第3話
汗が染みたシーツを剥がして窓枠に掛けた。路地裏のベランダはいつも薄暗く、水洗いをすると半乾きになり逆に匂うのだ。風の通りが良いわけでもないが、香水を吹き付け外気に当てるのが一番だと隣室に住む売春婦に教えられた。
この書き割りのようなアパートには似たような女ばかりが住んでいて、名前と顔だけが知らぬ間に入れ替わっていく。
チップのおかげで仕事のやる気がなくなった。食事を求めて外に出ると、金の匂いに敏感な子供たちが寄ってきて、あっという間に取り囲まれた。
「サクラ! もう店じまい?」
「し。静かに。この金持ってチャンの屋台に行きな。はしゃいじゃだめよ」
言ったそばからきゃあきゃあと転がるようにして走り去った。まるで子犬の集団だ。クソみたいな大人に見付かって巻き上げられなければいいが。
小さな後ろ頭を見送っていると、本物の犬がやってきた。骨が浮いた背中を撫でてやるとぺったりと地面に伏せて上目づかいをした。動物は嫌いではないが、犬の世話まで焼いてはいられない。情に流され境界線を見失うと自分が餓死してしまう。
口笛が聞こえ、はっとした。視線を無視して、粉をかける男の前を足早に通り過ぎた。
ドアベルに驚いたネズミが厨房へ逃げ込んでいった。換気扇からは油が垂れている。
「いらっしゃい。あれ、早いね」
「子供と同じこと言わないで」
リルズダイナーは裏側で唯一営業許可証を掲げている店だ。豚を牛だと言い張り、色の悪い挽き肉の塊をパンに挟んではハンバーガーとして客に食わせるこの店は高級店を自称している。
女店主のリルは大きいカップになみなみとコーヒーを注ぎ、缶詰のチェリーを浮かべた。初めて来たときは嫌がらせかと思い驚いたが、何度か通ううちにリルなりの友好の証だと気が付いた。ぬるいチェリーも慣れれば悪くないし、今ではありがたく受け取っている。
「サクラ、聞いた? エステートワンの売春婦も消えたって。あんたのアパートは大丈夫?」
「たまたま近くで続いただけよ。路地裏の女が消えるなんて珍しくないわ」
「これで三人目だよ。服もアクセサリーも持たずに消えたって話。きっと誘拐だよ」
「男と駆け落ちしたのかも。過去はここに置いていく、ってね」
「心配してあげてるのに」
平和な表通りの、たった一本奧にあるこの路地裏の治安は最悪だ。
貧しさとコンプレックスと共に生まれた裏側の住人は、何世代も続く刷り込みによって表側の世界を本能的に恐れている。
裏側を出れば迫害され、人格を否定されるのだ。時には直接的な暴力によって。差別は遅効の毒のようにこの街の全体を覆い尽くし内側から蝕み続けている。
住民は劣等感によって表側の連中に対して凶暴性を発揮しないが、路地裏の売春婦が消えたくらいでは驚かない。ゴミ溜めのような街に絶望し「自分ならきっとうまくいく」と根拠のない自信を持って向こうへ飛び出す住民は時々いるのだ。そこに何が待ち受けているのかは知らないが、大抵二度と戻らない。
リルは誘拐を疑うが、ここはむしろさらわれてきた女が身を落とすような場所だ。
水っぽいハンバーガーにかぶり付いた。全て胃に収めるなら極力噛まずに食べるのがコツ。ある程度砕いたらチェリーコーヒーで流し込む。
「きっと犯人は同一人物だよ」
こだわるリルを無視して食事に集中した。ゴシップ好きのこの女は、何でも大袈裟にしたがる。
「しこたま金を与えて油断させるんだ。すっかり信用させてから連れ出すんだよ」
「金?」
「消えた女たちの部屋からはまとまった金が出てきたってうわさだよ。この街の売春婦が持ち得ないような大金がね」
リルの誇張もあるだろうが、不愉快なうわさだ。私みたいな女は贅沢好きで自己管理の出来ない人間だと思われるが実際にはその日食うものすら困っている奴が多い。それを怠惰と罵られ、金で頬を叩かれるのだ。
「サクラ、本当に気を付けて。あたしあんたがいないとつまらないよ」
「ありがとう」
女優気質のリルに抱きしめられ、思わずお釣りを断ってしまった。料理人が聞いて呆れる。とんでもない商売女だ。
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