10.暖炉の火を囲んで
帰り道の途中、また雨が降り出して、ふたりは手をつないだまま走って帰った。家のドアに飛び込むと、温かい空気とともに、食欲をそそる夕食の香りが漂ってきた。
キッチンから現れたアンリエッタは、びしょぬれになったふたりと一匹を暖炉の前に連れて行った。
「暖炉をつけて火にあたりなさい。その間にテーブルを片付けておくわ」
暖炉が赤々と燃え始めると、シュゼットたちはタオルにくるまり、火の前に丸くなって座った。ブロンは何度か体をブルブル振って水分を飛ばしてから、暖炉の前にちょこんと座った。
「エリク、さっきのことだけど」
シュゼットは声をひそめた。
「浮かび上がったことか?」
「うん。あのこと、おばあちゃんには内緒にしよう。あんまり心配かけたくないし」
「それなら代わりに俺が気を付けておくから、何か異変があったらすぐに教えろよ」
「わかった。ありがとう、エリク」
エリクは微笑みを浮かべてうなずいた。
アンリエッタのサバのフェンネル詰めに舌鼓を打った夕食の後、三人と一匹は暖炉の火を囲んで、今日それぞれどんな風に過ごしたかを話し合った。この時間は、シュゼットとアンリエッタが共に暮らすようになってから始めた習慣だ。
「マリエルたちがわたしの自然療法を広めようって提案してくれたんだ。わたしを信頼してくれてるからって」
「すごいじゃない! みんな良い人ねえ」
「うん。……でも断ったんだ」
「そうなのか。どうして?」
エリクは膝の上のブロンをなでながら尋ねる。
「すべての人に同じように効果があるわけじゃないし、あくまでも『予防』ってだけだから。勘違いされて、『絶対に罹らないと思ったのに』って責められたらと思うと、ちょっと不安で」
――でもこの世界で植物性のものが合わない人って、出会ったことないな。
そう思ってから、シュゼットは「あれ?」と首を傾げた。
「この世界」とはどういう意味だろうか。まるで別の世界を知っているような言い方だ。
まだ自分に前世があることに気が付いていないシュゼットは、この思考の意味が分からなかった。
「キャンッ!」
ブロンの心配そうな声で我に返ったシュゼットは、つぶらな瞳でジッと見つめてくるブロンを優しくなでた。
「でも、マリエルたちは、効果はどうであれ、わたしを信頼してチンキや茶葉を買ってくれたから、あとは植物が少しでもみんなに力を貸してくれますようにって、願っておくよ」
「そうだな。まずは近くの人や信頼してくれる人から始めていけば良いだろ」
エリクが答えると同時に、玄関からカタンと音がした。
一番に反応したブロンが「キャンッ」と鳴きながら玄関にかけていく。シュゼットは「わたしが行くよ」と言って、そのあとを追った。
「ブロン、何だった?」
ブロンは玄関のドアに向かってお尻を突き上げて威嚇をしていた。その行動にピンときたシュゼットはうなるブロンをそっと抱き上げて、ドアの下の方に屈みこんだ。ドアの隙間には、一枚の紙が差し込まれている。シュゼットはその紙を手に取った。
「調子に乗るな」
書きなぐった文字でそう書かれている。
シュゼットに抱かれているブロンは、紙を食いちぎりそうな勢いでキャンキャン吠えて手から逃れようとする。シュゼットは手早く紙をポケットに入れて、ブロンを左右にゆすった。
「怒らないで、ブロンー。わたしは大丈夫だから」
「ウルルルル……」
ブロンをあやしながらリビングに戻ると、エリクとアンリエッタも心配そうな顔をして待っていた。
「ひょっとして、また例の手紙?」とアンリエッタ。
「うん」
アンリエッタは口元に手を当てて、目をキョロキョロさせた。その顔には明らかに動揺が見える。
「このところずっと無かったのに。いったいどういうつもりかしら。飽きたんじゃなかったの? でも、『調子に乗るな』ってことは、シュゼットがこの頃いろんな人から依頼されてることを知ってるってことかしら」
「おばあちゃん。落ち着いて」
シュゼットはブロンをエリクに預けて、アンリエッタを抱きしめた。
「大丈夫だから、落ち着いて。大丈夫」
背中を優しくさすりながら、じっくりと呪文を唱えるようにささやく。すると、早くなっていたアンリエッタの呼吸がみるみるうちに落ち着いていった。不安な時は背中をさするのが一番効果的なのだ。
「……そうよね。一番不安なのはシュゼットなのに。ごめんなさい」
「わたしは全然気にしてないよ。少し驚いたけど、驚いただけ」
「どうして?」
アンリエッタはシュゼットの顔がよく見えるように少し体を引いた。アンリエッタと目が合ったシュゼットは、にっこりと笑う。
「だって、わたしには大切な人たちがたくさんいるもん」
シュゼットは笑みを浮かべながら、エリクとアンリエッタを順に見た。
「最近、改めて思ったんだ、わたしにはたくさんの味方がいてくれてるって。おばあちゃんやエリクやブロンはもちろん、ニノンやダミアン先生、ロラの家族、マリエルたち。今ではラーロやマルルたち魔獣や魔族も。みんな、わたしのことを大切にしてくれるでしょう。そういう人たちのおかげで、もう気にしなくていいやって思えたんだ」
「……でも、いい気分ではないだろ」
エリクが押し殺すような声で言った。その目は怒りに燃えているように見える。
シュゼットはできるだけ大げさに笑った。
「そりゃあ少しはね。でも今日みたいに『信頼してる』って言ってもらえて、今みたいにふたりとブロンに心配してもらえて、町の人たちに頼ってもらえて、みんなと仲良くできてる。それだけで元気になっちゃうんだよね。わたし、単純だから」
ブロンは「キューン」とかわいい声で鳴き、シュゼットの足にすり寄ってきた。
「あはは、ブロンも心配してくれてありがとう。でも本当に大丈夫だよ」
シュゼットはブロンをなでながら、もう一度エリクとアンリエッタを見た。
「ふたりも心配してくれてありがとう。でも、わたしは前より少しだけ強くなったから、心配しすぎないで」
「嘘じゃないわね?」
「嘘じゃないよ」
「無理してない?」
「無理してないよ」
アンリエッタは一度目をつぶってから、笑顔でシュゼットを見た。
「……それならよかったわ。でも、辛いときはちゃんと言いなさいね」
「ありがとう、おばあちゃん。すごく心強いよ。おばあちゃんこそ、不安にならないでね。もしあんまり心配なら、警察に頼っても良いんだし」
「それも検討する時が来てるのかもしれないわね。今日の手紙は取っておきましょう。証拠になるもの」
うなずいたシュゼットはアンリエッタからそうっと離れ、リビングにある飾り棚の戸棚に走り書きの手紙を入れた。
「よしっ。これでもうこの手紙のことは終わり! 楽しい話をしよう」
シュゼットがそう言いながらソファの方に歩いていくと、エリクが立ち上がった。
「いや、俺はちょっと外を見てくる。今ならまだ犯人がいるかもしれないから」
エリクはふたりの返事を待つ前に、玄関に歩き出した。シュゼットは慌ててそのあとを追い、エリクの手をつかんだ。
「待ってよ、エリク。外は雨だし、もう遅いし、やめておこう」
振り返ったエリクは、胸をえぐられているような息苦しそうな顔をしていた。初めて見る表情だ。
しかしすぐにエリクは笑顔に戻り、シュゼットの手をやさしくほどいた。
「家の周りをぐるっと見るだけなら、そんなに濡れないだろ」
「大丈夫だから」と穏やかに言い、エリクは外へ出て行った。その顔が無理やり作った笑顔だったと、すぐに分かった。
――わたしが気にしなくても、エリクに心配かけるなら、警察に言うべきなのかな。
シュゼットはエリクの手を取った自分の右手をギュッと握りしめた。
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