第6話 狐火・六

 微塵も気配がなかった。あやしは、なにひとつ――。

 暗がりに砂塵があがり土埃つちぼこりのなかに血の匂いが混じる。

 大柄なつなよりもはるかに大きい牛のような体躯。一丈はあるかと思える闇に溶けた黒い肌の鬼が、と眼前にあらわれる。


 あかりの消えた真っ暗闇のなかに、烈々たる殺気が迸った。

 野太い鬼の腕が綱のくびめがけて唸りをあげて振り下ろされる。鋭く伸びた爪が風を切っておぞましく鳴いた。

 咄嗟に後方に身を反らして躱し、腰に佩いた刀を抜き放つと、渾身の力でそれをぎ払う。



 ――勢いよく砂利じゃりを撒いたような音が、羅城門下の暗闇に響いた。

 被っていた折烏帽子が飛んでもとどりがばらりと崩れ、直垂ひたたれの袖も破れ散る。

 

 刀の切っ先からは岩を叩いたような衝撃が走り、痺れが指先から腕、そして背骨まで突き抜ける。

 上擦った呻き声が楼門の闇のなかにこだますると、鬼の気配は消えた。


隠形おんぎょう……!)


 迂闊にも、完全に不意を衝かれた。


『今までとはちがい手強い物怪もののけに襲われることも増えよう。努々、用心しやれ』

 

 晴明の言葉が思い出される。同時に不覚をとった己に憤激が込み上げる。

 冷たい汗が背中から噴き出す。いかに豪胆な綱とて平静ではいられなかった。

 なんということか、と悔やむ。

 四天王の渡辺綱わたなべのつなともあろう者が油断していた。鬼やあやかしを斬るのに慣れて、所詮どんな物怪もののけが来ようと物の数ではないと高を括っていた。


 愚かにも増長ぞうじょうしていた。晴明がわざわざ心を砕いて忠告してくれたというのに。

 戦いにおいては常に冷静にならねばならない。そう自分に言い聞かせても慙恚ざんいの念が身の内から湧き出てくる。そしてもうひとつ、戦いの最中さなかに他のことに気を取られるのは命取りなのに、不吉な予感で総身が戦慄わななく。


「狐、どこだ? 狐!」


 刀を青眼に構え、門柱を背にして綱は声を張りあげた。

 声は虚しく闇に吸い込まれ、なんの返事もない。

 暗闇に目が慣れてきたが、楼門下ろうもんしたの暗がりのなかに狐の娘の姿らしきものは見えない。


(おのれ……!)


 内心で歯噛みする。あの娘がいなければ自分は死んでいた。それなのに太平楽に悠々とかまえていた己の不覚が悔やまれ、腹立たしい。

 しかしまた、悔いている場合ではないと冷徹に状況を見つめるおのれもいた。晴明の予言にたがわず、この鬼は手強い。


 覚悟して立ち向かわねば、己が死ぬ。

 鬼の使った姿かたちを完全に消す隠形の術。熟練の陰陽師とてそう出来おおせるものではない。



 古の名高き陰陽師、滋岳川人しげおかのかわひとつちの神すらあざむく完璧な隠形術を使ったと伝わる。だが、その逸話が語り継がれるということは、逆にいえば自在に隠形術を使いこなせる術師は古来よりそれほど稀ということだ。


(ましてや鬼などに……と言いたいが聞いた事はある。姿なき鬼)


 その昔、天智天皇の治世。朝廷に弓を引いた藤原千方ふじわらのちかたが使役したという金鬼きんき風鬼ふうき水鬼すいき隠形鬼おんぎょうき四鬼よんき。そのうちの影さえなく姿を隠し、敵対するものに一切存在を悟られずに対象を殺すという隠形鬼。

 四鬼はやがて藤原千方のもとを離れたため、千方は朝廷に敗れ去ったという。


(まさかその隠形鬼…………とにかく俺を殺すために大層な奴が出てきたな)


 門の外は蕭蕭しょうしょうと雨が降りしきっている。

 朽ち果てた羅城門の梁が軋みをあげ、楼門のあちこちから雨が漏って滴り落ちる。

 刻一刻と暗さを増す夕闇のなか、不気味な静寂しじまがあたりを満たした。



 ぴちゃり、ぴちゃりと雨漏りが耳を打つ。その雨音とひどく血腥ちなまぐさい臭いが混然として、泥のような闇のなかにむせ返るほど滴り、嫌なくらいに

 ――先ほどの不意打ちの際、斬り払った刀に確かな手ごたえがあった。


(たしかに斬った……おそらくは腕……)


 身を潜め形を隠したままでは攻撃は出来ない。こちらを仕留めようとする時はかならず姿をあらわす。

 その機に斬る。確実にたおす。綱はそうはらを決めた。

 静かに息を吐く。そして全身全霊を以って周囲あたりの闇に注意を凝らした。


 その綱の足もとに、ぽつりとした白いあかりが光る。それは蛍火ほたるびのようにちいさく弱弱しく、震えながらかすかに瞬いた。


 灯は綱の袴に沿って手元へとゆっくりと上ってゆく。

 ばらばらと降りしきる雨音のなかに、短いはくのぽた、ぽた、ぽたとな音が混じる。

 雨漏りの音とは異なる音。


 綱の真上から生温かい血が垂れ落ちた。

 血の熱と臭いを嗅ぎ取った瞬間、頭上から鬼の鋭い爪が振り下ろされる。

 身を翻して躱すと、背中をあずけていた柱がのみを打ち込んだように、堅い音をたてて深くえぐれた。


 息つく間もなく闇の中から二撃目が横から襲う。あやうく躱したものの、鬼の爪は綱の左の肩口と頬をかすめ、肉と皮をいくらか裂いて柱を穿うがつ。

 刹那、ちいさな灯が燦爛と輝いた。楼門の闇のなか、綱の眼前に鬼の巨躯きょくあらわになる。


 転瞬、綱の片手が柱に爪を突き立てたままの鬼の右腕みぎのかいなをがしりと摑む。すぐさま腕を引き抜こうとした鬼は、次の瞬間、驚懼きょうくの叫び声をあげた。

 ――人間とは思えぬ凄まじい剛力。柱に爪が縫い付けられてまるで動かせない。引き剥がすことが一切かなわない。振り上げた鬼の左腕は断ち斬られ、血潮を噴いて白壁を汚した。

 綱に摑まれた鬼の右手首の骨がめりめりと軋みをあげると、折り曲げられて拉げ、ねじられる。尋常ならざる大力に鬼の体勢が大きく崩れた。


 即座、鬼は残った左腕を綱の顔めがけて振り下ろす。しかし、最初の不意打ちを仕損じた時に受けた一刀で、そのかいなは二の腕半ばから骨まで断たれ血みどろだった。


「しいッ!」


 下から綱の太刀が一閃する。

 

 耳をつんざく悲鳴を上げた鬼の口へと、返す刀が吸い込まれる。



 下顎を残して、鬼の顔が真二つに両断された。

 顎から上の鬼のかしらは、赤黒い血をばたばたと散らして地に落ちる。鬼の巨体が前のめりに崩れ落ちる。


 右手の爪が柱に突き立ったままの姿勢で、その柱にもたれかかって鬼はたおれた。ぬるりと粘ついた血が下顎から垂れて柱をつたい、床一面に黒い血溜りをひろげてゆく。

 素早く刀の血を振ると鞘に納め、綱は周囲を見回しながら声を張り上げた。


「狐! 何処いずこにいる!」


 闇の中に弱く光る微小な灯が綱の前を通ると、門扉もんぴを抜けて朱雀大路へゆくのが見えた。急いで後を追うと城門からすこし離れた大路の隅に、雨に濡れて泥と血にまみれた狐の娘が、うつ伏せに仆れ伏していた。


「狐!」


 駆け寄って娘の身体を起こそうとして綱はぎょっとして目をみはった。背中から胸まで鬼の爪でつらぬかれて、ぽかりと開いた傷口から滾々と真っ赤な血が湧き出ている。


 これではもう助かるまい、見た瞬間にそう判る致命傷だった。娘の細い身体を抱き起こすと、まだかろうじて息があった。


「こんな身で狐火を俺の許へ飛ばしたか……」


 城門下で胸をつらぬかれた後、そのまま鬼の後方へと投げ捨てられたのだろう。根菖蒲の重色目かさねいろめあこめさやとした袴も、泥と血で汚れて見る影もなく痛々しい。


 娘が力なくうつろな目で綱を見上げる。なにかを言おうとするが、途端に口から血が溢れ出す。娘は苦しげに血にむせた。


「よい、なにも言うな。今すぐ医師くすしの許へ行くぞ」


 無駄だとはわかっているものの、そういって娘を抱きかかえようとした。腕をのばして背中を抱いた時に、力の抜けた娘の身体がわずかにびくりと硬直する。


 見れば娘の目が大きく見開かれ、そこに著しき恐れと怯えの色がち満ちている。ひどくおののいた表情で、彼女は綱を見据えていた。

 

「…………」


 見るなり綱はすべて察した。

 屈んだまま娘の上半身を抱くと、自身の胸元に彼女の顔を押しあてる。娘の背中越しに空いた右手を回し、刀の柄を握りしめる。



 都大路に沛然はいぜんと降り落ちる雨。

 その雨音のなかに耳を澄ますと、ぴゅう、ぴゅう、と奇妙な物音がする。


 綱の背後に、虚空から姿をあらわした隠形鬼が佇んでいた。

 左腕は斬り落とされ、下顎だけを残して切断された頭からは長く伸びた舌がはみ出ている。いびつな鋭い歯や頚骨が剥き出しになり、頭部の断面からはおびただしい血がどくどくと湧き出している。風穴ふうけつのように空いた気道からは、ぴゅうぴゅうと音をたてて息が漏れ出していた。

 

「今日だけでおまえには……幾度助けられたか……」


 隠形鬼が頭上でゆらりと右手を上げるのがわかった。


「この恩は必ず返すぞ。目をつむれ、狐」


 半死の身とは思えぬはやさで、鬼のねじれた右手が振り下ろされる。

 同時に娘を抱えた綱の躯がつむじのように回ったと思うと、鬼の胴が真っ二つに裂けた。

 真下からの一閃が鬼の股間から胸をばっさりと斬り開く。やいばの先は首を抜けて顎先まで断ち割った。


 鬼の下腹が割れて、血にまみれた臓物はらわたが路にどろりとながれ落ちる。右手が執念しゅうねく宙を摑んだが、綱は二の太刀でその右手も斬り落とす。

 夕刻過ぎて時は夜。雨にけぶる羅城門に隠形鬼は斃れた。

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