゃっとなってしまったであろう自身のノートの皺を伸ばし、俯せの体勢になっていたことによって凝った肩の関節ををバレない程度に上と下へとゆっくりと動かした。


 

 (とんだ悪夢だ、全く……しかしなぜ女性になる夢を)


 生まれ持った性が今更変わるなどどれだけ生きづらくなることか、しかし夢で良かった、と改めて郷村が胸を撫で下ろした。

 ……が、もうこんな夢はごめんだ、とため息を漏らした。

 

 鳥がチュンチュンと鳴く声に彼の消えそうなため息は掻き消され、誰にも届かないものとなった。

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