隠恋 Ⅰ
宮中に参上する際の規範に従い、郭応国は腰に剣こそ佩びていない。しかし甲冑で身を固めた彼は凛々しく精悍な武人であった。拱手して窈児を迎えた仕草は流れるようで、一切の隙が無い。
郭応国は無論、単身で後宮に乗り込んできたのではない。供の者はもちろん、ぼろぼろになった僧衣を纏った、拘束された人物を引き連れてもいる。もっとも墨染の衣を纏った誰ぞは頭までをも布で包んでいる上、ひたすらに面を俯かせているため、本当に件の尼かどうかは定かではないのだが。
何はともあれ、郭応国が爽やかに破顔した途端、彼の姿しか視界に入らなくなった女官もいただろう。背後から聞こえた溜息に、皇太后は内心で苦笑を漏らさずにはいられなかった。
「皇太后娘娘――いえ、何窈児どの」
もっとも、内心の苦笑はたちまち表に出てしまったのだが。
いくら龍譜に連なる身とはいえ、皇太后たる窈児を
何であれ、龍宝には指一本触れさせはしない。
密かに、けれども強固に固めた覚悟は、しかし数瞬の後には吹っ飛んでしまった。崩れたのでも、砕けたのでもなく。
「我が未来の妻に手土産を持ってきましたよ!」
窈児は郭応国と結婚の約束をした覚えなど毛頭ない。だいたい皇太后が再婚など、できるはずがない。
「……は、はあ?」
戸惑いのあまり素が出てしまったが、今は頭がおかしい男よりも紅華宮の火災の生き残りの尼である。
「そこの者、面を上げなさい」
ややして露わになった面相は、確かに酷い有様だった。
同じ俗世を捨てるにしても、道観ならば女の宝たる髪を残したままでいられる。だのに目の前の人物が剃髪する道を選んだのは、彼女は
露わになった肌の中で、唯一無事なのは左の目元付近だけ。しかしほんの一欠けらだけ残った麗質の名残は、却って悲惨さを際立たせていた。
いっそ全てが焼け爛れていたのなら、
窈児は優玉を愛しているが、流石に全身が焼け爛れた亡骸の中から、優玉を見つけ出すことはできないだろう。この尼の姿から、火に焼かれる苦しさを、改めて教えられた。
――ちょっと、待って。成偉お兄さまは、同じく全身が焼け爛れていたという遺体の中から、どうやって優玉さまのお体を見つけ出したの? 衣服だって、焼け焦げていたでしょうに。
ふと脳裏に生じた疑問に、皇太后は眦が裂けんばかりに目を瞠る。
司馬家の屋敷には、優玉と同じくらいの背丈の者も幾人か仕えていた覚えがある。体の大きさでは、焼死体の身元は判別できないはずなのだが。
つい寄せてしまった眉根から、あらぬ誤解をさせてしまったのだろう。
「……皇太后、娘娘。も、申し訳、申し訳ありません!」
尼は、閉ざしていた口をようやく開いた。火災により、喉も傷めてしまったのだろう。酷く嗄れた、聞き取りづらい声色だったが、彼女の人柄は伝わってきた。この人は誰かを、あるいは国を呪う悪人ではない。
「こ、今回のことは、全て、私が、」
「寺院から逃げ出してしまったことについてなら、詫びる必要はありません。急にあのような使いを出してしまった妾にも非があります」
言外に逃亡の罪は不問に処すと伝えると、尼の近くの郭応国は口元を歪めた。さも面白くないと言わんばかりに。
「ち、ちち、違う! 違うのです、娘娘!」
一方尼は、とうとう上体を崩れさせ、その場に突っ伏した。墨衣越しにも痩せ衰えているのが明らかな肩は、
「紅華宮の火災は、全て私の責任なのです! ――あの日私が、
そうしてそのまま、尼は今まで決して口外できなかったという秘密を吐露した。
空気が酷く乾燥した冬のある日。彼女は手狭ではあるが物で溢れた自室で、夜なべして書を読んでいた。紅華宮では、その優しさゆえに慕われていたという主から与えられた、流行の書を。
とはいえその書は、彼女だけの一冊ではなく、いわば紅華宮の宮女たちの共有の品であった。だから早く読み切ってしまおうと、寝床の近くで灯りを頼りに頁を捲っていたのが不味かったのだろう。半ば寝ぼけていたのか。彼女はそのつもりなど微塵もなかったのに、厠に行こうと立ち上がった弾みで、油灯を布団目掛けて傾けてしまったのだ。
尼は紅華宮の女官でも比較的高い位に就き、相応の贅沢を許されていた。それゆえ物が多い室を、炎が呑み込むのはあっと言う間だった。他の室に燃え広がるのも。それでも彼女は、否、彼女だけは炎から逃れられた。解いていた髪を嘗め尽くした炎に顔や体を炙られながらも。
自分は仲間たちや優しい主を見捨ててしまった。自分のせいで皆を死なせてしまった。尼が己の罪深さを悟ったのは、燃え盛る宮からどうにか脱出し、地面に転がって炎を消し止めた後だったという。
――くぐもった嗚咽混じりに明らかにされた、紅華宮焼失の
「それから私は、せめて私のせいで死んでいった皆の冥福を祈るべく出家し、尼になりました。この火傷の痕など、私の罪深さを考えれば、罰ですらありませぬ。もがき苦しんで死んでいっただろう皆のことを想えば、私など……」
ぼたぼたと滴る大粒の涙が本物ならば、五行怪事は、少なくとも火の怪事は、やはり優玉の仕業ではないということになる。
「俗世から遠く離れていた身ゆえ、五行怪事の噂など、知る由もありませんでした。ただ、娘娘の使いより、あの火災について確かめたいことがあるゆえ宮中に足を運ぶようにと告げられた途端、恐ろしくなってしまって……」
彼女はとうとう、自分の悪行が明らかになったのだと怯えた。そうして気が付いた時には、いつしか捨てたはずの俗世を彷徨っていた。信心深い者が匿ってくれたが、郭応国の配下からは逃れられなかった。ために彼女は発見され次第、直ちにこの場に連れてこられたのだという。
おそらくだが、道中で暴力も振るわれたのだろう。尼の赤茶色に焼け爛れた顔は、ところどころうっすらとだが黒味を帯びていた。
「仏に仕える身でありながら己の咎から逃げ、あまつさえ窈児どのの追及からも逃れんとしたとは! この大罪、命をもっても贖えるものではないぞ!」
「――お黙りなさい、郭
立ち上がりさえして、平伏する尼に罵声を浴びせかけていた男を、皇太后は声音だけは柔らかに窘める。
「妾がいつそなたに発言を許しましたか?」
皇太后が艶やかな唇で弧を描き
「そなたはそうして、この場で誰が最も無礼であったか、ゆっくりと考えなさい。妾がもうよいと言うまで、一切口を開かずにゆっくりと、ね」
国母となった身とはとても信じがたい、あどけない面から発せられた、ひんやりと冷たい、けれどもねっとりと絡みつく威嚇は、女官すらも慄かせる。
月草の儚い青を宿しているというに、先ほどの嘲りよりもよほど凍てついた双眸が、壮年の男から外される。眦に刷いた紅との対比がどことなく婀娜めいた瞳を真っ直ぐに向けられた尼は、慌てて焼け爛れた面を伏せた。
「まず最初に、ここに連れてこられるまでにあなたに振るわれた非礼を詫びなければいけませんでしたね」
皇太后から述べられた謝罪に、尼はますます身を縮める。
「わ、私はそのようなお言葉に値する、者では……」
どうか、どうか、娘娘。私をお裁きくださいませ。
幾度となく床に打ち付けられた額は破れ、血が滲んでいたが、それでも尼は罰を懇願し続けた。
「確かに、あなたは罪深い。どんな酸鼻を極める処刑ですら、あなたが犯した罪を贖うには足りないでしょう」
「――お、おっしゃる通りにございます。ですが私は、私のせいで死んでいった者たちの苦しみをこの身に受けたいのです!」
「そうですか。ならば……」
ふっくらとした、突けば血が滴りそうな茱萸の実から紡がれた響きに、尼は安堵の表情を浮かべた。これでやっと楽になれるとでも言わんばかりに。
「ならばあなたはこれからも祈り続けることで、罪を償いなさい」
しかし焼け爛れた面を満たしていた歓喜は、たちまち凍り付いてしまった。
「あなたは仏に仕える身だというのに、思い上がっているようですね。あなたの過ちは、あなたが望む処刑法の全てを受けたとしても、贖えるものではないでしょう?」
皇太后は榻から立ち上がり、涙と血で汚れた頬にそっと手を添える。
「……娘、娘?」
「これから十年も二十年も――死ぬまで。あるいは死んだ後も祈り続ける。それをあなたへの罰とします」
先ほどとは打って変わって慈母の微笑を浮かべた皇太后から下された沙汰に、墨染の衣の女はその場に突っ伏した。
「――良いですか。今回のことは他言無用です。この者はあくまで、妾の招きに応じ、五行怪事の火の事件について証言をしたまで」
これまでの証言者同様、目の前の女性にも褒美を選ばせたかったが、今の彼女にそれは難しいだろう。なので窈児自らが、悟教の法具にも使えそうな反物を選んだ。
女官に反物を纏めさせ、併せて尼を匿っていた者にも褒美をと、扉の外に控えていた宦官に命じる。これで、後は上手くいくだろう。
「くれぐれも丁重に、元の僧院まで送り届けなさい」
郭応国の配下ではなく、呼びつけた衛兵に尼の警護を命じた際も、尼は大粒の涙を流しながら、同じ語句を繰り返していた。娘娘のお慈悲に感謝いたします、と。窈児は別に、大したことはしていないのに。
今更、紅華宮の火災の真相を公表しても、あの尼はもちろん、死んでいった者たちの家族の誰も得をしない。むしろ、時の助けを借りて癒えかけていた傷を穿るだけだろう。ならばいっそ、全てを闇に隠すべきだと判断したまでだ。
「流石、窈児どのはお優しい。あなたこそまさに、いつか国母となるに相応しいお方だ」
だのに、つらつらと賛辞を並べられると、嬉しさではなく薄ら寒さを覚えてしまう。だいたい窈児はいつこの男に発言を許可したというのだろう。
「妾は既に国母ですよ? だのに、
――先ほどの発言と併せて、そなたの弁明を聞かせてもらいたいものですね。
紅脣の端をにんまりと、鎌のごとく吊り上げても、目前の男はいささかも怯まなかった。
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