第12話 碧空・四

(なんか……嫌な感じだな)


 部屋に上がってすぐの台所の流し台は水垢で白く汚れ、床板や壁ははところどころ黒ずんでいる。思いのほか汚れていない換気扇は使用した形跡がない。死んだ老人は自炊とは縁が無かったようだ。


 風呂場の折り畳み式の戸は開いたままで、じめじめとした薄暗い浴室が目に入る。湿気防止のために不動産屋が戸を開けたのだろう。

 部屋には生前の居住者の生活感が、色濃く残ったままだった。

 書庫代わりに本を置くだけとはいえ、部屋の清掃もしないままである。しかし、蘆屋は一向に気にする様子がなかった。


「ようし、そっちだ。左の部屋から置いていこうや」


 彼はなんら意に介する風もなく部屋に上がりこむと、縛った本の束を降ろして、またサンダルをつっかけて自室へと戻る。

 先ほどは案外普通の人じゃないかと思ったが、やはりこの蘆屋六角という人はどうも常人とは違っているな、と武綱は思い直した。


(まぁ、小説家なんて変わった人ばかりと聞くし……)


 手にした本を畳の上に置くと、武綱も蘆屋の後に続く。薄気味悪さは感じるものの、気にしすぎだろうと考えを打ち消した。


 202号室と203号室のあいだを何回も往復して本を運んでいく。ほどなくそう時間もかからずに、六角の部屋に所狭しと積まれた本の山はあらかた片付いた。


「よーし、ご苦労さん。こんなもんだろ。いやいや、部屋が広くなったぜ。こんなに広い部屋はここに越してきて以来だ」


 蘆屋が片付いた自室を眺めて満足げに呟く。男手が二人分もあると、予想よりもだいぶ早く事は終わった。


「ありがとよ兄ちゃん。これはお礼な。どれ、飯でも食おうか」


「あ、ども」


 金銭の入った茶封筒と弁当の入ったビニール袋、そしてペットボトルのお茶を渡される。坂の下にある商店街の弁当屋で買ったらしく、ビニール袋には「ほかほか弁当・さえき屋」とプリントしてあった。


 腰を下ろして遅めの昼食を食べることにする。武綱の弁当は肉野菜炒め弁当でご飯が大盛りだった。蘆屋にいただきますと言ってから箸を手に取る。


「流石にいいガタイしてるだけあるな。俺一人じゃ半日はかかったかもしれん」


「いや、どういたしまして」


「ま、たらふく食ってくれや」


「うす。……ところで蘆屋先生」


 武綱がそう口を開いたところで、蘆屋が首を横に振る。


「よせやい、六角でいい。蘆屋先生なんて大層な呼ばれ方しちゃあくすぐってえよ。そういう場合は本名の蘆屋よりペンネームのほうが座りがいい。ま、俺の場合はってやつだがな」


 蘆屋はさりげなく言ったようなのだが、語尾に若干の照れが滲んでいる。彼は本名よりもペンネームの方で呼ばれたいようだ。それならば、と武綱は蘆屋をペンネームで、彼の言うところの雅号で呼ぶことにした。


「そういうもんですか。――じゃあ六角先生。あの、お隣の部屋を借りるってことは、亡くなられた人とは、何か親しい付き合いでもあったんですか?」


「いや全然。なんもねえよ」


 素っ気無くそう言うと、六角はペットボトルの蓋を開けてお茶を一口飲む。武綱もつられて頬張っていたご飯をお茶で流し込んだ。


「そうなんすか。亡くなった後に部屋を借りるなんて、俺はてっきり仲が良かったのかなぁと」


「いんや、さっきも言ったけど困った爺さんだったよ。死んだ人間を悪く言うのもなんだが、この近所の厄介者だった。なんてぇかな、プライドが異常に高くてまともな人付き合いが出来ない爺さんでなぁ。人と関わる時は必ず相手にイチャモンつけるか迷惑をかけるか……。まぁ、そうしなきゃ人とロクに話が出来なかったんだろう。扱いに困る爺さんだったよ。挙句の果てには孤独死だ。因果がどうのこうのいうより、必然だな、ありゃあ」


「はぁ……なんていうか、寂しい人だったんですね」


「そうだな。けどよ、こじらせきった年寄りってのは本当に迷惑だぜ。本当のところは常にてめえの話をしたくて堪らねえんだよ。不動産屋に従業員のおばちゃんがいただろう? あのおばちゃんは人が好くてな、店が暇な時はご近所さんや店子たなこと茶を飲みながら、よく世間話をしてんだよな」


「はぁ」


「ところがそのおばちゃんが爺さんに安く値踏みされてな、こいつなら俺の話を聞いてくれると舐めてかかったんだろ。おばちゃんのいる日に不動産屋に居座って、てめえの半生を長々と何時間もくっちゃべるんだよ。やれ俺は名門大学の法学部卒だとか、昔はいい会社に勤めて銀座で派手に遊んだとか……」


「う、うーん。それは迷惑だなぁ」


「話の内容がどこまで本当かわかりゃしねえがな。あんまり爺さんが来て何回も同じ話を繰り返すもんだから、おばちゃんはノイローゼ気味になって出勤日数を減らしたぐらいだ」


「それは気の毒っすね……」


「そのくせこいつには敵わないと踏んだら、さっさと尻尾を巻く弱虫だったよ。このアパートの大家の婆さんを見るといつもコソコソ逃げてったな。口の立ちそうな奴や羽振りの良さそうな奴には絶対に突っかかっていかない。まぁ、みっともない野郎だったな」


「ボロクソっすねえ。う~ん、でも、なんかちょっと可哀相な気もしてくるなぁ。寂しいからっていろいろ自棄やけになってるような」


「そう受け取るとは優しいね。ただまぁ……生きてる内からもうすっかり手遅れさ。救えねぇよ、救えねぇんだ。自分が正しい、世界が狂っているという


 六角の言葉にはっとして、武綱は弁当を使っている箸をを止めた。六角を見ると、例の落ち窪んだぎょろりとした目でこちらを見ている。


「お前さん、さっき203の部屋に入った時、なにか嫌な感じがしたかい?」


「……うす。しました。なんて言うか……あれはやっぱり」


「自尊心の歪んだ臆病者がな、世の中への恨みを呑んで頓死したってことさ。……良くねぇモンがあの部屋に居残ってらぁ」



                  ◇



 弁当を食べ終えると、改めて六角とともに203号室を訪れる。


法印ほういん唱門師しょうもじだなんて小難しい言葉を知ってる上によ、部屋に入ったらやたらと寒そうなつらをしてるときた。やっぱしお前さんの仕事ってのはかい?」


「お察しの通りですね。いわゆる妖怪退治、ですかね」


「くっくっく、狐と狸とむじなのケツを引っぱたくのは大変かい?」


 六角にからかわれて、武綱は小さく苦笑した。


「いやまぁ、確かにそういうのばっかだけどさ……ちゃんとした化物退治もやってますよ?」


 

 武綱が勤めるのは怪異総合専門およびその対策を謳う会社。いわゆる妖怪の起こす騒動を解決する仕事である。

 しかしながら、そんなに日常を揺るがすような大それた事件が頻発する訳もない。仕事の依頼の大抵は、対外は野狐やこや狸、そして狢の小規模な悪さをどうにかするというものばかりである。


 結構な騒ぎを起こす妖怪を調伏、あるいは退治することもあるのだが、そういう仕事はそうそうあるものではない。大事件となると国家機構の警察と、それに属する陰陽寮おんみょうりょうへと通報されるのが常である。


 つまり怪異総合専門対策という仕事は、市民生活に支障を来たす小妖怪の悪さを懲らしめて回る、言うなればスズメバチやシロアリの駆除と似たような仕事だった。

 

「そんな鍛えたデカい身体してんだもんなぁ。拝み屋祓い屋じゃないってえのは一目でわかる。やっぱし退魔屋稼業か。景気はどうよ?」


「ま、ぼちぼちっすね。そういう六角先生もただのポルノ小説家ってわけじゃないですよね? なんか思わせぶりなことを……」


「こら、ポルノ小説家たぁなんだ。官能と言え、官能と。ポルノと言うと焼いたスルメと紙パックの日本酒の匂いがしてくる。そんな浅草のストリップ劇場的なものは俺の好みじゃねえの」


「先生、言ってることがよくわかんないよ」


「あと十年すりゃわかる。さてと」


 六角は武綱の質問には答えずに、懐から細かい字の墨書すみがきされたを取り出すと、畳の上に撒き散らした。六角の書物がほとんど運び込まれていない、入って右の部屋である。


「よし、と」


 別段、印を結ぶこともなく呪を読むこともない。花に水をやるような自然な動きでさっと撒かれた五枚の符。それらにそれぞれ墨書された字が、水に滲んだように溶けて消える。

 符は白、黒、青、黄、赤の五色を変えた。


じょう


 ただ一言、六角が呟く。撒かれた符が鈍く光り、符と符を線で結ぶ五角形の真ん中に、黒い水煙に似たものが朦とが立ち昇る。

 あやかしや物の怪、怨霊悪霊の類――悪しきものが身に帯びる邪気。瘴気だった。

 

「ふむ、畳の下か。お前さん、ちょっと畳をどかしてくれるか」


 六角の言葉にしたがい、畳を二枚外して壁に立て掛ける。古びた畳は結構な重さではあるが、筋骨逞しい武綱にはどうということはない。

 ただ、剥き出しになった床を見ると様子がどうもおかしい。

 六角がしゃがんで床に顔を近づける。武綱もそれに倣って彼の隣にしゃがみ込んだ。


 床の上には黄ばんだ紙が畳の下に大量に敷かれていた。古びた黄色い紙は一面びっしりと、蚯蚓みみずの這ったような細かい字で埋め尽くされていた。

 その大量の紙のなかに薄くひしゃげた紙屑が見える。何かを包んでいるようである。


「これは……?」


 不審に思った武綱が手を伸ばすと、六角が制止した。


「やめとけ、触んねえほうがいい。俺がやる」


 彼がそう言ってふっと指を宙に払うと、紙の包みが手品のようにひとりでに開く。

 包みの中には茶色い干からびた小さな物体がいくつかある。


 近寄って目を凝らしても一体何なのか判然としない。武綱は首を捻った。

 が、注意して細部を見る内に、次第にその乾いてねじくれた枯れ枝のような物体が何なのか判別できた。

 判ったと同時に慄然として思わず腰が浮く。


「こ、これ……人の……指?」


「みてぇだな」


「みてーだなって先生……」


 紙に包まれていたのは、ミイラのように乾いた人差し指から小指までの四本の指で、親指だけが無かった。


 だが、判らないのはその中指と薬指の間にある、細長い干からびた物体である。四本の指同様、人体の一部であることは疑いようがない。皺が寄って捩れた細長い茶色の物体で、なにやら縮れた毛が数本付着している。


「こ、これは指じゃねーけど、一体……?」


「そりゃあ、うーむ、干からびてっから俺も自信を持っては言えんが……」


「なんだよ、先生」


「まぁ……女の……アレだな」


 しゃがんで紙包みを覗き込んでいた武綱は、その瞬間、物凄いはやさで後方へ飛び退すさった。

 その勢いで背中が襖に当たる。大きな音を立てて襖が後ろへ外れ落ちた。

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神變天狐異聞録 @tamagawa

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