#07 先生
【2014年07月18日】
「ねぇ、さっちゃんもグラウンド行こう!」
五時間目の授業の準備をしていると、沙楽の机にショートボブの少女がやってきた。沙楽の近所に住む幼馴染の東吾羽歌だ。
「羽歌ちゃんごめんね。あたし今日は他のクラスに行かなきゃいけないの」
「えー?もしかしてまた告白?」
キャー!と顔を赤らめて手で口を覆う幼馴染に、違うよ!と沙楽は慌てて立ち上がる。
「さっちゃんはモテモテだからねぇ。あ、でも忘れないでね!さっちゃんの一番は私だもん!」
羽歌はそう言って沙楽に抱きつく。一番って何?と、沙楽は軽く笑う。
羽歌ちゃんがいる限り、あたしはどんなに好きな男の子が居たとしても、告白したり付き合えたりできないだろうなぁ。沙楽はそう悟っていた。
けど、今日行かないと。明日から夏休みに入る。だから今日しか会えないのだ。
【♪♪♪】
「ねぇ、あれ見て!
「え、もしかして告白?!『俺、松坂さんのことが好きです』って!」
「可愛くて賢いって有名な沙楽ちゃんと、運動神経抜群でイケメンの北上くん!」
「お似合いだねぇー!」
廊下の隅でお互いに耳打ちしあい、キャー!と楽しそうにはしゃぐ少女たち。
『三年一組』と彫られた表札の真下で、沙楽は恥ずかしさに身を縮こませていた。あなたたち、全部こっちに丸聞こえだよ!彼を呼び出したのは沙楽の方なのに。
「それで、話って何?」
北上くん———沙楽の隣のクラスに在籍している同級生・北上
「きゅ、急に呼び出してごめんね。あの……」
沙楽はドキリと胸が高まる。らしくもなく、言葉に詰まる。廊下に差し込む昼間の日差しで、翔太の金色の髪の毛がキラキラ光る。
なるほど。初対面にして、沙楽は完璧に理解した。翔太が女子間での人気が異様に高い理由。
背もすらっと高く、容姿は年不相応に端麗だ。運動神経も抜群で、確かバスケットボールクラブに入っていると聞いた。
そして何より、笑った顔。自然なのに、すごく柔らかで優しい。年端もいかぬ少女たちは皆、この笑顔に惚れ、あっけなく初恋を奪われるのだろう。
「北上くんに、お願いがあるの」
ぐっ、と手に力を込める。覚悟は決めてきたはずなのに、やっぱり緊張してしまう。
初対面の異性にこんなことを言われたら、普通の人間ならば驚くだろうし、場合によっては気持ち悪がられるかもしれない。
けど、もう、沙楽にはこうするしかない。沙楽の目的のためには、"あの人"に会うしかない。そして"あの人"と会うには、この北上翔太を頼りにするしかない—————
「会わせてほしいの。北上くんのおばあちゃん————北上先生に」
【♪♪♪】
「あーっ!しょうくん!やっと帰ってきた!」
"キタガミ楽器店"と大きく書かれた木造建築の家から、ひとりの少女が飛び出してきた。沙楽は驚いて思わず立ち止まる。
「おそいよぉ!今日はバスケがない日だから、一緒に遊んでくれるって約束したでしょ!」
少女は沙楽の方には目もくれず、いまだランドセルを背負った翔太に勢い良く抱き着く。不満そうに、頬を膨らませている。ごめんごめん、翔太はそう言って笑いながら、少女の頭に手を置く。
「今日は緊急でお客さんが来た日なんだよ。ほら、ふーちゃんも挨拶して」
翔太はちらりと、後ろで棒立ちしている沙楽を振り返る。翔太の視線に合わせるように"ふーちゃん"の視線も動き、そこで初めて沙楽と目が合った。
鎖骨辺りまである髪の毛をハーフサイドテールにして、ボーダー柄のタンクトップを着た活発そうな女の子。沙楽と翔太に比べると少し頭身が低いため、小学一・二年生辺りといったところだろうか。
沙楽が"ふーちゃん"を見下ろすと、ニコリと微笑む。しかしふーちゃんの方は何も言わないまま、沙楽の姿を訝しげな目で見上げるだけ。
翔太が「ばあちゃんに言ってくる」と言って中に入ってしまったため、沙楽は謎の敵意らしきものを向けてくる女の子と二人きりになってしまった。
妙な空気に、なんだか心臓がドキドキする。なにか声をかけたほうがいいのだろうかと、沙楽が慌てて口を開いたとき、
「お姉ちゃん、しょうくんのこと好きなの?」
「……えっ?!」
思わず飛び上がりそうになった。息つく間もなく、ふーちゃんは沙楽に詰め寄り、
「絶対そうだ!しょうくんが好きだから家まで着いてきたんでしょ!」
「えっ?!違うよ!」
突然何を言い出すんだこの子は。沙楽は必死に否定するも、嘘だぁ!と"ふーちゃん"は聞き耳持たずだ。
「ふー、知ってるもん!しょうくんが三年生のお姉ちゃんたちにいっぱいラブレター貰ってること!でも残念、ふーが一番しょうくんと……」
「ふぇ……」
そのとき、沙楽の背後から、今度は別の女の子の声が近づいてくる。ふーちゃんの溌剌とした声と比べると低くて、弱々しそうな。
「あっ、のんちゃん!……って!」
沙楽が振り返るよりも先に、"ふーちゃん"が血相を変えてその子に駆け寄る。遅れてようやく振り返ると、沙楽は思わず目を見張る。
ふーちゃんと同じくらいの背丈の―——「のんちゃん」と呼ばれたその少女は、ボロボロだった。
二つ結びの髪形は崩れて、着ているブラウスも転んだのか土汚れが酷い。瞳からはポロポロと涙が溢れており、なんとも痛々しい風貌だ。ふーちゃんは顔を真っ赤にさせて地団駄を踏む。
「あいつら、またふーの友達をいじめて!もう許さないんだから!今日こそはボコボコにしてやる!」
「ダメだよ、ふーちゃんもやられちゃうよぉ……」
憤りのあまり今にも走り出しそうなふーちゃんの服の裾を、のんちゃんは泣きながら掴む。
「ごめんおまたせ……って、」
ガラガラ、と引き戸が開く音がして、再び翔太が楽器店から姿を現す。戻って来るやいなや、店の外で繰り広げられている謎の光景に目を丸くしていた。
「しょーくん!またあいつらが……」
「とりあえず入って。あ、ふーちゃんは公園行くなよ」
「なんで!」
「また喧嘩する気だろ」
翔太にたしなめられ、プクー!とふーちゃんは不満げに頬を膨らませる。
「冷蔵庫にアイスあるから食べて待ってて」
「やったぁ!ふー、チョコ味にする!」
翔太のたった一言で、途端にふーちゃんは目を輝かせ、楽しげにスキップをし始めた。その隣で"のんちゃん"が、物欲しそうな目で翔太を見上げる。
「のんちゃんのいちご味もあるよ。でものんちゃんはまず手当てからね」
翔太はそう言って、のんちゃんの頭をそっと撫でた。のんちゃんは涙を拭うと、嬉しそうに微笑む。あっ!のんちゃんだけズル〜い!とふーちゃんが拗ねる。
「松坂さんも」
ずっと後ろで固まっている沙楽の方を振り返り、翔太は手招きをした。沙楽はハッとして三人の後を追った。
【♪♪♪】
「ごめん。お騒がせして」
廊下を歩いている最中、翔太が隣を歩く沙楽に声を掛ける。
屋根の黒い瓦。建て付けの悪い引き戸。硬そうな畳に、丸いお煎餅入れ。まるでテレビで見る「おばあちゃん家」をそのまま取り出したような。
どれも沙楽には馴染みのないもので、目に入るものすべてに心が踊る。ワクワクする。
沙楽が床を踏みしめる度、ギシッ、ギシッと鳴る。小さなヒビが数多にある木の板は、抜けてしまわないか心配だった。
「ううん。あの子たち、妹?」
「いや、弟の友達だよ。確かに妹みたいなものだけど」
「弟、何歳なの?」
「一年生」
「へぇ、可愛いねぇ!」
沙楽は一人っ子だ。一人っ子はお父さんとお母さんを独り占めできていいね、なんて言われることも多いが、沙楽は兄弟というものに憧れていた。だって自分と歳が近い子と一緒に住めるなんて、楽しいに決まっている。
「いいなぁ、兄弟……」
「松坂さんは一人っ子なの?」
「うん。お父さんとお母さんと三人家族」
「そっか。いいね」
いいね、って?沙楽は何も考えず聞き返そうとして、翔太の顔を見る。しかし翔太は沙楽から目を逸らし、
「ばあちゃーん!」
翔太は叫ぶやいなや、一番奥の部屋の襖に手をかけた。はい、と中から返ってきて、翔太は沙楽に向かって手招きした。
沙楽が部屋の畳に一歩踏み出すと、翔太は扉を閉めて行ってしまった。完全に密閉された空間に、しんと静けさが落ちる。
目線を下に落とすと、ちゃぶ台を置いた左側に、一人の女性が座っていた。パーマのかかったウルフカットを耳にかけ、部屋に入ってきた沙楽をゆっくりと見上げる。
「いらっしゃい」
彼女はニコリと微笑む。沙楽は既に、その笑顔にはしっかり見覚えがあった。
一昨年から去年までの間、何度か沙楽の家を訪れていた人。沙楽には「お客さん」と言っていたけれど、母・星楽はこの人のことを「先生」と呼んでいた。
だから沙楽も、「お客さん」ではなく「先生」だと認識していた。母の「先生」、北上響子先生。
座って、と促され、用意されていた座布団の上に座る。目の前の響子の姿を改めて吟味する。
深緑色の襟無しブラウスに、金色のネックレスがキラキラと光っている。顔には皺が沢山刻まれているのに、何故だか老けている印象は全く感じない。
綺麗な人。自宅に来ていたときから薄々感じていたけれど、和室の趣のある雰囲気も相まって余計そう思う。
「久しぶりね。まさかここで会えるなんて驚きだわ。よくここまで来れたこと」
「あっ、翔太くんに案内してもらったので……」
急に恥ずかしくなり、沙楽は慌てて訂正する。母と一緒ならまだしも、娘がひとりで来るなんて、やっぱり変だと思われているだろうな。
「あぁ。そういえば同い年だったわよね。クラスも一緒なの?」
「いいえ。でも、翔太くんのことは知っていました」
「そうなのね。しょうくんも嬉しかったと思うわ」
響子にはそう言われたが、沙楽は思わず首をひねる。常に女子たちの黄色い歓声を集めている翔太が、ろくに関わりもない隣のクラスの女子に接触されたところで、さほど彼の中で影響は無いだろうに。
照れくさくなって沙楽は俯いて、ちゃぶ台の模様ばかりを見つめた。線が細かったり太かったり不規則に曲がったりして、なんだか変な模様。
「是非、しょうくんとお友達になってね。あと、きょーちゃんとも」
これまた聞き慣れない名前が出てきて、沙楽は思わず顔を上げる。その拍子に、響子の後ろに置かれている仏壇が目に入った。
金色のお供え皿に、もみじ饅頭が置かれてある。その両隣には写真がふたつ飾られていた。
ひとつは、色褪せている老いたおじいさんの写真。そしてもうひとつは、若くて綺麗な、金髪の女性の写真。おじいさんの写真と比べると色が鮮やかで、画質も良い。
その女性の面影には、どこか見覚えがあった。
「ところで、今日はどうして来たの?」
沙楽はハッとする。そうだった。沙楽はただここに遊びに来た訳ではない。
「あの、あたし……」
正座した太ももの上で、拳を強く握り締める。緊張する。子どもであるあたしの頼みごとを、この大人は受け入れてくれるだろうか。
沙楽は知っていた。大人って、子どものことをちゃんとした「人間」だと認識していない。どこか、下に見ている。
だから、大人はみんな約束を守ってくれないし、平気で嘘をつく。子供に対してなら許されると思っているから。
沙楽は大人のことが好きじゃない。でも、子どもはひとりでは生きていけないことも知っている。
大人がいないと生きていけないということも、知っている。
「先生にお願いがあって」
だから沙楽は、笑顔の仮面を被った大人たちに向かって、また笑うのだ。生きていくために。
「あたしに、クラリネットを教えて。おかあさんの音の出し方を教えてください」
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