第8話 狐火・八

 娘の死骸のかたわらに膝をつき、綱はしばらく悄然と項垂うなだれていた。

 世人から豪勇無双と謳われる渡辺綱ではあるが、女子供には優しい男であるのを、ながい付き合いの晴明はよく知っている。


「……この娘を弔ってやらねばならんな」


「は……」


 憔悴したとはいえ手練れの武人。心痛に惑うことはあっても、取り乱すような不様は見せなかった。綱はゆっくりと立つと晴明に短刀を返した。


「綱よ、そなたは穢れを落とすため物忌ものいみをせい。七日のあいだ蟄居ちっきょして、宅へと誰も通すでない。」


「……承知しました」


「鬼と化すことなく逝けた。娘も恨みはすまい」


 死んだ娘のおもては眠っているように静かで、夜の川面を思わせる。黒ずんだ手足はもとの青ざめた肌にもどっていたが、色の抜けた白い髪はそのままで、朧月の薄明かりが銀糸のようにそれを照らしている。


 白い髪の端はきぬとともに血を吸って赤く染まり、胸の傷痕とかたく握られたちいさな手がただ痛々しい。

 綱はわれ知らずうつむいて首を振った。


「……この狐の娘が何処いずこの生まれかも私は知りませぬ。供養は伏見の明神様ですべきでしょうか」


「それには……及ばぬようじゃ。そこな狐火」


 晴明が庭の透垣すいがいの向こうに顔を向ける。つられて目をやれば、垣向こうの闇がぼんやりと奇妙に明るい。よく目を凝らせばいくつもの白い狐火がしんとした夜陰に浮かんでいる。


「わしがこの宅のあるじじゃ。入ってまいれ」


 晴明の招く声に応じて、ひときわ白く輝く狐火がすうと中空へと上がり、庭へと降りてきる。

 皓々こうこうとまばゆい光は俄かにかたちを変じ、白い花びらのように霞と散った。するとそこには濃紫の単衣ひとえに紫苑色のうちぎを着て、紅の襴染すそぞめ裳をつけた窈窕ようちょうたる女性にょしょうがあらわれる。


 豊艶なる雲なす髪、桜桃雪花の白きはだえ、彼女は天女のように逸麗うつくしい容顔を手にした白扇でそっと隠し、たおやかに口を開いた。


「播磨守安倍晴明様とお見受けいたします。無作法の御寛恕、どうか平に願いまする……」


 迦陵頻伽かりょうびんがの歌声もかくやとばかりの、宝珠をころがすような玲瓏たる声。先刻から冷たい血の匂いで張りつめた夜の庭に、その甘く薫るばかりの声がたゆたう。


「わが従者をむかえにまいりました……」


 その甘美な声が耳朶をくすぐると同時に、身の内に滞った血が途端に流れはじめた。引き絞った弓弦ゆづるが切れたかのように、綱はすさまじい疲労を覚えてよろめいた。脚に力が入らず、いつの間にか片膝を地についてしまう。



 女性は綱と向かい合うかたちで狐の娘のかたわらに跪くと、裳を脱いで死骸にそっと掛けた。娘の死に顔を見つめるうちに、彼女の瞳から幾すじかの涙がこぼれる。


「さぞつらかったでしょうに……痛かったでしょうに……。それでも狐の身を見せることなく逝くとは……立派な姿です。わたしはおまえには遠くおよびませぬ」


「このわらわの主とお見受けする……俺は……いや、私は……この娘を守れなかった。申し訳のしようがない。すまぬ」


 綱の言葉に女性はかぶりを振ってこたえた。


「渡辺綱様。この者はわたしの言いつけを守っただけにございます……。どうか、あっぱれと褒めてやってくださいませ。さすればこの者も本望」


「……いや、俺は」


 何か言おうと思ったがうまく言葉が出ない。尋常でない疲れで眩暈がする。


「守れなかったのではない……違う。俺が守られたのだ……だから……俺はその恩に報いねば、償いをせねばならん」 

 

「かたじけのうございます……。そのお言葉がいただければ、この者もなにより重畳」


「いやちがう……俺は……必ずと言った。約束は……果たさねば……ならん」


「綱、しっかりせい」


 晴明のいかめしい声が遠くからきこえる。耐え難い疲れで体が崩れ落ちる。

 数瞬の間を置いて綱は喪神した。首ががくりと下がり、彼は意識のないままに両の手を地面をつく。

 

「やれやれ、命婦殿みょうぷどのよ。音に聞こえた豪勇の渡辺綱といえど人の身よ。羅刹鬼と斬り結びその呪血を総身に浴びたのち、そなたほどの霊威をそなえた神使みさきがみうては、この男とてもはや身がもたぬ」


 晴明が屈んで、疲弊で倒れた綱の身体をささえた。女性は裳で娘のむくろをくるむと、その身から淡くかすかな光を発してゆく。


「この娘の弔いはそなたらに託してよいのじゃな?」


「はい……無論にございまする」


ねんごろに弔うてやってくりゃれ……」


「はい。……晴明様」


「む?」


「渡辺綱様のお言葉……心よりありがたく存じます」


「かならずや恩を返す、か。この男は武士よ。二言はなく言うたことは守る。命婦殿、一時いっときの方便と思いなさるな」


「……」


「約定の証はなにも残せぬがな。ま、そのほうが都合がよい。この男が目を覚ましていたら片腕でも斬り落として、そなたに託していたかもしれん」


「晴明様」


「むかし、わしがまだ若輩のころ、とある貴人あてびとの奥方が狐の姫君という風のうわさがあったものよ……」


「…………」


「その奥方は幼子おさなごを残して何処いずこかへと去られたと聞く。……命婦殿、この世は仮の宿。電光朝露でんこうちょうろ、夢幻のことなればいつかまた……生死輪廻しょうじりんねの果てにめぐり合うことも、あろうかもしれぬ」


「では綱様とこの子も……いつか」


まみえることもあろうかもな。そして、そなたもな」


 裳で包んだ娘を抱き上げると、女性にょしょう滂沱ぼうだの涙を流した。

 その身からは金砂銀砂のきらめく粒がこぼれ落ちて、後光のような赫灼かくしゃくたる青白い光芒がほとばしる。その光はあたりを輝かし、曇天の夜の庭は時ならぬ星月夜のごとく明るく照らされる。


 娘を抱いた女性は皓皓たる狐火へ変化すると、赫々と日月じつげつの如くまたたくや否や、忽然と夜闇やあんに光をにじませて姿を消した。


 その夜、都の東に住むものたちは、点々と灯る狐火が列をなして、伏見の稲荷山までつらなるあやしき不可思議な光景を見たという。

 妖異あやかしおそろしや、人びとはそういって家々の門戸を固く閉ざした。



                  ◇



 そののち――。

 晴明の邸で一夜を明かした翌日、綱は自邸へ帰ると家の門へ物忌ものいみの札を立て、桃の木を切って門を塞いだ。物忌の呪法は晴明みずから行い、綱は七日間仁王経を読経して蟄居することとなった。


 渡辺綱の物忌とともに羅城門で見つかった鬼の骸。すなわちあれは頼光四天王の渡辺綱が仕業。都人みやこびとはそうおそろしげに噂した。

 こうして綱は賀茂祭かものまつりの物見に行くことはかなわなかった。


 碓井貞光、卜部季武、坂田公時の三者は僧から借りた牛車で勢い込んで物見に行き、散々な目にあうのだが、これはまた別のお話。

 祭りが終わると新緑はその濃さを増し、初夏の薫りが都にただよう。

 薄紅色の春尽きて、季節は夏へと移ろっていった。

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