恋旧 Ⅰ
皇后は天花板の鳳凰と、それを取り囲む複雑に入り組んだ
そういえば、太皇太后が零していた
あの時は、念花堂を建てさせたことだろうかと、特に言及しなかった。成偉の画の趣味を好いていなかった太皇太后にとっては、夫の死に場所となった建物は頭痛の源でしかなかっただろう。だが、それだけではない気もするのだ。
念花堂は、建てられた目的はさておき、佇まい自体はさして豪奢ではない。成偉だけの画房であるから、大きさもさほどではない。夫の死の報を受けた後、目の当たりにした念花堂はむしろ、拍子抜けするほど質素な建物だった。しかしあるいは、白日の下で仔細を確かめてみたら、何かが違うのだろうか。例えば、薄闇の中に在ってはごく普通の瓦であったものが、実は全て最高級の玉だった、とか。
――これは流石にありえないわね。こんな贅沢したら、流石に宰相たちに諫められるわ。
自らの空想を一笑に付しつつ、皇太后は眠気に侵されつつある頭で明日の予定を組み立てた。
日陰で俯いて咲く
宦官に申し付ければ、輿を使えもしただろう。朝餉の後、本日の予定を女官に伝えた際は、そのように進言された。しかし成偉も歩いていたという道を己の足で歩き、己の目で確かめて、情報を集めたかったのだ。
あと一月もすれば黄金色の桂花の甘い香りで満ち満ちるであろう小道も、終わりに近づいてきた。
幾人か伴ってきた宮女たちはいずれも、酷く血の気のない顔をしている。天子が不可思議極まりない末路を遂げた場に近づくのが、それほど恐ろしいのだろうか。窈児は優玉に死なれて以来、我が身に関しては怖いものなど無くなってしまったというのに。
「今日は、中には入らないわ。外側から眺めるだけよ」
女官たちがあまりに怯えているので、苦笑まじりに念を押す。すると、安堵の溜息さえ聞こえてきた。
ここまで良い反応をされると、やっぱり気が変わったなどと嘯いて、揶揄ってみたくもなってくる。もっとも念花堂の内部に入るには、皇太后たる己とて許可を取らねばならないだろうが。
「やっぱり、変わったところは何もないわね。あなたたちはどう思う?」
陽の光の下でまじまじと観察してみても、念花堂は取り立てて注意を引く建物ではなかった。英宗が愛息子であった成偉のために建てたにしては、質素にすぎるぐらいに。風情を大切にしていたのかもしれないが、己が今なお暮らしている紫華宮などと比べると、みすぼらしくさえあった。
伴の女たちも、窈児の意見に同意してくれた。もちろん、英宗が建てさせた念花堂を「みすぼらしい」などとは決して口にはしなかったけれど。
――もしかして太皇太后娘娘にとっては、先々代の帝が成偉お兄さまのためにしたことは、全て不快の種でしかないのかしら。
破綻した親子の関係の悲しさに、皇太后は押し殺した吐息を漏らす。英宗が成偉を目にかけていたのは、母たる崔氏に萎縮している息子を憐れむがゆえ、という側面もあったのだ。そうして英宗が成偉を庇うと、崔氏は息子にますます厳しく接した。負の循環に陥ってしまった母子関係が行き着いた先が、太皇太后のあの態度なのだろう。
「……では、行きましょうか」
検分に赴いたというに、さしたる成果は得られなかった。黒雲でもあるまいに胸に広がる虚しさも相まって、皇太后は早々と夫の死に場所から離れる。
桃色の花は、行きよりも一層悲しげに俯いていた。この花の精がいるとしたら、うら若く美しい、けれども今にも消え入りそうに儚げな風情の女の姿をしているのだろう。それこそ、
あらぬ空想をしていたためだろう。
「――皇太后娘娘!」
急に、引き連れた女官たちのものではない声に呼び止められた瞬間は、心の臓が口から飛び出しそうになった。
声の方向を向くと、薄紅の大袖衣に、黄を帯びた濃い桃色――暁色の長裙を纏った女が、己に向かって拝礼していた。皇太后に対する敬意を表すに、いささかの不足もない姿勢には覚えがある。
「そなたは……」
数日前、窈児が彼女の嫁ぎ先を決めた際も、彼女は完璧な礼をしていた。喜びの涙を流しつつ、もうよいと窈児が告げるまで。
「散策に赴いたおり、遠目にお姿を拝見いたしました。皇太后娘娘に重ねて感謝の意を伝えたく、このような愚挙に出た次第でございます」
朱彩彩が密かに将来を誓い合っていたという男は、現在では下級の官吏として出仕している。何家どころか朱家と比しても遥かに家格の劣る男に下賜すれば、朱彩彩は銭のやりくりには苦労するだろう。けれども朱彩彩が恋い慕う男は、妻も娶らず妾も取らず娼妓も買わず、後宮に入れられてはや五年も経った恋人を一途に想い続けていた。
心の通い合った男と結ばれる。これぞまさに、女の真の喜びである。だから窈児は、朱彩彩の嫁ぎ先を決めたのだ。愛する人と結ばれぬ悲しみに悶え苦しむのは、窈児一人で十分なのだから。
「面を上げよ。礼も、もうよい」
「――皇太后娘娘のお慈悲に感謝いたします」
元来美しい女ではあったが、朱彩彩はより一層、眩いほどに麗しくなっていた。世間では
「そなた、妾に伝えたいことがあるのだろう? 妾への感謝は、先日十分すぎるほど述べたはずだからな」
「え、ええ。まあ、その、」
女としての絶頂期を迎えた朱彩彩の、生気に満ち満ちた面から目を逸らしつつ、皇太后は苦い笑みを漏らす。朱彩彩をこれから咲きほころんで実を結ぶ花とすれば、窈児は蕾のまま摘み取られた花そのものだった。
「妾に頼み事があるのなら、手短にせよ。皇太后たる妾に、あまり立ち話をさせるものではないぞ?」
窘める言葉には、嫉妬の棘が僅かながらに潜んでいた。だが、これぐらい許してほしい。朱彩彩はこれから、恋い慕う男との未来を紡いでいけるのだから。窈児と違って。
「……その。娘娘は、
末期には宦官や軍権を預けた
栄華においても国土においても到底及ばぬ晃代において、堉の京師たる
晃朝の帝が度々畔華の離宮に御幸したのだとは、記録に残されてもいる。しかし、畔華において崩御した晃朝の帝はいない。だのにこの皇城には晃朝の帝の亡霊が
「わたくし、一度見たことがありますの。先の陛下が大事になすっていた奇石のすぐ近くで」
けれども本当に、その亡霊を目撃した人物が存在するとは。
呆気に取られた皇太后は、朱彩彩の上気した顔を注視した。我ながら不躾ではないかと思うほど、まじまじと。
「ぜ、絶対に間違いありませんわ! 夜でしたし、何分動揺していたものですから、ぼんやりとしか判別できませんでしたけれど」
窈児の視線の意味を曲解したのだろう。朱彩彩は正二品の位である昭媛の気品などどこへやら。声を荒げ、身振り手振りさえ交えて、怪異を目撃した瞬間の衝撃を捲し立てた。
「でも、黒衣を纏っていたんですもの! だから絶対にあれは、晃朝の帝の亡霊なんですわ!」
晃朝は水徳の王朝であり、五行において水の色とされる黒が貴ばれていた。朱彩彩が黒衣の幽霊を晃朝の帝と結び付けたのも一理ある。
「でもあなた、どうして夜にそんな気味が悪い場所に行ったの? しかも、あの近くは、」
窈児も思わず普段の口調で問いかけると、朱彩彩は気恥ずかしそうに目を伏せた。
「陛下が大事にしている石というものを、どうしても一目見たくなりまして。でも、明るい間に行ったら、お叱りを受けるかもしれませんでしょう? それで、暗くなるのを待って、こっそり……」
朱彩彩の行動は、妙齢の女性には相応しくない、子供じみたものだった。だがそんな細やかすぎる冒険でも、恋人と引き離されて後宮に入れられた後、空閨を託ち続けたであろう彼女がやっと見つけた気晴らしだったのだ。
朱彩彩が言及した「成偉が大事にしていた岩」とは、堉の南方に位置する粉霞の、名勝としても名高い湖付近で産する奇石のことだろう。一般的な石よりも青白いこの石は、どこか松の幹を彷彿とさせるほどに、窪みや穴が多く複雑な形をしていた。そしてそれゆえに、鑑賞や瞑想を目的として、文人たちの間では高い評価を得ているのである。ある好事家などは、粉霞の奇石を置かねば名園とは言えぬ、と評したほどに。
成偉は窈児の把握している限り、造園には関心を抱いてはいなかった。だが、父帝が彼のために遥か粉霞から取り寄せた奇石だけは大切にしていたのである。宴の席でこの石に触れたとうっかり漏らした妃嬪を、彼にしては珍しく声を荒げて一喝し、罰を与えたほどに。
宦官や下女からは密かに「
「わたくしの他にも、あの岩の近くで
山水画の画題とするため、という目的もあるのだろう。瘋癲石は念花堂ともさほど離れていない場所に置かれていた。もっとも、瘋癲石の近くにあるのは冷宮と秀娥の住まいぐらいなので、成偉よりも秀娥の方が瘋癲石を鑑賞する機会に恵まれていただろうが。あるいは秀娥ならば、あの石に触れても成偉の怒りを免れたかもしれない。もっとも皇帝の寵愛も、悪霊退散の役には一切立たないのだが。
秀娥には、彼女の身の回りの世話をするための、専用の宮女や宦官すら付けらていない。衣や食事は彼女が何もしなくとも運ばれてくるし、住まいの清掃は定期的に行われているという。けれども秀娥は、亡霊が闊歩するという区画で、ほとんどの時を独りで過ごしているのだ。肝を冷やした瞬間は数えきれないだろう。
どうして成偉お兄さまは、秀娥どのをいつまでもあんな不気味な場所に住まわせ続けたのかしら。わたしは気にしないのだから、宮ぐらい賜っても良かったのに。
そういうところが、まさしく
「――と、言っても秀娥どのだけは別ですけれどね。あの方も、いくら罪人の娘とはいえ、哀れですこと」
朱彩彩も、窈児と同様に考えているに違いない。愛しいあの人に比べて、成偉のなんと頼りがいのないことか、と。
秀娥は成偉の寵愛を一身に受けつつも、屋敷どころか衣服すら強請らなかったという。今まで窈児は、彼女を慎み深い女だと認識していた。身内の罪に連座させられただけの、不運な女だと。けれども実際は、秀娥さえ成偉には一欠けらの期待もしていなかっただけかもしれない。
「な、なにはともあれそういうことですから、わたくしは、その……一連の事件は、娘娘の大切なお方ではなく、高朝の帝の祟りではないか、と考えておりますの。きっと、そうですわ!」
これ以上窈児と会話していると、成偉への暴言を吐いてしまいそうで、恐ろしかったのか。それだけ言って、朱彩彩は去っていった。この宮殿では、一体どれほどの幽霊譚が飛び交っているのだろう。
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