第5話 徳裏恵一
恵一は、今日は体調が悪く、ベッドから起き上がることができなかった。
普通の健康な人間なら、もう高校一年生になっているはずの彼は、中学1年の時から、専属の家庭教師をつけられ、家の中にこもりっきりになっていた。家の中にこもりっきりとはいえ、運動のできる広い庭を持った徳裏家では、運動不足に陥ることはなかった。ゴルフ練習場や、バスケットのリングなども設けられていた。父のいないときなど、それらを使って時々遊んだりもしていた。
家庭教師は、午前中は理系担当の、50代の男、午後は文科系担当の40台の女が、専属で雇われてやってきた。カリキュラムは、恵一の進行に応じて対応するようにしていたが、総じて一般の中学生が学ぶ状況に応じて進行するように工夫されていた。それだけでなく、週に二日、経営に関する勉強のため、特別に70台の男が先生としてやってきた。それは、恵一が父の後を継いだ時のことを考えてのことだった。
徳裏家があるのは、飯田橋駅と市谷駅の間だった。徳裏家のかかりつけ医者の所属する東京逓信病院からほど近いので、恵一に何かあったときは何かと都合がよかった。
徳裏家の三階建ての屋上からは、外堀と、その周辺の桜を眺めることができた。正義は、その桜が咲くのを見るたびに、恵一が、来年桜が咲くのを見ることができないのではないかという懸念が胸の中に沸き起こるのであった。
「恵一、入るぞ」
と言って、父正義が恵一の部屋へ入ってきた。
「なんだ、食べないのか」
ベッドのわきに置いてある、手つかずの朝食の皿を見て、正義が言った。
「調子悪いのか?」
「うん、なんだか食べたくないんだ。体が疲れて起き上がれないんだよ」
「そうか…」
といって、正義は顔を曇らせた。思いのほか、恵一の症状が早く進行しているような気がして、何か元気づけようとして言おうとしても、言葉が思い浮かばなかったのである。
「もう桜も終わりだね。残念だな。また来年見れるかな」
「当たり前だろう。今日はしっかり寝て、ご飯が食べられるようにしないとな。
じゃあ、父さん、もう行くから」
「父さん」
出ていこうとする正義を引き留めて、恵一が言った。
「僕、がんばって父さんの後を継ぎたいけど、正直なところ自信がないんだ。第一、もう体がいうことをきかない。父さん、こんな体で生まれてごめんなさい」
「何を馬鹿なことを言ってるんだ。父さんの後を継ぐことなんか今は考えなくていいから、体を治すことを優先しなさい。お前の体は、先生がちゃんと治してくれるから」
というと、正義は、部屋の窓を開けて外堀を見た。桜はもうほとんど散ってしまっていたが、遠くのほうに一つだけ、まだ残っている花が見えた。
『外堀に咲き残る花一つのみ』
趣味の俳句が心に浮かんだ。と同時に、涙が一つあふれてほほに伝わった。
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2033年 保地一 @wbnn247
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