第11話 碧空・三

 ――アパートへ引越してから数日。

 今日は日曜日で会社も休み。朝、目覚めた後も布団の中でうつらうつらと微睡まどろんでいられる。

 と、思ったのだが何やら話し声や、階段を上り下りする忙しない足音が聞こえる。表の廊下を人が何度も行き交っている様子だ。

 これではとても二度寝はできそうもない。

 

(仕方ないな……)


 目を瞑ったまま内心でぼやいてから、武綱たけつなは布団から身体を起こした。

 時計を見れば九時を過ぎた頃である。


 台所で顔を洗ってドアを開けると、引越し業者らしきユニフォームの男性が何人かが荷物を担いで廊下を足早に行き来している。見れば武綱の部屋、201号室から一つ離れた203号室から家具調度品が運び出されているようだ。


(隣の隣が引越しかぁ……)


 などと眠気の残る頭で暢気に考えるが、ふと階段下に眼を向けるとどうも様子がおかしい。

 老年の男性がなにやら神妙な面持ちで老婦人と立ち話をしている。老婦人はだいぶきつい物言いをしているようで、会話の間に男性は申し訳なさそうに何度も頭を下げている。


 武綱は老婦人に見憶えがあった。このアパートの大家の女性だ。

 大家の初対面の印象は、ハキハキした口調の気の強そうな老婦人といったものだったが、やはりその通りだったようだ。


「よう、隣のでかい兄ちゃんじゃねえの」


 と、その時、ふいに横から声をかけられる。振り向くと、先日挨拶をした隣人の蘆屋あしやが立っていた。


「あ、ども。おはようございます」


 どてら姿に咥え煙草、蓬々ぼうぼうと伸びた髪に無精鬚、落ち窪んだ眼窩にぎょろりとしたまなこ。どうにも一般人とは違った妙な気配を漂わす男である。

 蘆屋は煙草をひとつ吹かすと手すりに寄り掛かり、階下を指して顎をしゃくってみせた。


「爺さんの親族だよ。確かありゃ爺さんの兄貴だったかな? 土日になってようやく時間が取れたんだろうな。やっと荷物を引き取りに来たか。まったくご苦労なこった」


「あの、それは一体どういう……?」


「ん? なんだ? 聞いてねえのかい? 不動産屋からよ」


「あ、はい。なんかあったんですか?」


 武綱の言葉に蘆屋は一瞬あきれた顔をした後、意味ありげな薄笑いを浮かべてから口を開く。


「203号室に長いこと住んでた爺さんがな、二週間前に死んだんだよ。孤独死ってやつさ」


「へ……?」


 いきなり思ってもみない言葉が飛び出してきて、残っていた眠気が消え失せる。

 目を丸くしている武綱を見て、蘆屋がくぐもった笑い声を洩らしながらまた煙草の煙をひとつ吐きだす。


「だーれとも交流がない変人でなぁ、親類縁者からも鼻つまみ者で誰からも相手にされてなかったとさ。病気で働けないとかでずーっと生活保護を受けてたけどよ、役所の人間が来ても怒鳴って追い返すわ、近所の人間には話し声がうるせぇだのペットの鳴き声がやかましいだのとイチャモンつけてはトラブルを起こす。まぁ、扱いに困る変わり者のジイさんだった」


「は、はぁ」


「ポックリ死んだはいいが、今度は何十年も縁が切れてる家族に連絡するのが難儀でな。いざ連絡がとれても遺体の引き取りやその他の始末を渋るワケよ」


「で、ですよねぇ」


「で、ここの大家の婆さんの堪忍袋の尾が切れた。残った荷物をどかさなきゃ新しく部屋も貸せんしな。不動産屋が鼻紙の役にも立たねぇから警察だの行政だのに掛け合って、死んだ爺さんの兄貴の家まで行って膝詰めで直談判よ」


「行動力ありますね……」


「そういうわけで今日、親類立会いの下に業者を呼んで荷物の処分。不動産屋の野郎、お前さんにゃこのこたぁ言わなかったか」


「いや、全然。何も聞いてないっすよ。孤独死だなんて……」


「かっかっか、そりゃお気の毒に。まぁ商売だもんな、同じアパートで死人が出たなんざ話さなくて当然か。下手なこと言えば折角の借り手が逃げてくもんなぁ」


「道理で家賃が妙に安いと思った。ところで蘆屋さん、孤独死って……」


「あん? なんでぇ?」


「あの、人が死んだってのにこう言うのはアレなんですが、腐ったとかそういうのは……?」


「心配いらん。そこは俺が見張ってたからな。俺だって隣から悪臭がしちゃ困る」

 

「は、はぁ」


「なにせ空いた部屋は俺が使うからな」


「えぇ!?」


「死人が出たから家賃はバカ安、こりゃ使わねえ手はねぇよ。んなワケで隣の部屋は今日から俺が借りて書庫にする予定さ」


「いやいや、そんな人が死んでんだし、まずお祓いとかそういうのは?」


「そんなのは俺がやる。心配いらねえ」


 実に素っ気無く、しかし意味深なことを蘆屋が口にする。彼の今の一言を聞いた武綱は、何かしらピンと来るものがあった。


「蘆屋さんってひょっとして……仕事は法印ほういんとか唱門師しょうもじですか?」


「あん? 唱門師だぁ……?」


 武綱の問いに蘆屋は、一瞬だけ気色ばんだように首を傾げ眼を剥いた。何か気分を害するようなことを言ってしまったか、と面食らう武綱だったが、しかし蘆屋のおもてはすぐにまた飄々とした薄笑いに戻る。


「いんやぁ、しがねえ物書きだよ。仕事柄部屋に本が山積みでな。いい加減どうにかしなきゃならねえと思ってたんだ。死んだ爺さんにゃ悪いが渡りに舟だったぜ」


「でも今、お祓いが出来るって……」


「ふん、物書きになる前にちょちょいとな……。そうだ、兄ちゃんよ、一丁手伝ってくれねえかい? なにせ座りっぱなしの物書きに重たい本を担ぐのは骨でよ。おめぇさんみてえなガタイいいのに手伝って貰えりゃこっちも助かって万々歳なんだよ。どうでぇ? ゼニも払うし弁当も付けるぜ?」


 そう老けている訳ではないのに、蘆屋は大仰に腰をさすってみせる。口調こそラフだが粗雑な感じはそれほどなく、頼みごとをされても図々しい印象は受けなかった。


 蘆屋はアパートの隣人であるし、これからの近所付き合いもあるから無下な態度はできないなと心中で算段しながらも、彼の頼みを断る理由も特に見当たらないことに気が付く。


 ――休日だからといって別段用事がある訳でもなし。むしろ休みを理由に朝から夕まで無為にダラダラ寝転がっているかと思うと、それはそれでなんだか気分が落ち着かなくなってくる。

 そう考えた武綱は、芦屋の頼みを引き受けることにした。


「いいっすよ。どうせ今日は暇だし」


 そう武綱が言うと、蘆屋はにかっと髯面を破顔させた。


「よしきた、それじゃ残った荷物が運び終わったら一声かけるからよ。それまでちょっと待っててくれや」



                   ◇



 昼前になった頃、階下で引越し業者の「じゃ、失礼します。ありがとうございましたー」という挨拶の声が聞こえる。窓から外を覗けば、神社脇の空き地に停まっていた2tトラックが出で行くのが見えた。

 そろそろかと思って廊下に出ると、ちょうど隣室の扉を開けて出てきた蘆屋とばったり顔を合わせた。


「おう、兄ちゃん、いいタイミングだな。そんじゃ頼むぜ。昼飯はもう食ったかい?」


「いや、まだっすね」


「弁当買ってきたけど、先に食うかい?」


「いや、いいっすよ。時間そんなにかかります?」


「量はあるけど隣に移すだけだしなぁ。そんなにはかからねえだろう。兄ちゃんガタイいいしな」


 お邪魔しますと言ってから蘆屋の部屋へと足を踏み入れると、まず眼に入ったのは所狭しと並ぶの本の山だった。間取りは武綱の部屋と同じなのだが、玄関入ってすぐの台所の床には本がどっさりと積まれている。


「うお、多いっすね」


 汗牛充棟の趣ある部屋に、武綱は思わず眼を瞠った。

 台所だけでなく奥の間の畳の上にも、大小の書物がうずたかく山を成している。大きめの本棚があるものの、とても全部は納まりきらないようだ。


「手前の台所にある本から手当たり次第縛って纏めてくれるかい。隣に運んだら適当に床に積んで……いや、違ったな。なるべく左の部屋に集めて置いてくれや」


 蘆屋がそう言ってビニール紐と鋏を手渡してくる。それを受け取った武綱は、まず目に入った本の山から数冊を手にとって抱えた。

 何とはなしに本の表紙に目をやると、妖艶なしどけない姿の劇画調の女性の絵が表紙を飾っているのが目に入る。さらに何やら淫猥な単語が並んだ書名が見える。

 

「えーっと、これっていわゆるエロい本……」


「ん? ああ、そりゃ出版社からの献本よ」


「献本?」


「オレが書いたんだよ。物書きだって言ったろう?」


 驚いて表紙をよく見ると、著者名に「蘆屋六角」としっかり明記してある。武綱は慌てて本の表紙と蘆屋の顔を見比べた。


蘆屋六角あしやろっかくって……ひょっとしてポルノ、いや、官能小説家の蘆屋六角先生?」

 

「おう、俺を知ってんのかよ。若ぇのに物好きだな。ふむ、感心感心」


「いや、あの……! 俺の友達の碓井うすいって奴がいましてね、そいつ神庭しんてい大学の文学部に行ってるんスよ。こないだ引越し手伝ってくれたメガネのアイツです。あいつ趣味がポルノ小説読むことで、『蘆屋六角先生は素晴らしいからお前も読め!』って俺にも本を貸してきたことが何度もあって、知ったらあいつ喜ぶなぁ。うわ、ビックリしたぁ」


「はっはっは! そりゃ嬉しいね、あの優男の兄ちゃんか。人は見かけによらねえ……。いや、ああいう見てくれが良いのが実は助平なんだよな」


 蘆屋は若干照れた風に笑った。――先ほどから思っていたが、この男は見た目こそ世間一般の「普通」からは外れた妙な印象を受けるが、とっつきの悪い人間ではないようだ。


「いやもうホントその通り! あいつはもう昔から女が次から次へと寄ってくんですよ。で、断ったら失礼とか言っていい思いを……」


 思わぬきっかけで隣人と打ち解けることになった。武綱も読書は好きなので、気詰まりな間もなく会話も弾む。ほどなくして運ぶ本はあらかた一纏めにされた。


「よし、じゃあ運ぶか。頼むぜ兄ちゃん」


「うす」


 本を担ぐと蘆屋の住む202号室を出て、隣室の203号の扉を開ける。

 開けた途端にじめっと湿った空気が鼻をついた。黴の臭いと、つい最近まで人が居住していた独特のえた生活臭。

 がらんと空いた部屋はカーテンが取り外され、白々とした外光が窓から入っているのに妙に陰気だった。

 ちくり、と嫌な感じが身に走る。武綱は首筋あたりに薄ら寒さを覚えた。

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