第2話 狐火・二

「そなた、今までどれほど鬼を斬った?」


 ――今は昔。正暦しょうりゃく二年の一条天皇の御代。

 桜の蕾もほころび、もうほどなく京の都に春がゆき渡ろうとする。四月うづきのよく晴れた長閑のどかな昼下がりのこと。


 播磨守安倍晴明はりまのかみあべのせいめいから召され、源頼光の朝臣が郎等渡辺綱は一条戻橋の晴明の邸をおとなうた。

 山桜や辛夷の植わった庭のある放出はなちいでの間に案内あないされ、挨拶をすませた後のいきなりの晴明の問いに、綱は返答に窮する。


「……数えきれませぬな。とても、数えきれませぬ」


「そうであろうな。愚問であったわ」


 晴明はほんの少し苦笑して、長くのびた白鬚をしごく。綱の眼前に座る鳥の子の狩衣に墨色の奴袴ぬばかま姿の髪も鬚も白い痩せた老人は、陰陽道の極意に通暁した達人であると名高い、安倍晴明その人である。


頼光四天王らいこうしてんのうが筆頭渡辺綱。大言でなく斬った鬼の数は知れず、か」


「……いえ、ううむ。実のところを申しますと、まことに憶えておりませぬ……。手強い鬼ともなれば憶えておりますが、一太刀で葬った有象無象となれば……」


 縹色はなだいろ直垂ひたたれの袖から太い腕をつき出し、顎に手をおいて思案をはじめた綱を見て、晴明はまた微笑む。長い付き合いになるが、渡辺綱のこの実直さは、いくとせ経てども変わりがない。

 都の人が恐れる鬼や妖怪あやかしを物ともせずに斬り捨てる荒武者として、世人から恐れられる渡辺綱であるが、しかしながら実のところ平生の気性は穏和な男である。


 齢のころ四十に近いが鍛え抜かれた強壮な体躯の持ち主で、整った精悍なその面貌は武骨者の多い東国武者にしては、どこか品のある風雅さがただよっている。晴明とはもうだいぶ古いなじみであった。

 侍女が膳に瓶子へいし土器かわらけを乗せて入室してきた。一礼して侍女が去ると、ふたりは縁へと座をうつす。

 瓶子を手にすると、綱は晴明の土器に酒を注いだ。


「よい、よい、今日はそなたに伝えることがあってな。あと、そなたについての変わった噂を耳にした」


「は、いかなることにございましょう」


「最近、そなたが都の外へ出ると、なにやら怪しげな鬼火おにびが後ろを付いてくると聞いてのう。まことか?」


「は、たしかに付いてまいります。もう五年ほど前から……」


「なに? そんなに前からか。あやしき事とあらば、わしにしかと伝えぬか」


「いや、あれはですな」


 綱が軽く笑む。そうして今度は晴明の差し出した瓶子を土器かわらけに受ける。とん、とん、とん、と小気味好い音をたてて酒が器に満ちた。


「鬼火ではなく狐火にございます」


「狐火?」


 眉間に皺を寄せて、晴明が怪訝な顔をした。


「はい。いつだったか七条堀川を通りましたところ、わたくしの前を町娘が歩いておりまして。まぁ、ほんのちいさなわらわでございますが。しかし、もう陽も落ちたというのに周囲あたりをきょろきょろとめずらしそうに見ている女の童が一人。これはもしや物怪もののけかと、いささか訝しと思いまして」


「ふむ」


「その時に、日暮の夜陰に潜みたる鬼めが女の童に襲いかかりましてな、腕でこう……首の根を摑んで持ち上げました」


「ふむ、それで」


「是非もありませぬ。斬りました」


「鬼をか」


「はい」


「事も無げに言うのう。ふむ、それでどうなった」


「娘を見れば眼を回して伸びておりまして、捨ておく訳にもゆかないので、邸に連れて帰り介抱いたしました。熱まで出して寝込みましてな、幾日か逗留させて養生させました。おどおどして口をなかなか利きませぬが、妻も下女もずいぶん可愛がっておりましたな」


「ふむ……つまりそのわらわが?」


「はい、狐でございました。私もながいこと物怪や鬼を見てまいりましたので、ぐにこれは人に非ずと判りました」


「うむ」


「その一件からしばらくのち、私が都の外に出た時に、狐の娘が何処いずこからともなくあらわれて、日が暮れる頃になると狐火で足許を照らしまする。悪さをするわけでもないので放っておくうちに早数年。どうやら狐火をもって燈火あかしの代わりとして、恩を返すといった様子にござります」


「……」


「もっとも、他の者と一緒にいると、遠くの方でうろちょろとしておりますが」


「その狐……そなたに懸想しておるぞ」


 お戯談たわむれを、と言おうとして綱はと気付く。眼の前の老人は無表情のまま、視線をつぼにうつすと土器かわらけの酒を口に含んだ。冗談を言っている風には見えない。


 稀代の陰陽師安倍晴明の母は、信太しのだの森のきつねくず。綱とてその噂は耳にしたことはある。

 無言の間が流れる。なにやら気詰まりなって綱も庭へと目を向けた。


 そのまま暫くのあいだ、澄み渡った春風に吹かれて揺れる鈴束のような桜の蕾を眺め、晴明と綱は数献の酒を酌み交わした。

 佐保姫が冬の眠りからさめたのか、遠くの山々にはもう残雪は見えない。吹きすさぶ春の疾風はやてもきょうはおとなしく、ゆるやかに流れながれた。

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