第3話 可哀なるエリンジウム 3
居眠りしていた分をノートに写さなければならない、そう思った郷村は漏れ出すような溜め息がまた出そうになりながら意を決して、目を細めホワイトボードのくっきりと浮かび上がっている文字を写そうとシャープペンを持ちノートの上に置いた。
思っていたよりも量が多く、複雑な文字ばかりを綴る手は段々と適当な文字を綴る手へと後退していった。
そして文字はふにゃふにゃで郷村ではないと理解できないような怪文書へと変貌した。
「(うわ、酷)」
ボールペンを使って大切な所に線を引こうと定規に手を伸ばした郷村は、自身が作り出したモノであるのに他人事のようにそう思った。
そう思うくらいなら書き直せば良いのに、と思われそうだがそこまでの気力はない為見なかった事にして続けた。
「あの!もし良かったら、これ使って…?」
何千年後の未来人が見ると、暗号にしか見えない適当な文字が羅列する頁を作っていると、隣の席の女子生徒、松戸が声を掛けてきた。
彼女の手には教科書の頁が握られていて、ビビットピンクな線と可愛らしい丸文字が記されていた。
「先生が、大事な所にマーカー引いてって言ってたから…余計なお世話だったら、ごめんね」
「いや、助かる。ありがとう、松戸さん」
尻窄みになる彼女の手から郷村は教科書を感謝の言葉を口にし、受け取ってもらえた彼女は一瞬ビックリした顔をした後、嬉しそうに頬を緩ませてニコニコと微笑んだ。
先程、声をかけた際に突き放されたと感じた彼女は親切を受け取って貰えないと思っていたからだ。
勇気を出して良かったと、と一人嬉しくなり溢れんばかりの喜びが顔から溢れたのだろう。
それが、親切なのか、好意なのかは彼女しか分からないが。
そんな表情を向けられてるとは露知らず、郷村はサッと教科書を受け取っていた。
それもそのはず、早く返却しないと持ち主に迷惑がかかると思ったからであった。
借りた教科書を折り目を付けたりしないよう、細心の注意を払いながらも急いで自身の物に記しを付けた。
思っていたよりもマーカーを綺麗に引くのに苦戦したが、なんとか短時間で終わらせることに成功し、感謝の言葉と共に教科書を渡すため前を向いて集中している彼女に声を掛けた。
「松戸さん、ありがとう、本当に助かった。
スッキリして見やすくて…それに文字可愛いんだね」
「こ、こここちらこそ、ありがとう!」
「ぇ、うん?……ん?」
頬をポッと桃色に染めた松戸は一言申してから、郷村の手からひったくるようにしてバッと奪い、彼を避けるように下を向いてしまった、それに伴って焦茶色の髪がふわっと揺れた。
彼女の行動の速さと言葉に、何か変な事を言ってしまったのでは無いか、と郷村は一瞬不安になったが嫌な顔をされた訳では無さそうだったので大丈夫か、と自身を納得させた。
郷村が使い古した文字を書くためのシャープペン、分かりやすく見易くするためのボールペン、間違えを正すための消しゴム、と交互に使って頁を埋めていると違和感を感じ、ふと木造の部屋全体がカタカタと鳴っていることに気づいた。
外から吹く風によって部屋全体が揺れているというより、
(地震……)
内蔵がキューッと冷えて鳥肌が立つこの感覚、郷村には身に覚えがあった。
なんたって、【地震大国】というなんとも不名誉な称号を持つ国出身で、わりと頻繁に地震に遭遇していたからであったからだ。
しかし慣れというものは恐ろしいもので、なんだ、地震か。と焦ることもなくただぼんやりと悠長にその事実を受け止めた。
郷村のこういう危機感の無い考えは良くないというが、騒いだところで何かが解決するわけでもないし、かえって周りに不安を与えてしまうということを十二分に理解していた為の持論でもあった。
一人……二人……郷村と同じように揺れに気づいた者も居るらしく不思議そうに頭を左右に振り周りを見渡す人も居たが、小さな揺れが数秒ほど続いただけだったので、誰も声を上げることなく部屋の中は静かなままであった。
郷村は揺れが収まった事にホッと胸を撫で下ろし、再び文字を書こうと指に力を入れる……その時だった。
先程と比べ物にならない大きな波に攫われたような深く大きな揺れが郷村を……いや部屋全体を襲った。
困惑の声から始まった教室内は阿鼻叫喚の嵐へと凶変した。
横に横にと揺れ動く部屋の中は無造作に置かれていた色付きのペンをジャラジャラと床へと転がし、天井の照明がチカチカと光っては消えるを繰り返していた。
窓は誰かが外側から細かく何度も何度も叩いているかと錯覚してしまう程の激しい音を発し今にも割れてしまいそうな雰囲気を醸し出し、そこに集う人々の恐怖を煽るようなものであった。
困惑にも似た叫声に包まれる中、郷村は先程の比ではない耐え難いの無い感覚に襲われていた。
内臓が冷えるなんて物ではない。自身の鼓動が周りにも聞こえているのではと確信してしまう程に心臓が激しく動悸し、呼吸の方法を忘れたかのように上手く息を吸うことが困難となり、身体全体で命の危機を発しているようなものであった。
持っていたシャープペンは手から零れ落ち、大きな揺れに飲み込まれて見えなくなった。
郷村の耳には確かに聞こえたのだ。
――ダァィスキ、ァイシテルセンセィ
この世のものではない、悍ましくも哀しい情に訴えかけるような囁く声を。知らない筈なのに、知っている声。
郷村が左右に首を振って、後ろを振り返っても誰もいない、そこには混乱する人々がいるだけ。
この中の誰かが態々怖がらせるような事はしない。
今現在地面が揺れている、という怖い目に遭っているのだから、そこまでふざけられる余裕を持つ者はいない。
「(今の声……は)」
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