第2話
<五年後>
私の街には喋れる豚がやってくる。
「脱げ」
闇から這い上がろうともがいたこともある。未来を掴もうと手を伸ばしたこともある。その度に変えられない出生に足を引っ張られ、檻に閉じ込められた猿のように憤怒と絶望を繰り返した。いつしか叫び続けることに疲れた私は打開の努力をやめ、今は檻の中をぐるぐると歩き回っている。
「横になれ」
何度目かの絶望の後、空の青さが怖くなった。午後のわずかな時間にだけ細く差し込む日の光すら煩わしくなったとき、私は本当にドブネズミになってしまったのだと悟った。
暗闇で食べられるゴミを嗅ぎ分ける鼻を持たない私が生きていくには、希望を捨て路上に立ち続けるしかない。あれほど嫌った路地裏の女たちと、私はすっかり同じになってしまったのだ。
私の上で汗をかく豚の顔を見た。目を閉じて作業に没頭しているような表情は、自分の存在を無視をされているようで好ましかった。時々私の反応にこだわり、声を出さないと不機嫌になる豚がいるのだ。
「名前は」
気が付いたら仕事は終わっていて、腹にブランケットが掛けられていた。
財布から金を抜き、枕元に置いた豚は私の目を見てそう言った。
「サクラ」
「日系なのか」
「ニッケー?」
「桜。東の島国の花」
サクラと名乗るのは最後の母が私をそう呼んだからだ。何年か共に過ごした後死んでしまい、私は独りになった。次の保護者を求めてさまよっていると、年を取った売春婦に口紅を塗られ、隣に立たされた。それで男を受け入れられるまで身体が成長していたことに気が付いたのだ。新しい名前を与えられることはもうなかった。
「花びらが光るんだ。誕生日パーティーのクラッカーのように」
「そんな花聞いたことないわ」
「嘘だと思うなら、行って確かめてみろ」
汚れのないシャツのボタンを上まで止め、しっとりと艶のあるジャケットを羽織った。目つきが悪いくせにとびきり日当たりの良い場所から来たに違いない。
貰った金を数えていると、数枚余分に差し出された。豚共の気まぐれには反吐が出るが、生活の余裕も断るプライドも持ち合わせていない。引ったくるように受け取ると、一瞥をくれ出て行った。
時々こうして表側に住む男が女を買いにくる。羽振りがよくて清潔だから歓迎する売春婦は多いが、私は少しも好きになれない。
表の高級娼婦だって買えるのにわざわざここへ来るのは他人を見下して自尊心を満たしたいからに違いない。それに金をちらつかせば、いくら乱暴にしたってここの女は文句を言わない。服を着た豚に人の心はない。
足音が遠離り緊張がとけると、金の手触りの違和感に気が付いた。紙幣をトランプのように広げると、何かの間違いのように名刺が挟まっていて、並んだアルファベットはビビッグと読めた。こんなもの貰ったところでパンの一欠片にもなりはしない。窓から外に捨てると、小さな紙はヒラリともせず落下していった。
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