#08 中くらいのクラリネット

【2014年8月11日】


「今日からよろしくお願いします!」


 沙楽は勢いよく頭を下げる。バサァ、と首の後ろの三つ編みが激しく飛び跳ねた。その高い声は、沙楽が人生で初めて入った「防音室」という部屋に響いた。


「防御する」「音を」だから、「防音室」。ついさっき知ったことだ。不思議なことに、この部屋で発生した音は、外には一切届かないらしい。壁は学校の音楽室のように、無数の小さな穴が空いている。


「こちらこそよろしくね」


 扉の前で深くお辞儀をしたままの沙楽に向かって、響子は椅子に座ったまま頭を下げる。


 沙楽はまだ幼い。一般的な九歳の子供は、世の中にはこびる「権力構造」だとか「上下関係」という社会関係を身を持って経験していない。


 けれど、沙楽は誰から強制されるでもなく、目の前の北上響子という人間に「敬意」というものを持って接していた。


 本能的な何かで、そうしないといけないような気がしたから。だってこの人は、あたしの頼みを聞き入れてくれた一番最初の大人であり、あたしに「クラリネット」を教えてくれる「先生」だから。


「本当はすぐにでも教えてあげたかったんだけど、部活の方が忙しくてね。待たせてごめんね」

「いや、そんなことないです!」


 沙楽はブンブンと激しく首を横に振る。近くの中学校の吹奏楽部の顧問をしている響子は、吹奏楽コンクール……?というとても大事な大会のために、夏休み中も毎日学校に行かなければならなかったらしい。


 その「とても大事な大会」がつい一週間ほど前にあり、それが終われば沙楽にクラリネットを教えられるという話だった。


 けれど翔太から「大会は終わったけど、もうちょっと待ってほしいってばあちゃんが」と電話が掛かってきたのだ。


 どうやら響子が勤める中学校の吹奏楽部で、らしい。翔太の切羽詰まった声に、これはただごとではないのではと沙楽は率直に心配した。


 それでようやく今日から練習を開始できることになったのだけど、結局この一週間の間で響子に、その吹奏楽部に何があったのか、沙楽は全く知らないのだ。


 実際、その「色々」に直面したはずの響子に、以前と何ら変わった様子はない。相変わらず穏やかに、たおやかに佇んでいる。


 まぁ、俗にいう「大人の事情」というやつなのだろう。それを察して、沙楽は何も聞かなかった。こういうことは、例え気になったとしても触れないのが最善だ。

 

「楽器は持ってきた?」

「はい」

「前も言ったけれど、私はクラリネット専門ではないから、基礎的な音の出し方くらいしか教えられない。それで問題はない?」

「問題ないです」


 沙楽は首を縦に振る。


「では、まずは楽器の組み立て方から教えます。とりあえず楽器はここに置いて、ケース開けてみて」

「はい」 


 響子の指さすままに、沙楽は膝の上に置いていたバック型の楽器ケースを、机の上にゆっくりと置く。


 ケースで覆われているとはいえ、雑に扱ってはいけない。ゆっくり置いて、丁寧に触る。この楽器を持たせてくれたとき、母・星楽から何度も言い聞かせられた言葉だ。


 沙楽が「お母さん、クラリネット使いたい」と言ったとき、星楽の瞳は一瞬だけ激しく揺れ動いたが、すぐに冷静になった。まるで、この瞬間を待っていたように。


 「外に持って行きたい」と言ったときは、流石に星楽も簡単には首を縦に振らなかった。しかし、「家の中で吹いたら、近所の人がお父さんに話すかも」と心配する素振りを見せると、渋々と言った様子で沙楽を自室に向かわせたのだ。


しか無かったんですけど……」

 

 沙楽がケースを開きながらそう言うと、中くらい?と響子が目を丸くさせる。

 

 母の自室のクローゼットは鍵付きだ。何度か特別に開けてもらったことがある。かつてその中には、小さかったり大きかったりした漆黒のケースと、知らない英語が記載された辞典のような本が、幼い沙楽が左右に顔を向け直さないと視界に入りきれないくらい仕舞われてあった。宝の山みたいだね!と沙楽は目を輝かせた。


「これの半分くらいの大きさで高い音が出るやつとか、これよりもっと大きくて先がぐねんって曲がってるやつとか、昔はあったけど、」


 沙楽はそこで口を慎む。母のクローゼットの中に眠っていた宝の山は、もう随分と前に父の手によってほとんど捨てられてしまった。


 辛うじて残ったのは、楽器の取り扱い説明書が数冊と、殴られ引きずり回されながら母が必死に守った、中くらいのクラリネットがふたつ。そのうちのひとつも、今は沙楽に手に渡っている。


 響子は少しの間、沙楽の言ったことに首をひねっていたが、あぁ、とクスリと笑う。


「そうね。クラリネットは沢山種類があって、小さいものから大きいものまで様々だものね。ちなみにね、この中くらいのは『B♭べークラリネット』という名前なの」

「『べー』…?」

  

 沙楽はガーゼの上に広げた、まだバラバラのままの胴体をじっと見つめる。「べー」って、「あっかんべー」の「べー」? そんなに意地悪なのだろうか、この楽器。


「『B♭』は、西洋音階の音名の一つで————まぁ、そんなのは後で覚えればいいわ。クラリネットは様々な種類があると言ったけれど、一般的によく吹かれているのは、さっちゃんが持ってきたこの『B♭クラリネット』だから、それ自体を『クラリネット』と呼ぶことが多いの。だからさっちゃんも、この『中くらいのクラリネット』が普通の『クラリネット』だと覚えれば良いからね」


 響子の優しい口調の教えに、沙楽は首を縦に振った。言っていることは難しくてよく分からないが、とにかくこの『普通のクラリネット』を吹けるようになれば良いということなのだろう。


「まずはマウスピースから」 


 響子はアイスの棒のような平たい木のひと欠片を手に取った。

 

「これは『リード』っていうの。クラリネットはこの『リード』を振動させることで音を出しているのよ。じゃあちょっと汚いのだけど、これを舐めて湿らせてくれる?」


 響子は沙楽にリードを渡す。母が楽器を吹く前にこの木の欠片を口に含んでいたのを、沙楽は何度も見ている。だから特に嫌だとか思わない。


 舌にそっとリードを軽く乗せて、しばらくそのままにしていると、じわりと唾液で木が湿ってくる。


 沙楽がリードを咥えている間に、響子は『リガチャー』という銀色のカバーのネジを調節している。


 いつもは母一人でささっと終えてしまう工程を、こんなふうに二人掛かりで協力してやるのは、なんだか変な感じがする。


 母がプロ奏者でその娘だから、クラリネットのことなら何でも知った気でいたけれど。この防音室で響子に手伝ってもらっている沙楽は、どこにでもいるただの楽器初心者だ。


「それじゃあ、ここの隙間に湿らせたリードを入れて。そしたら一旦、先生に楽器を貸してね」


 沙楽はリガチャーと楽器本体の隙間にリードを差し込むと、響子に手渡す。響子は説明書を横目で見ながら、慎重にネジを回す。リードを固定し、バラバラの胴体をすべて繋ぎ合わせる。


 いつも見る「クラリネット」の形が出来上がると、響子は沙楽に楽器を返した。


「じゃあ、さっそく構えてみましょうか。まず親指をここに掛けて———そう。この状態で先端だけ口に咥えて、下の歯でリードを少しだけ噛んでみて」


 言われるがまま口に咥えると、むっ、と沙楽は顔を顰める。思っていたよりも舌触りは悪く、ゴワゴワしていた。


 下の歯で噛むと、平たい木の欠片がパキッと割れてしまわないか心配になった。


「うん、それでいいわ。それがB♭ベークラリネットを吹くときの構え方ね」


 クラリネットを構えたまま、沙楽は視線を落とす。三年生になって習い始めたソプラノリコーダーと構え方は似ていが、この楽器はそれよりずっと大きくて重い。


 後面の指かけにかけた親指が痛く、キーを押さえている他の指は攣りそうだ。プルプルと震える手でなんとか体勢を保つ。


「本当は、初めはマウスピースだけで練習するのが好ましいのだけど……そうね、試しに一度吹いてみましょう。さぁ、そのままの状態で、思いっきり息を入れてみて」


 まるで鳥のさえずりのように、響子は優しく告げる。


 言われたとおり、沙楽は全身の力を使って息を吸い込んでみる。沙楽の小さな体の中に、周囲の空気すべてが入り込んだような気がする。


 吸い込んだ空気すべてをマウスピースにぶつけるよう息を吹き込んだ————次の瞬間。


 柔らかく澄んだ音が、その場に広がった。


 その音は生き物のように跳ね、静かな部屋の隅から隅まで舞い上がり、ふわんと反響する。


「……え」

  

 目の前の響子は呆然と椅子に座っている。楽器を咥えたまま、沙楽もまたビクとも動かない。


 マウスピースの舌触りの悪さも、親指の痛みも、指先の震えも。その瞬間すべてを忘れ、少女はその音に自分の心まで震えるのを感じた。


 ――——初めて、自分のクラリネットが歌ったのだ。


 お母さんの隣で、お母さんの歌うクラリネットをうっとりと聴いていた時とは、何もかもが違う。 


 この感動は、それとは比にすらならない。


 ————私の鳴らした音が、見渡すほどおっきなホールいっぱいに響いたとき、いつも思うの。


 あぁ、私、この瞬間のために生まれてきたんだなって————


 遥か昔から愛用してきたクラリネットを抱きしめ、母は沙楽にそう話した。


 あの恍惚とした瞳にはきっと、流星群のようにまばゆい光と、その光が優しく包み込む無数の客席が映っていた。


 おかあさんもずっと、こんな気持ちだったのかな――――


「……え、初めて吹いたのよ、ね……?」


 響子は目を見張ったままだ。先程までの淑やかな佇まいとは一転し、まるで世界がひっくり返ってしまったかのように、その心は大きく揺れ動く。


「一発目でここまでしっかりの音が出る子、見たことない。いくら母親の音色を聴いてきたとはいえ……」


 沙楽はそんな響子の動揺を気にも留めず、母親の愛用するクラリネットを握り締めたまま、ぼんやりと虚空を見つめていた。


 だから、響子が無意識に呟いた一言も、いっさい耳に入っていなかった。


 この子、才能あるかも。と。

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あの音が響く先で 〜Clarinet.Ver〜 秋葵猫丸 @nekomaru1115

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