第10話 碧空・二
「水道と電気は電話するだけでOKなんだけど、ガスは立会わなきゃいけないんだよな」
「東京ガスの人が来るの何時?」
「夕方の四時半。まだ時間あるなぁ」
碓井と話しながら武綱が玄関のドアを開けると、開いた扉から新涼の風が流れてきた。
このアパートは小高い段丘の頂上に位置しており、アパートの廊下側に面した斜面は地滑り防止のコンクリート壁になっていて、隣接する人家は一段下がった場所に建っている。そのためアパートの廊下からは豊かな眺望が見晴らせた。
玄関を出た武綱は手すりの前に立つと、眼下に広がる町並みと河川と、澄み渡った秋の空に暫し見蕩れる。
高い空から吹き流れる秋風が肌に心地良い。素晴らしい景観だった。
が、しかし――その爽やかな九月の秋風に、ふいに煙草の臭いが混じる。
少々感興を削がれた武綱が左手に眼を向けると、隣の部屋の前に一人の男が立ち、廊下の手すりに寄り掛かって煙草を
男はぼさぼさの
長身の三人が頭をいったん下げて、順繰りにドアから出てくるのを見た男は驚いた顔になると、煙草の灰を灰皿に落としてから口を開いた。
「さっきからゴトゴト物音がするなと思ってたら……随分とでかい
「あ、こんちわ」
「おぉ」
「201号室に越してきた
「おう……よろしく。俺は
「こっちは俺の知り合いのですね――」
武綱は会釈しつつ、碓井と卜部を親指で軽く指し示した。
「
「
碓井と卜部のふたりも、武綱に続いて会釈する。
「若ぇな、学生さん?」
「いや、学生は
「ふむ、やけにいい体してんね。力仕事?」
「まぁ、そんなとこです」
「そうか、頑張ってくれや。まぁ、ひとつよろしく」
蘆屋と名乗った男は痩身であまり血色が良くなく、目尻に皺が目立つ。とはいえ、全体を見るとさほど老けた印象はない。
年の頃は四十半ばから五十歳くらいだろうか。一見すると職業不詳の男性である。
男は非常に彫りの深い
その眼つきというか眼光が妙に独特で、蓬髪に鬚面のどてら姿共々、一風変わった印象を武綱たちに与えた。
隣人への挨拶を済ませると、三人はアパートの階段を下りて停めていた車の許へ向かう。
「いかにもな怪しいおっさんが住んでるなぁ」
「おい、お隣さんだぜ。そういう言い方は……」
「なんか暗黒舞踏をやってそうな人だったな」
「土方巽かよ! まぁ、確かに似てるっちゃ似てるけど」
「それにしてもお前、急に行方知れずになったと思ったら、いきなり帰って来てを引越しするから手伝えだもんなぁ。びっくりしたよ」
「んー、まぁな。悪いな碓井、親の車まで出してもらってよ……」
「いーや、お安い御用だよ。それにしてもお前、今までどこをほっつき歩いてたんだ?」
「あー、西のほうをな……瀬戸内とか……」
他愛ないことを喋りつつ神社の鳥居の前まで来た時に、ふと何かの気配を武綱は感じた。立ち止まって、鳥居越しに神社の境内を覗き見る。
目の前の色褪せた赤い鳥居を見上げると、
閑散とした参道には石灯籠がふたつ立ち並び、その奥に
境内を囲む背の低い石柱に鉄棒を通した造りの柵は、
社殿の向こうには下り坂に沿って疎林が見え、晩夏の色を残す緑の木々の隙間から、坂下の住宅地が見えた。
「どうした? ナベ」
そう卜部が訊ねる。碓井も立ち止り怪訝な顔をした。
「あ、いや、なんでもないよ。神社だなーってよ」
「稲荷神社ねぇ……参拝しとくか? 俺もお前も商売柄こういう神様仏様は敬わなきゃならねーし、駐車場も借りてっからな」
「まぁ、そうだな。確かに引っ越したんだから挨拶しとかないとなぁ。どう考えてもここらの氏神様だろうし」
「なになに? 拝んでくの? 五円玉あったかな?」
碓井もそう言って財布を引っ張り出しながら、武綱と卜部と一緒に鳥居をくぐる。各々手水舎で手を洗って口を漱ぐと、三人揃って賽銭箱に五円玉を投げ込んで二礼二拍手一礼した。
「家内安全、商売繁盛、あとはえーっと……怪我せず病気せず健康でいられますように」
「ナベ、そこは彼女ができますように、とかにしときなよ」
「うるせーぞ碓井。余計なお世話だ。お前はむしろ女癖の悪さをどうにかしろ。神様、コイツの手の早さにどうか天罰を」
「おいおい、何度も言うけどさ、俺からじゃなくていつも女の子のほうからね……」
武綱と碓井がそんなやりとりをしているあいだに、卜部は粛々と社殿に頭を下げ終える。振り返ると卜部は二人の太腿に、ごく軽いローキックで突っ込みをいれた。
「さっさとやれよおめーら。アホやってると罰が当たるぜ」
「おっと、そうだな」
「おう」
武綱と碓井は並んで社殿に向き直る。
しかしその時、武綱はやはり何かの気配を感じた。首を傾げてから左右を見回すと、卜部と碓井も同時に感づいた様子だった。
三人とも一斉に背後に振り返る。
その途端、参道脇の石灯籠の後ろにさっと隠れる人影が見えた。
三者三様でともに互いに顔を見合わせたあと、素早く無言でその場でジャンケンを始める。最初はグーであいこ二回の後に、負けた武綱が石灯籠を確認することになる。
(なんで俺はこうジャンケンが弱いのか……)
内心でぼやきつつ石灯籠に歩み寄り、彼は上からひょいと覗き込んだ。
覗き込んだ石灯籠の陰に見えたのは、意外なことに小柄な可愛らしい少女の姿だった。
彼女はまん丸な澄んだ瞳でこちらを見上げている。不思議なことにその髪は真っ白で、瞳は澄んだ緋色をしている。
少女は縁日でもないのに、なぜか
――子供が着るにはずいぶん渋い絵柄だな。などと思って見ていたら、驚いた顔で固まっていた少女の表情が一変する。
顔色がはっと我に返ったと見えた途端、少女は脱兎の如く石灯籠の脇から駆け出した。
彼女は境内の隅の方にある、御神木らしい
「なーんだ、子供かぁ」
「考えてみりゃ神社の境内だもんな。妖怪がいるワケねぇか」
碓井と卜部が拍子抜けした声を上げる。つられて武綱も苦笑した。
三人とも幼少の頃から
「……狐か。子供だな、まだ」
「稲荷神社にいるってことは
碓井が興味深そうに眼鏡のブリッジを上げて少女を見つつ、そう軽口を叩く。
「するか、んなコト。狐ってことはこのお稲荷さまの
「かもな。じゃあねお嬢ちゃん、今日からこのでっかいのがそこのアパートに住むからね~。気をつけるんだよ~。近寄ると食べられるよ~」
「こら碓井、何を吹き込んでやがる。いいかチビっこ、このメガネには気をつけろ。こいつはとんでもないスケコマシだ、絶対に近付くなよ。やばいぞ」
「ガキ相手になに言ってんだおめーらは……。さっさと行くぞ」
武綱と碓井のたわいないやりとりに、卜部があきれた声を洩らす。
三人がまた他愛ない軽口を叩きながら境内を出てゆくと、少女はちょこちょこと楠の後ろから出てきて、色褪せた鳥居のかたわらに来ると彼らを見送るようにその後姿を眺めた。
碓井は車のドアを開けて運転席に乗り込み、卜部は助手席に置いた上着から煙草を取り出して火を点ける。武綱だけが少女の視線を感じて、何とはなしにそちらを見た。
――こちらを見つめる少女はまだ幼い。十歳くらいだろうか。なにやらめずらしそうに俺を見ているのは、きっと自分が人よりも大柄で目立つからだろう。
そんなことを思うと、彼は振り返って車に乗り込んだ。
繁った
車が坂道を下っていった後も、少女は暫くそのままの姿で立ち続けていた。
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