第7話 狐火・七

 板戸を閉め切った室のなかで、燭台の火がふいに乱れ揺らめく。

 文机に向かって書をしたためていた安倍晴明は顔を上げた。

 入室の許可を求める声に返事をすると、戸が開いて侍女が一礼して入ってくる。その色を失った顔を見て、晴明はただごとならぬ気配を察した。


「何ごとか」


「渡辺綱様がお越しに……」


 青ざめた顔で、歯の根の合わぬ震える声で侍女は言う。


「通せ」


「来ればお部屋が穢れますゆえ、不躾ながらつぼへと案内あないしてくれと……。そう仰いますので、そちらにお通しいたしました……」


 晴明は席を立つと、先日綱と会した庭に面す放出はなちいでの間へと足早に向かった。夕刻からの雨で空気はひんやりと湿り、廊下に出るとつめたい夜気が肌を刺す。

 室に入ると、開いた妻戸の向こうのすだれ越しの庭に、綱がその大きな背を向けて立っているのが目に入った。


「綱、何ごとじゃ」


「晴明様」

 

 振り返った綱の姿を見て、晴明は息を呑んだ。縹色はなだいろ直垂ひたたれと袴が血で濡れて深く黒ずんでいる。もとどりは乱れて烏帽子もつけていなかった。

 そしてなにより、その腕には泥と血で汚れた半死半生の娘を抱いている。


「綱、それは……」


「羅城門にて鬼に襲われました。……この娘がいなければ私の命は無かったでしょう。過日かじつ話した狐の娘です」


 晴明は濡れ縁を下りて抱えられた娘に近付いた。娘の顔色は紙のように白く、すでに虫の息である。口もとには吐血の痕が残り、胸にはむごたらしく穿うがたれたあなが開いている。だが、晴明を驚かせたのは凄惨な傷痕ではなかった。


「なんということか……! 鬼の呪詛すそを受けておる」


「やはり。鬼の妖気が娘のからだから消えませぬ。懸命にあらがってはいますが……晴明様、これは一体?」


「おそろしい鬼にうたものじゃな。綱、斬ったか? しかとその鬼を斬ったか?」


「は、たしかに斬り斃しました。晴明様、鬼の呪詛とは……」


「この娘は死なばぐにでも鬼に化生けしょうしよう。害した者の身を羅刹鬼の血で穢し、魂魄を現世に縛して悪鬼と成す呪いよ。おおかた四天王の渡辺綱を殺害して、鬼に化させる目論見だったのであろう」


「…………」


「もはや一刻の猶予も無い。この娘の呪詛を絶たねばならぬ」


「それには……」


「心して聞けい。娘の命を絶て。鬼の呪いは執念ふかい悪縁。はらうには呪った鬼より強い力が要る。酷なことじゃが、禍根となった鬼を斬ったそなたにしか出来ぬ」


「……!」


 さしもの綱も絶句した。急なことに考えがまとまらず、思わず娘を抱えた腕に力が籠もる。

 娘を見れば、もう息も絶え絶えに弱りきっていた。


 ただ、あやしきことに|瑞々しかった黒髪はじょじょに色が褪せ、乾いた白色はくしょくになってゆく。青ざめた手足の先には、斑な黒点が幾つも浮きはじめていた。


 あきらかに異形のなにかに娘が変わってゆく。

 晴明が懐中からを取りだすと、印を結び短くしゅを読んだ。すると白い符がわずかに光ると、稚児水干姿の童子に変化へんげする。晴明の使役する式神である。

 

鞘巻さやまきを持てい!」


 童子は鞠のように飛び跳ねて部屋へ駆け込んでいった。そしてほどなく一振りの短刀をたずさえてあらわれる。


 晴明は短刀を手にするとは符をいくつか地に置き、また呪を読む。そしてその上に娘を下ろすように綱へ命じた。

 命じられるがままに綱は娘を濡れた地面に仰向けに寝かせる。雨はすでに止んで、曇天の夜空にはおぼろな銀色の月がのぼっていた。

 

「綱、腕を出せい」


 茫然としながら綱が右手を前に出すと、その腕にするどい痛みが走った。

 なかば自失しかけていた意識が途端にはっきりと醒める。晴明が短刀で自分の腕を切ったのだった。

 流れる血で短刀が赤く染まる。印を結んだ晴明がおそろしいほどの峻厳な顔つきで、暫くのあいだ口の中で低くしゅを読んだ。


「……喼急如律令きゅうきゅうにょりつりょう


 綱にはその呪の最後の言葉だけが、かろうじて聴こえる。


「鬼の血の穢れを祓うには、呪縛した鬼をも凌ぐ霊威が要る……。しかし神仏に祈禱きとうする儀をおこなういとまはもはやない。この哀れな娘の身命を成仏させんが為にも、鬼を斬ったそなたの血で穢れを祓う。……綱、この鞘巻を使え」


「……私に、この娘を楽にしてやれと」


「呪いのもとたる鬼を斃したそなたのみになせるわざ。そしてもう……」


 晴明は娘に痛ましそうに憐憫の目を向けた。娘の髪はすっかり白くなり、腕も脚も炭のように黒くなっている。


「なかば鬼と化しておる。つらかろうが……覚悟を決めよ」


 綱は血塗られた短刀を受け取ったが、さすがに手が震えた。悪鬼の呪詛を滅するためとはいえ、家族のように可愛いがってきた狐の娘を、それもおのが一命を賭して自分の命を助けた相手を殺すことに、躊躇せずにはいられない。


「…………」


「ためらっても詮無きこと……死して鬼と化せば斬らねばならぬ」


「……承知しております」


は非情のおこないに非ず。情けと知れ。そなたの手で成仏させてやるのじゃ。覚悟を決めよ」


 唇を噛み締める。晴明の言うことが道理であるのは百も承知だった。無理やりに躊躇を押し殺し、短刀を握り締め娘の身体の上へと屈みこむと、うつろに開いた娘の瞳と目が合った。


 すると娘は綱を見て力なく微笑んだ。

 あきらめではなく、綱を慰めるかのような柔和なやさしい笑み。

 そのほほえみに息を呑む思いがした。

 身に楔が打ち込まれ、思わず手がとまる。娘と見つめ合う。

 自分はよほど悲愴な面持ちをしているのだろう。


 だがこの娘は死の淵に落ちるこの期に及んでも、ただただ俺のことをおもんぱかっている。俺をふかく想っているのだと、娘の心のうちが綱には痛いほど伝わってきた。


 苦痛を訴えるでもなく命乞いを哀願するでもなく、まして死を望むでもなく、まっすぐに自分を思慕して見つめている。


「すまぬ。許しは請わぬぞ。許せなどとは言わぬ」


 だしぬけに覚悟が決まった。この娘を。下手な情けは苦しませるだけ。綱は左手を娘の首に回すと抱きしめるように屈みこんだ。


「先ほど言ったろう……狐。恩は必ず返す。そしてこの償いも必ず果たす」


 娘が頬を寄せてすこし頷くのがわかった。心残りはただひとつ、ここまで純に自分を慕ってくれた娘にしてやれることが、この非情な所業しかない。それが心底から悔やまれた。


「必ずだ。……すまぬ」


 鳩尾みぞおちのすこし右上、肋骨に沿って短刀の光る刃先を上に向けてあてがうと、きぬの上から柔肌へ一息に刃を突き込む。その瞬間、娘の華奢きゃしゃな身体が大きく跳ねた。


 天の月は闇夜に白く輝く。体内に潜った刃をぐいと上へ押しあげ、心の臓と脈を断ち斬る。

 温かい血がほとばしって綱の手を濡らす。一声も洩らさずに娘は絶命した。

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