第5話 狐火・五

 ――狐は人を化かす。

 女に化けた狐の媚態に、衛符えふの若侍どもが鼻の下を伸ばして痛い目を見た、あるいは滝口たきぐち検非違使けびいしがまんまと狐に化かされたなどの話は枚挙に暇がない。都に住む者にとっては与太話の恰好の種でさえある。


 とはいえ悪しきだと頭から決めかかって、そう邪険にしてよいものでもない。狐は伏見の稲荷山のやしろに祀られる稲穂を司る豊穣の神・宇迦之御魂神うかのみたまのかみの使いでもあるのだから。


 世の中には善い狐と悪い狐がいて、互いにいるのだと晴明が言っていたのを思い出す。それではさしずめ、この子狐の娘は善狐なのだろうか。


(まあ、そうであろうな……)


 七条堀川でこの子狐の娘を助けたのは、もうかれこれ五年ほど前になる。

 あの時はまだほんの小さなわらわだった。気を失ったこの娘を抱えて綱が自邸にもどった時は、妻をはじめ家中の者はみな驚いていたものだ。だが数日の間休ませるうちに、まだ子のなかった綱の妻がとても可愛がっていたことを憶えている。

 それからほどなくして綱は子宝に恵まれた。妻はたいそう喜び、お稲荷さまのご利益でございましょうかと嬉しそうに笑っていた。


吾子あこはもうすぐ五つになる。おまえも大きくなったな」


 短い青草の生えた堤に綱は腰をおろす。すこし離れてちょこなんと座った狐の娘に話しかけると、娘は澄んだ瞳を細めてこちらを見つめた。五月さつきの陽射しを吸い込んだその瞳は、黒というよりはやや赤みがかった濃緋色こきひいろをしている。


 娘の齢は人でいえば十三、四か。

 淡雪のような白い肌にうすい紅のさした頬。ながい睫毛まつげに大きな瞳の美しい顔立ちをしている。


 娘は蘇芳染めの袴に濃紅こきくれないあこめを着て、白の綾の衵を重ねて着ていた。その背中から胸元まで無造作に垂らした艶髪かみが、過ぎ行く春の光に撫でられて揺れる。



 見つめるうちに、子狐のわらわ莞爾にっこりとほほえんだ。

 そのいとけない笑顔が眩しく、綱も思わず胸の内がふと揺らぐ。

 まだあどけなさの残る、とても可愛らしい娘ではあるが、なにやらその身の内から湧き出る清水のような何かが、この娘をいっそう美しく見せている。

 衣通姫そとおりひめの如くとでもいおうか、身の周りの空気さえもがかすかに光っているかのようだった。


『その狐……そなたに懸想けそうしておるぞ』


 晴明の言葉が脳裏によみがえる。

 いやいやなにを馬鹿なと、綱は内心で苦笑いした。しかしこの娘の笑顔に心がわずかに奪われたのもまた否めない。


 傾国の美女褒姒ほうじ微笑ほほえみで周は滅びた。その褒姒の正体はよわい数千年の妖狐だったという。

 周の幽王を狂わせた妖狐の微笑。狐というのはやはり善であれ悪であれ、人間を魅惑させるものなのであろうか。


 そういえば近ごろ、播磨のなにがしという舎人とねりが美しい娘に化けた狐に騙されそうになったので、俺は追い剥ぎだと逆におどして刀を突きつけたら、正体をあらわした狐が尿しとを漏らして一目散に逃げていったという、自慢とも笑い話ともつかない噂を耳にしたことがある。



 ――播磨某とは聞いたことのない武士ではあるが、どうしてその機転は見習いたいところではある。もっとも、自分に懐いているこの可愛いらしいわらわを見ていると、刃を向けられたという狐が災難に遭ったようで気の毒にもなってくるから不思議なものだ。


 五年ほどの間、こうしてこの女の童を散歩の共にしていると、なにやらもう実の娘のような、家族のひとりのような気さえしてくる。

 いつの間にやら狐の娘はそんな身近な、大切な存在となっていた。

 遠く西の空には白雲が浮かんでいる。


「もうすぐ賀茂祭かものまつりがあるが……。おまえも見にゆくか」


「……いえ」


 まるい銀の鈴を鳴らしたような声でこたえ、娘はかぶりを振った。おしかと思うほどに、この娘はほとんど口を利くことがない。時折このように問いかけた時だけ、ちいさな声で返答するくらいである。


「そうか。俺はゆくことになったが、貞光がなにやらおかしなことを目論んでおるようでな……」


 そんなふうに綱がなにかを喋り、娘は頷いては時折みじかい相槌をうつ。それがこの数年の綱の散歩のならわしとなっていた。

 暫くして腰を上げると、綱は堤を南に向かってまた歩き出す。

 

『齢若くとも一条帝はたいへんさかしい御方。いつまでも都の民を苦しめるあやかしを捨ておかれはせぬじゃろう。しかし鬼王追討の命が下るまでの間、そなたら四天王は鬼どもに狙われ、それに伴い都に妖異怪事は増えよう』


 また、先日の晴明の言葉を思い出す。

 なればこそ、と卜占を告げられた日から兜の緒を締める心積もりで日々を過している。が、どうも身辺に目だったあやしきことはない。


 なにやら気を張って一人相撲をとっているような気もするし、息も詰まる。だからきょうはこうして気晴らしに、都の外の風にあたりに出かけてみたのだった。

 綱はとなりを歩く狐の娘をちらりと見る。


 晴明から告げられたことを、この娘に話すのはどうも気が引けた。こんな子供におのが身に危険がおよぶことを話してなんになろうか、という気持ちがまずあった。よけいな気を揉ませるだろうし、武士としては何かこう、恥ずかしくもある。


 背の高い綱はちいさな娘の歩調に合わせてゆっくりと歩く。五年のうちにそんな癖がいつのまにか身に付いていた。

 そんなふう歩いているうちに、夕暮れが近づいてきた。都の南東あたりに来たところで、はるか西に見えた雲が空を覆い、あたりは急にくらくなってくる。


(雨雲であったか……降らねばよいが)


 遠雷こそ鳴らなかったが、夕陽は分厚い雲におおわれてすぐに姿を消した。綱の思惑とは反対に風は湿り気を帯び、空気にだんだん水気が増してくるのが感ぜられる。



 昼の青空からは一変して空は灰色になり、たそがれの暗闇に驟雨しゅううがさしせまって来た。

 ふと、綱のかたわらに、検非違使らが手に持つ燈火あかしほどのあかりが浮かぶ。

 ほう、と淡く光る白い狐火を残して、娘は姿を消していた。


「む、すまんな」


 もうすぐ先に都の正門、羅城門が見える。綱は若干足を速めた。

 十一年前の暴風雨あらしで倒壊し、半ば朽ち果てた羅城門は、夕刻の薄闇のなかに巨大なその姿を影絵のように示して重々しく黙して建っている。


 都の正門などといっても、再建されることもなくうち捨てられ、既にだいぶ昔から名ばかり存在となり果てている。

 京の都は大内裏だいだいりのある北ほど栄え、南にゆくほどに陋屋がならぶ寂れ廃れた町へとすがたを変える。都の最南端にそびえ立つ廃墟と化した羅城門は、京の貧民窟の象徴だった。


(まいったな、やれやれ……)


 わずかに小雨がぽつぽつと落ちてくる。ことによってはここで雨宿りをすることになるかもしれない。溝堀に掛けられた橋を渡り、城門前の石段を上がろうとした矢先、それまで綱のかたわらにあった狐火が、するすると数歩前に出てぴたりと佇んだ。


「ご苦労だったな、狐」


 狐の娘はけっして都の内へとは入ってこない。散歩の終わりはいつもこうして都の門前で別れる。

 だがきょうは狐火の様子が普段とちがった。

 綱の行く手を阻むかのように、石段をうろうろと漂う。


「雨足が強くなるかもしれん。おまえも早く帰るがよい」


 四辺あたりの暗さが増すとともに、小雨はひんやりとした霧雨に変わる。

 綱は石段を上ると、がらんとひらいた楼門ろうもんを通り抜けようとした。しかし、狐火はしつこく綱の胸元あたりに付きまとい、なにかを訴えるかのように、ふわふわと白く瞬いた。


「……?」


 狐火の様子に不審を感じて、綱は足をとめる。

 ちょうど門の瓦屋根かわらやねの下にさしかかった。所々崩れ、薄汚れた白土の塗壁ぬりかべに朽ちた門柱。苔生して腐った木の匂い。

 開け放たれた門扉もんぴの向こうに、そぼ濡れた朱雀大路すざくおおじが見える。

 夕闇、といってよいのか。暗い。星のない闇夜のように楼門の下は暗い。


 白く輝く狐火の灯がなければ、なにも見通せぬほどに――。

 ぽっかりと開いた門扉のむこうの仄暗ほのぐらい大路は、さながら彼岸のようだった。


 ふいに狐火のあかりが綱の眼前で消える。

 瞬間、暗い闇のなかでひらりと淡い白のあこめの袖が揺れると、ちいさな両手が綱の胸をとん、と強く押した。


 思わず後ろへよろめく。――その途端、楼門のひさしの下から黒い影が落ちて来る。

 綱の目の前で、さっと血煙が立ち昇った。

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