隠恋 Ⅱ
「そういえば折角の客人だというのに、まだ満足なもてなしもしていませんでしたね」
急いで茶と菓子を用意させるゆえ、どうぞ隣の室に。用意が整うまでの間、暇つぶしがてら、存分に語り合いましょう。
窈児
紫華宮どころか、後宮の全ての宮には厨房はない。全ては食を司る省で整えられ、運ばれてくるのだ。
「皇太后たる妾を妻にするなど、一体どういうつもりです? まして妾は、そなたの族弟の妻なのですよ」
控えていた女官にそれぞれ用を申し付けてやっと、皇太后は郭応国と同じ卓に就くことができた。もちろん二人きりではなく、室内には残した女官が、開け放たれた扉の外には宦官や衛兵が控えていたが。
「言葉通りの意味です。無論今すぐに婚儀を挙げるというわけではなく、きちんと
窈児の額には青筋が浮かびそうなのに、郭応国は運ばれてきた茶を悠々と賞味している。
「これは……帝室御用達の中でも、更に貴重なものですね。心を尽くした歓待、まこと心に染み入ります」
この男、やはり頭がおかしいに違いない。こんな男の相手を、これ以上まともにしても無駄だ。
――わたしはもう絶対に、優玉さま以外の殿方のものになどならない! これ以上、優玉さまを裏切ってたまるものですか!
ふっくりとした唇を噛み締めた皇太后は、激情のままに握りしめた拳を卓に打ち付ける。
「妾は皇太后! 再嫁するなど、断じてありえぬ!」
「史書を紐解けば、皇后位に二度も三度も上った者もいるではありませんか。夫の死後にその同族に嫁した女も」
「その名の後に、汚らしい交わりをしたとの誹謗を記されて、な。……たとえ郭と名乗らずとも、嫁したからには妾は郭氏の女。その妾を妻にするなど、姉妹と姦するに等しい乱倫であるぞ!」
けれども郭応国は、涼しい表情を崩さない。もしやこの男、窈児が彼の妻になると確信しているのだろうか。だとしたら、なんと腹立たしい。
「窈児どの。あなたは、不幸な
空になった茶器を卓に置くと、郭応国はぽつりと呟いた。芯から窈児を憐れんでいると判ぜられるのが、却って気味が悪い声音で。
「才気溢れる何家の令嬢として、何不自由ない幸福な未来が約束されていたというのに、一度目の許嫁とは死に別れてしまった。挙句、先の陛下のような、群臣と宦官の操り人形の妻にさせられて……」
仮にも皇帝であった成偉を評するには無礼すぎる、けれども真実を穿った言葉に、窈児は反論できなかった。苛烈なれども聡明であった司馬廃后の皇子が廃され、暗愚な成偉が新たな太子に立てられたのは、英宗の我欲ゆえである。しかし成偉はきちんと百官の支持を得て、皇太子の座に就いたのだ。
宦官や官僚たちは、知ってしまったのだ。政治を放棄した帝を支えるという名目で、自らの下に集めた権力の味を。そうして啜る蜜の甘さを。だからこそ彼らは、常々佞臣の排除を訴えていた司馬廃后の太子への敵意を内心で募らせ、ついに自分たちの意のままになる成偉を担ぐことにした。昏主になるのは間違いなしの無能を。
いかにして陥れようかと画策していた皇太子の廃位を、皇帝自らが唱えたのだ。蔓延る汚吏たちにとっては、巫蠱事件はまさしく渡りに船であったろう。
「無論、あなたのお父君のような、国に忠節を尽くす、清廉な官吏もいます。この国は、あなたのお父君を筆頭とする、忠烈の徒のおかげで保っていると言ってもいい。しかし彼らの力をもってしても、宮中に巣くう魑魅魍魎は排除しきれるものではない」
これ以上無力な天子が続いたら、この国は滅んでしまうやもしれません。
ぽつりと漏れた悲哀には、窈児も同意しないわけにはいかなかった。
晃朝が滅んで既に二百年以上も経ったというに、堉は未だ晃朝の頃の版図を――北狄に奪い取られた北方十州を回復できていなかった。どころか、毎年絹や銀などの
加えて南方でも、晃朝の治世では支配地の一部であった超国の独立を、半ば許している形となっていた。超国内では「大超皇帝」と自称している彼の地の王の不遜を罰したくとも、兵を送る余力がないのだ。
西戎や東夷との関係は比較的落ち着いているが、いつこちらの弱みに付け込んでくるか定かではない。だからこそ窈児は、龍宝を人君たるに相応しい器に育てあげるつもりだった。
――だのに、龍宝の玉座を奪われてなるものか。
「私は必ず皇帝となり、あなたを皇后とします。この国の現状を正すためには、何氏の力が必要なのです。人倫に
怨嗟と怒りに燃える女の眼差しを、男は柔らかな笑みで受け止めた。
「だから、不遇であった頃は忘れてしまいなさい、窈児どの。あなたはこれからは私の妻として、女としての最高の幸せをも得るのです」
どうして衛士は、この痴れ者を捕縛しないのか。この者は謀反を企んでいるというのに。横目で女官たちの様子を伺っても、皆おろおろと戸惑うばかりだった。
「――妾には龍宝という息子が、既に天より皇帝と認められた吾子がいるのだぞ! そなた、妾に龍宝の母であることをも忘れよと申すか!? ――否。母と子の繋がりは、断じて忘れられるものではないわ!」
煮えたぎった油にも勝る怒りに身を焼かれた皇太后は、喉も裂けよと絶叫する。
「あなたにも先の陛下にも似ていない、司馬安祺に瓜二つの不吉な子供なぞ、天はともかく百官も万民も、内心では誰も皇帝と認めてはいませんよ」
――とうとう、言われてしまった。
身を千々に引き裂かれたのかと紛う衝撃に耐え兼ね、床に崩れ落ちた女を、男は助け起こそうとはしなかった。ただただ、憐れみを込めた瞳で見下ろすだけで。
「……妾の、貞節を、疑うのですか? しかし、あの子は、」
「司馬安祺が死んだ後にできた子供だ。生まれた時期からも、それは間違いない。だからこそ、皆恐ろしいんですよ」
下される
「司馬安祺が祟っているという噂だって、あなたの息子が生まれた直後から流れ出したものだ。皆、あなたの息子を恐れているのです。あなたの息子は、呪われているのです。司馬安祺がこの国を呪うために産ませた魔物なのです」
「違う! 違う!」
耳珠も、髪に挿していた飾りも。身に佩びていた装飾品の全ては、いつの間にやら外れてどこぞに飛び散っていた。だが、いやいやと頭を振る女は、何一つ気づかない。この場に控える者たちの、恐怖で凍り付いた顔にも。
「龍宝は妾の宝貝。妾の可愛い、たった一人の吾子だ!」
「あなたはまだまだお若い。子など、これから幾らでも恵まれるでしょう」
労わるように肩に置かれた手を、女は憤怒のままに跳ね除ける。
「誰ぞ、この無礼者を摘まみだせ!」
ひび割れた絶叫が、室内に木霊する。しかし女官も宦官も衛卒も、誰も動こうとはしなかった。それが、何よりの答えだった。――この者たちもまた、龍宝は魔物の子だと信じているのだ。
ひたひたと押し寄せ、華奢な体を包んだ絶望は、熱い雫となって溢れだした。
「……ちがう。あの子は、龍宝は、魔物なんかじゃ、ない」
いったいどれ程、床に突っ伏して啜り泣いていたのだろう。
「だれか。……誰でもいいから、あの子のことを信じて。……おねがい」
施していた化粧が涙によって全て剥がれ落ちた頃。今ばかりは心強い声が、乱れた頭の上からかけられた。
「どうしたんだね、小鳳や。そんなところで蹲っている姿は、可愛いお前には似合わないよ」
懐かしい小字で窈児を呼んだのは、父だった。先ほど、郭応国に出す茶の用意を申し付けた際、こっそりと宮中で政務に当たっているはずの父を呼びに行かせていたのだ。
「……お父さま」
ねえ、聞いてよ。この者が、わたしの龍宝を侮辱するのよ。酷いでしょう?
皇太后は父の膝に縋りつかずにはいられなかった。昔、兄に楽器や裁縫の拙さを酷く揶揄われた時、頬を膨らませながらそうしたように。
父はいつも、窈児を苛めた兄を一喝してくれたものだった。だから今回も、そうしてくれると信じていた。父ならば郭応国を、窈児の目の前から永久に追い払ってくれると、期待していた。なのに。
「ご息女の説得をお願いしますよ。皆が知っている通り、ご息女は一途なお方ですから」
父は、龍宝のためには結局何もしてくれなかった。郭応国を黙って見送りさえした。
――わたしは一体、誰を頼ればいいというの? どうしたら龍宝を守れるの?
宰相の位を表す装束の裙を掴んでいたか細い指から、するりと力が抜け落ちる。そうして白い繊手は、涙で濡れた床に叩きつけられた。強風に煽られ、ついに力尽きた胡蝶のごとく。
◇
皇城から、己の屋敷へと戻ってすぐ。それこそ息も整わないうちに、優玉は母に皇帝との対面のあらましを伝えた。すると母は眉を曇らせ、
「……計画を、早めなければならないわ」
と呟いた。その後には、無理をさせてばかりでごめんなさいね、と。
宰相としての政務を終えて戻って来た父は、事のあらましを知ると、今後二度と宮中に上がらなくてもよいと言ってくれた。皇帝からどれ程催促されても、宰相の権力を使って拒絶してみせる、と。
自分のせいで、両親に迷惑をかけている。あるいは自分が生まれなければ、父母も窈児も、今よりももっと幸多い人生を送れたのではないだろうか。
優玉は現在もなお、両親の説明の全てに納得しきれていない。こんなに自分を愛してくれている二親を、心の片隅で恨み続けている優玉は、なんて親不孝な子供なのだろう。
「……申し訳、ありません」
こみ上げる自責の念と、それでも捨てきれない窈児への想いに涙していると、父と母にそっと抱きしめられた。
「そんなこと、言わないで。子を守るのは親の務めなのですから」
「そうだ。お前は、子種が薄い私の元にやっと来てくれた、大切な子だ。お前が生まれた時、どんなに嬉しかったか……」
母以外の女には目もくれない父だが、優玉が生まれる四年前に、妾を抱えた時期があった。それも一度に五人もの妾を。
これほど長く子を身籠れないのは、きっと私の体に欠陥があるせい。
長きに渡る不妊に耐え兼ねた母に泣きつかれて、父が渋々迎えた女たちは、結局一人も懐妊しなかった。一年どころか三年経っても、なお。
欠陥がどちらにあったのか傍目にも明らかになった頃、父は女たちに暇を出した。そうして、母とともに司馬一族から養子を迎えようと話し合っていた折、ひょっこりと授かったのが優玉なのだ。
「私はな、お前を最初に抱き上げた時、どんな手段を使っても、何を犠牲にしても、お前を――お前たちを守ろうと誓ったのだよ」
「私も、あなたが――
自分を中心に咽び泣く両親をよそに、青年の心のどこかは冷めきったままだった。
全てを曝け出したら、父母にも、窈児にも、優玉は見捨てられるだろう。ならばいっそ全てに蓋をして、せめて父母の願いを叶えるべきだと、理解している。なのに。
「安心してね、優玉。私の弟に……あなたの叔父さまに出す文は、もう書きあげてしまったから」
自室に引き上げてからしばらく後。まだどこか掠れたままの――嗚咽の名残を残した声色の母を、優玉はいっそ腹立たしく思った。母の策が恙なく成れば、優玉は窈児に二度と会えなくなってしまうのだから。
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