9.風のいたずら?

「おーい、シュゼットー」


 後ろからの呼びかけに振り返ると、エリクが手を振っているのが見えた。雨が上がって自分で歩く気になったブロンは、エリクの方にビューンッと駆けていく。エリクはブロンを両手で受け止め、追いかけっこをしながらシュゼットの方に駆け寄ってきた。


「シュゼットも今帰りか?」

「うん。エリクは仕事お疲れ様」

「シュゼットも仕事みたいなもんだろ。お疲れ」

「ありがと。でも楽しかったから、仕事って言って良いのか……」


 マリエルの言葉を思い出し、シュゼットは赤くなったほほをポリポリ掻いた。


「楽しかったならよかった」


 エリクはそう言って優しく微笑んだ。

 この頃のエリクはよく笑うな、とシュゼットは思った。

 一緒に暮らすようになってから笑顔が増えたとは思っていたが、この頃は本当に朗らかだ。健康になっている証拠だと思うと、シュゼットは嬉しくなった。


「ねえ、エリク。今日の夕食だけど……」


 シュゼットがそう言いかけた時、不思議なことが起こった。

 風が吹いたわけではなかった。

 それにもかかわらず、シュゼットの体がまるで重力を感じなくなったように、ふわりと宙に浮いた。


「えっ、なに?」

「ハッ?」

「キャンッ!」


 その場にいた全員の目が点になった。

 しかし驚いている暇はない。シュゼットの体は、徐々に空の方へ上がっていくのだ。


「えっ、ちょっと待って! どういうこと?」


 シュゼットは必死に体を動かそうとするが、体は石になってしまったかのように硬くなって動かない。


「シュゼット!」


 そう叫ぶや否や、エリクはおよそ人間とは思えない跳躍力を見せ、シュゼットの手を掴んだ。そして、シュゼットを自分の胸の中に引きずりおろした。


「大丈夫か、シュゼット」


 エリクはシュゼットの肩をしっかりと掴んで、顔を覗き込んできた。その必死な表情に、シュゼットの心臓がドキリと跳ねる。


「う、うん。なんだったんだろう、今の……」

「わかんねえ。精霊のいたずらか、それとも……」

「ああ、驚いた!」


 シュゼットがため息をつくと、ブロンがキャンキャン鳴いて、抱っこをせがんできた。シュゼットは「大丈夫だよ、ブロン」と優しく言いながらブロンを抱き上げた。ブロンはシュゼットがいることを確かめるように、何度も何度もほほに自分の頭をこすりつけてきた。


「何が原因かはわかんねえけど、また同じようなことがあったら困るから、気をつけて帰るか」

「それなら、エリクのシャツの裾を掴んでても良い?」

「いや、シュゼットが嫌じゃなかったら、手を繋いで帰ろう」

「え! ……あ、うん。そうか。そうだね」


 エリクはシュゼットからブロンを預かると、左手を差し出してきた。シュゼットよりも遥かに大きく、鍛錬によってゴツゴツとした手だ。


 ――いつもアロマテラピーしてる手でしょう!


 シュゼットはそう自分に言い聞かせ、「失礼します」と言ってから、その手をそっと握った。温かい手だ。


「……ご面倒かけます」

「なんでさっきから敬語なんだよ」


 エリクはクスッと笑った。


「いや、だってまさか、あんなことおこると思わなかったから、エリクがいなかったらどうなってたかと思うと。敬意を表さなきゃって」

「別に良いよ。むしろ居合わせて良かった」


 エリクはそう言って、また笑った。

 その表情に、またシュゼットの心臓が跳ねた。

 シュゼットは自分のうるさい鼓動を聞きながら、エリクの手を強く握りなおした。

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