恋旧 Ⅱ
晃朝の帝に関するものであれ、愛しい許嫁の名誉を貶めるものであれ、宮中で跋扈する亡霊の噂をこれ以上は放置できない。皇后位が空位である現在、後宮を統括する任を負っているのは、皇太后たる窈児だ。下々の者を不安がらせぬためにも、徹底的に調査しなければ。さすればあるいは、五行怪事を解決するための糸口を導きだせるやもしれない。
衛士に、宮女に、宦官に。亡霊あるいは祟りが絡む宮中の噂話を集めさせると、念花堂に検分に赴いた翌日には、窈児も驚くほどの情報が齎された。なんとこの宮廷では、晃朝の帝と五行怪事以外にも、二つの怪奇物語が囁かれていたのである。発生した時期を基準に判断すれば、五行怪事は四つ目の噂に過ぎなかったのだ。
後宮で囁かれる第一の怪異は、大工一家の祟り。
念花堂の落成が間近に迫ったある日、建設に関わったさる大工一家が、まだ十五だった息子も含め忽然と姿を消した。本当に突然だったので、仲間の大工たちは一家の行方について噂しあったという。触れてはいけない宮中の事情に触れてしまったため、闇に葬られたのでは、と。
大工一家の消息が知れなくなってほどなく、司馬一族の誅滅が行われたことも、大工たちの不安を煽った。そして、その不安はある意味的中した。念花堂の建設に従事した大工たちは、突如血を吐いて悶え苦しみだし、やがて皆息絶えてしまったのである。しかも、建材を運び込むのに従事した人足たちまでもが。
念花堂の完成から幾ばくも経たぬうちに全滅してしまった男たち。彼らの末路を知る者は、これは大工一家の祟りだと慄いたという。大工一家が行方不明になったのは、一家の財産を奪うべく他の大工が共謀して闇に葬ったから。未だ行方知れずの亡骸は、念花堂のどこかに隠されているに違いない、と……。
神妙な面持ちの宦官よりこの怪奇物語を聞かされるやいなや、窈児は心中で独り言ちずにはいられなかった。知らないというのは幸運なことでもあるのだな、と。こんなおどろおどろしい噂が囁かれていると把握していたならば、いくら画狂の成偉とて、独りで籠り続けられたはずがない。
第二の噂こそが、晃朝の帝に纏わる怪談だった。もっともこの噂については目新しい情報はなかったので、報告の大半を聞き流してしまったのだが。けれども、念花堂が完成してほどなく、という発生時期が解明できたのは僥倖だったかもしれない。
第四の噂たる五行怪事についての啓上も、龍宝が生まれてすぐという発生時期を再確認させただけだった。けれども第三の噂だけは、聞き流せはしなかった。なぜなら第三の噂もまた、窈児の最愛の人が絡んでいるものだったから。
「……優玉さまの亡霊が、念花堂に?」
念花堂の警護を担当していた衛卒が、優玉の名を紡ぐやいなや、皇太后は整えられた眉を曇らせずにはいられなかった。
己の目前で恭しく跪いている二人の衛士。彼らと入れ違いにこの室から下がった宦官は、確かに念花堂が関係する幽霊話を詳らかにした。けれども先ほど宦官が語ったように、念花堂は司馬一族がほぼ根絶やしにされた後――優玉の死後に完成したのである。つまり優玉は念花堂には訪れた経験はなく、当然思い入れも一切ないはずだ。だのにどうして、窈児の亡き夫の画房に、亡き最愛の許嫁の亡霊が
念花堂では度々優玉の声が聞こえていた、と語った青年を見下ろす己の眼差しは、剣よりも鋭くなっていたのだろう。先ほどまでは痞えながらも己が体験した怪奇現象を語っていた青年は、青ざめた顔で黙りこくってしまった。
「……下官は、後宮だけでなく外城の警護も担当しております。そのため、あの方の声に覚えもあるので、間違いありません。確かに、あのお方の声でございました」
窈児など一ひねりにできそうな、屈強な体躯をがたがたと震わせる相棒に代わり、いま一人が話を続ける。
「下官も、最初は聞き間違いだと思っておりました。いえ、そう思おうとしました。しかし、間違いないのです。時に懇願するように、時には言い争っているように……」
優玉の声を、この守卒が最初に耳にしたのは、窈児の輿入れのやや後のこと。そうして成偉の死により念花堂が封鎖されるまで、窈児の愛する人の声は度々聞こえていたのだという。
「……おそらく下官たちの隊では、あの方の声を耳にした覚えのない者の方が少ないでしょう」
恐れが滲む呟きを絞り出した後、衛士は口を堅く引き結んでしまった。証言はこれで終わりなのだろうか。
これほど多くの人物が、優玉の姿こそ目撃しなかったとはいえ、声を念花堂にて――正確には、念花堂内部より轟く声を耳にしたという。ならば幻聴や聞き間違いではないのだろう。となればあの方は、やはり自分や自分の一族を陥れて皇太子となった成偉を赦せなかったのだろうか。そうしてこの世に未練を残したために、怨鬼となってしまったのだろうか。
皇太后は
――それもこれも、つまらぬ我が身を司馬一族の名誉と秤にかけたわたしのせいだわ。
己の傲慢を責める女の意識は、いつしかどこぞへと彷徨っていた。今は冥府にいるのだろう愛する人の元へと。
「……あの方は、あの方は、」
戦慄を隠しきれぬ叫びが、不気味な静寂を破る。
そうして皇太后は己が自室の
「確かに、確かに呼んでいたのです! 窈児、窈児、と、皇太后娘娘の
再開された大柄な衛兵の語りは、ほとんど悲鳴と化していた。
「――お、お前! いくら
相棒の制止もなんのその。大柄な守卒は、憑かれたかのごとく、念花堂に出没した優玉の言葉を明らかにする。
「俺は、確かに聞いたのです! あ、あの、あの方が、娘娘に会わせてくれと、亡き陛下に懇願している声を!」
「……え?」
「あの方は司馬一族の誅滅になど、一度も言及しておりません! ただただ、皇太后娘娘のことのみを、一心に訴えておいででした!」
優玉の魂は、司馬一族よりも窈児に執着していた。大柄な衛士の証言によって芽生えたのは、愁いや悲しみではなくて喜びであった。あの方は、一族よりも自分を選んでくれたのだ。そして、そのような喜びに震えた己の心の醜さに、恥じいらずにはいられなかった。
歓喜に浸っていられたのは、ほんの一瞬のはずだった。けれどもその一瞬で、窈児の内心を見透かしたのだろう。大柄な衛卒が窈児に向ける眼差しは、
「き、きっとあの方は、仲睦まじい婚約者だった娘娘を奪い返したかったんです! だから五行怪事を起こして、主上を殺したんだ!」
つまり、窈児がきっかけで五行怪事は起きた。成偉が死んだのも窈児のせい。窈児のせいで、成偉や李晴だけでなく、多くの無関係な人間が非業の死を遂げてしまった。あるいはこれから、もっと多くの民が巻き込まれてしまうかもしれない。
大柄な衛兵は、無言で窈児を糾弾していた。隣の衛士も、相棒ほどあからさまではないが、確かに。
「――御夫君を亡くして間もないというに、御夫君の無念を晴らさんと尽力しておられる皇太后娘娘に対して、何たる無礼! そなたの命は、もはや無いものと心得よ!」
脇に控えていた女官は青年たちを一喝したものの、声音には力がなかった。彼女もきっと、心のどこかで疑っているのだろう。窈児こそが、五行怪事の根本の原因ではないかと。
――き、きっとあの方は、仲睦まじい婚約者だった娘娘を奪い返したかったんです!
野太い絶叫は、宦官に引きずられて連行されていってもなお、黄金の飾りを付けた耳に木霊していた。だから、第四の噂たる五行怪事の仔細を、右から左に聞き流してしまったのだ。
予定していた謁見が全て終了した後。
「娘娘。あのような無礼者が弄した妄言など、お気に召されますな」
「そ、そうですわ! きっとあの者は、気が触れていたに違いありません!」
女官たちは窈児を心配してではなく、女主人に対して果たさねばならぬ礼儀として、慰めの言詞をかける。しかし彼女らの面はいずれも固く強張っていて。何より窈児に対する恐怖が、ありありと双眸に宿っていた。けれども、彼女たちを無礼者や不忠義者などと、どうして詰れよう。
もう、いいわ。今日はもう独りにさせて。
女官たちに退出を命じんとしていた、まさにその瞬間だった。
「娘娘、大変でございます!」
慌てふためいた様子の下女が室に飛び込んできたのは。
「行方をくらませていた、紅華宮の火災の生き残りの尼を捕らえたと、郭応国どのよりご報告が!」
――郭応国どのは、今すぐに娘娘の御前に参上したいと申しているとのことですが、いかがなさいますか?
女官は、屈めた背で問いかける。窈児には、郭応国の要求を拒めなかった。
◇
鴛鴦と蓮が金泥銀泥と
己の母の祖が天下を支配していた――もっとも優玉の母は、晃朝の初代皇帝の弟の末裔なのであるが――晃朝において、最も繁栄を謳歌したとされている時代そのものの恰好をした女の絵姿に、優玉は眉を顰めずにはいられなかった。
「どうだ? そなたによく似ているだろう?」
この場には学友でもある阿虎だけならばまだしも、皇帝もいる。いくら内内の、私的な会合だとはいえ、振る舞いには気を付けなければならないのに。
しかし、どうしても来てくれと呼び出され、覚悟を決めて赴いたのに、見せられたのが
「……本当に、美しいと思います」
丁寧にぼかした感想に、天子は悲しげな微笑を零した。
「この画はな、花綬が儚くなった後、余の記憶を頼りに描いたものだ。花綬にもう一度会いたくて、な」
「は、はあ……」
「だがな。及ばぬのだ。これは余の作の中では最も花綬に近づいた一つだが、到底。花綬の美しさ、愛らしさ、艶やかさ……。何をもっても、表現しきれておらぬ」
辛うじて笑みの形を保っていた龍顔はぐしゃりと崩れ、たちまち大粒の涙が流れだす。
「おお、花綬……。そなたを守れなかった余を赦しておくれ。いっそ、そなたを寵せねばよかった。余がそなたを寵したばかりに、そなたは若い命を絶たれてしまったのだからな。そなたの美しい姿を、遠くから愛でるに留めていれば、そなたはあるいは現在でも……」
「父上。高賢妃は父上に愛されて、幸せだったはずです。高家の者たちも、そのように申していたではありませんか」
阿虎は、嗚咽する父帝の肩を支えている。だが天子には、今ばかりは愛息子の慰めも届いてはいなかった。
「ならばなぜ、高金釵は、花綬の姉は、画の見本となってくれとの余の招きに応ぜなんだ! 余に淫らなつもりは一切なかった! ただ花綬に瓜二つの姉に、花綬の麗しい姿を偲ぶ縁となってほしいだけだと伝えたというに!」
「……父上」
「不安ならば、夫だけでなく皇后も余が画を描く場に同席させてもよいと、伝えたというに! 高金釵が協力してさえくれれば、余は納得する画を描けたろうに! なぜに、なぜに!」
優玉の母への憤りは、やがて啜り泣きに変わった。
「……母の無礼を、代わってお詫びいたします」
たまらず青年が頭を下げると、涙に濡れた双眸は、はたと正気を取り戻した。
「よい、よいのだ。これも全て、花綬を守れなんだ余の罪なのだから。その咎は、甘んじて受けようぞ。しかし、」
すっくと立ちあがった皇帝は、真っ直ぐに優玉の顔を注視している。
「そなたの母は、余を恨んでいるであろうな。だから、そなたは……」
阿虎も、また。優玉の全てを、見透かさんとしているかのごとく。
「どうか、僕を頼ってくれないか? 僕なら君を助けられる。そのためなら、何でもするから。父上も、承知してくれている」
いいや、違う。ごとくではなくて、既に知られてしまっているのだ。友の眼差しから、優玉もまた全てを悟らずにはいられなかった。
「そなたが置かれている状況は、余にも責任がある。そなた一人ならば、どうとでもなろう」
阿虎だけでなく皇帝も、優玉の秘密に気づいていると。――その瞬間、細い体を貫いたのは恐怖だった。
背筋を凍り付かせた怖れに耐え兼ね、退出の挨拶も述べぬままに室から飛び出す。阿虎も皇帝も、また控えていた宦官たちも、優玉を追ってこなかった。それが、何よりの答えだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます