第6話 狐火・六
微塵も気配がなかった。
暗がりに砂塵があがり
大柄な
野太い鬼の腕が綱の
咄嗟に後方に身を反らして躱し、腰に佩いた刀を抜き放つと、渾身の力でそれを
――勢いよく
被っていた折烏帽子が飛んで
刀の切っ先からは岩を叩いたような衝撃が走り、痺れが指先から腕、そして背骨まで突き抜ける。
上擦った呻き声が楼門の闇のなかに
(
迂闊にも、完全に不意を衝かれた。
『今までとはちがい手強い
晴明の言葉が思い出される。同時に不覚をとった己に憤激が込み上げる。
冷たい汗が背中から噴き出す。いかに豪胆な綱とて平静ではいられなかった。
なんということか、と悔やむ。
四天王の
愚かにも
戦いにおいては常に冷静にならねばならない。そう自分に言い聞かせても
「狐、どこだ? 狐!」
刀を青眼に構え、門柱を背にして綱は声を張りあげた。
声は虚しく闇に吸い込まれ、なんの返事もない。
暗闇に目が慣れてきたが、
(おのれ……!)
内心で歯噛みする。あの娘がいなければ自分は死んでいた。それなのに太平楽に悠々とかまえていた己の不覚が悔やまれ、腹立たしい。
しかしまた、悔いている場合ではないと冷徹に状況を見つめる
覚悟して立ち向かわねば、己が死ぬ。
鬼の使った姿かたちを完全に消す隠形の術。熟練の陰陽師とてそう出来おおせるものではない。
古の名高き陰陽師、
(ましてや鬼などに……と言いたいが聞いた事はある。姿なき鬼)
その昔、天智天皇の治世。朝廷に弓を引いた
四鬼はやがて藤原千方のもとを離れたため、千方は朝廷に敗れ去ったという。
(まさかその隠形鬼…………とにかく俺を殺すために大層な奴が出てきたな)
門の外は
朽ち果てた羅城門の梁が軋みをあげ、楼門のあちこちから雨が漏って滴り落ちる。
刻一刻と暗さを増す夕闇のなか、不気味な
ぴちゃり、ぴちゃりと雨漏りが耳を打つ。その雨音とひどく
――先ほどの不意打ちの際、斬り払った刀に確かな手ごたえがあった。
(たしかに斬った……おそらくは腕……)
身を潜め形を隠したままでは攻撃は出来ない。こちらを仕留めようとする時はかならず姿をあらわす。
その機に斬る。確実に
静かに息を吐く。そして全身全霊を以って
その綱の足もとに、ぽつりとした白い
灯は綱の袴に沿って手元へとゆっくりと上ってゆく。
ばらばらと降りしきる雨音のなかに、短い
雨漏りの音とは異なる音。
綱の真上から生温かい血が垂れ落ちた。
血の熱と臭いを嗅ぎ取った瞬間、頭上から鬼の鋭い爪が振り下ろされる。
身を翻して躱すと、背中をあずけていた柱が
息つく間もなく闇の中から二撃目が横から襲う。あやうく躱したものの、鬼の爪は綱の左の肩口と頬を
刹那、ちいさな灯が燦爛と輝いた。楼門の闇のなか、綱の眼前に鬼の
転瞬、綱の片手が柱に爪を突き立てたままの鬼の
――人間とは思えぬ凄まじい剛力。柱に爪が縫い付けられてまるで動かせない。引き剥がすことが一切かなわない。振り上げた鬼の左腕は断ち斬られ、血潮を噴いて白壁を汚した。
綱に摑まれた鬼の右手首の骨がめりめりと軋みをあげると、折り曲げられて拉げ、
即座、鬼は残った左腕を綱の顔めがけて振り下ろす。しかし、最初の不意打ちを仕損じた時に受けた一刀で、その
「しいッ!」
下から綱の太刀が一閃する。
耳を
下顎を残して、鬼の顔が真二つに両断された。
顎から上の鬼の
右手の爪が柱に突き立ったままの姿勢で、その柱に
素早く刀の血を振ると鞘に納め、綱は周囲を見回しながら声を張り上げた。
「狐!
闇の中に弱く光る微小な灯が綱の前を通ると、
「狐!」
駆け寄って娘の身体を起こそうとして綱はぎょっとして目を
これではもう助かるまい、見た瞬間にそう判る致命傷だった。娘の細い身体を抱き起こすと、まだかろうじて息があった。
「こんな身で狐火を俺の許へ飛ばしたか……」
城門下で胸をつらぬかれた後、そのまま鬼の後方へと投げ捨てられたのだろう。根菖蒲の
娘が力なくうつろな目で綱を見上げる。なにかを言おうとするが、途端に口から血が溢れ出す。娘は苦しげに血にむせた。
「よい、なにも言うな。今すぐ
無駄だとはわかっているものの、そういって娘を抱きかかえようとした。腕をのばして背中を抱いた時に、力の抜けた娘の身体がわずかにびくりと硬直する。
見れば娘の目が大きく見開かれ、そこに著しき恐れと怯えの色が
「…………」
見るなり綱はすべて察した。
屈んだまま娘の上半身を抱くと、自身の胸元に彼女の顔を押しあてる。娘の背中越しに空いた右手を回し、刀の柄を握りしめる。
都大路に
その雨音のなかに耳を澄ますと、ぴゅう、ぴゅう、と奇妙な物音がする。
綱の背後に、虚空から姿をあらわした隠形鬼が佇んでいた。
左腕は斬り落とされ、下顎だけを残して切断された頭からは長く伸びた舌がはみ出ている。
「今日だけでおまえには……幾度助けられたか……」
隠形鬼が頭上でゆらりと右手を上げるのがわかった。
「この恩は必ず返すぞ。目を
半死の身とは思えぬ
同時に娘を抱えた綱の躯が
真下からの一閃が鬼の股間から胸をばっさりと斬り開く。
鬼の下腹が割れて、血に
夕刻過ぎて時は夜。雨に
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます