#06 正義のヒーロー



 ――――僕たちが来たから、もう大丈夫だよ!



 不幸の濁音ノイズに怯えている町の住民を振り返って、彼は、いつもそう言って笑顔を見せる。背中で閃く、金の刺繡が入ったヒーローマント。リーダの証だ。


 正義のヒーローが登場したら、もう一安心だ。真っ黒でぐねり曲がった音符の怪獣に立ち向かうのは、八色の八分音符。泣いて震えていた町のみんなは、たちまち笑顔になる。


 そんな彼らの勇姿に、沙楽はいつも画面越しに釘付けになる。そして、その度思う。


 あぁ、どうしてドッくんたちは、あたしの家には来てくれないんだろうって――――




「なぁ、なにこれ?」


 たったそれだけの一言なのに、その場の一瞬にして凍りついた。


「ここ、カーペットの隙間に落ちてたんだけど」


「ここ」という言葉と共に、父はリビングのカーペットをドシドシと踏む。口の中に入れたばかりだった焼き立てハンバーグを、沙楽は反射的にごくりと飲み込む。

  

 咄嗟に台所の方を振り返ると、この世の終わりかと思うくらい真っ青な顔をしている母の姿があった。皿を拭き上げていた手が、驚くくらい震えている。


「あ……いや…」


 父の手に握られている、長方形の小さな透明。それはクラリネットのリードカバーだった。


 目で追えないほどの速さで母は父の元へ駆け寄る。しかし何も言えないのか、母は父を前にして立ち尽くす。


 まずい。そう危惧しているはずなのに、沙楽はそんな二人の動きにどこか『慣れ』を感じていた。ほんの数秒の沈黙の後、父が母に詰め寄る。

 

「どういうことか説明しろ」

「ち、違うのこれは……」

「何が違う?前から言っているよな、楽器を吹くのは禁止だと。なのになぜこれが落ちてるんだ?」


 父の低い声は落ち着いていて、それなのにひどく威圧感があった。直接言われていない沙楽でさえ、恐怖心で体が硬直する。


 目だけ動かして母親を見ると、彼女は完全に言葉を失い、肉のほとんどない身体は震え上がっていた。


 沙楽の父親は、一昔前の『頑固親父』とは全く違う風貌の男性だ。酒を飲みちらかし、下着一枚で部屋の中を闊歩したり、むやみやたらに怒鳴り散らかしたり。そんなことは一切しない。


 細身で高身長、鼻筋も高く顔立ちも整っている。紺色のスーツにネクタイを締めたその姿は見るものに清潔感を与え、彼が一つ微笑むと、通りすがった女性たちは思わず振り返り見惚れるほど。


 他の家のお父さんと見比べても、あたしのお父さんはかっこいい。それはまだ九歳の沙楽にも分かることだった。まるで、『理想の父親』。


 そう、沙楽と母親以外の前では。


 だって、父は――――


「頭で分からないなら、体で分からせるしかないな」


 感情のない声で父が吐き捨てた瞬間、キャッ、と小さな悲鳴。


 父が母を殴ったのだ。バシン、という乱暴な音がリビングに響き渡った。あっ、と沙楽は咄嗟に手を伸ばす。まただ、また始まってしまう。またお母さんが……


 殴られた勢いのままカーペットの上に倒れ込んだ母を、父は容赦なく踏みつける。


「なぁ、これが旦那に対しての仕打ちなのか?口ばっかりの上司に頭下げて、役立たずの部下の尻ぬぐいをさせられて、毎日疲れて帰ってくる旦那に対しての?えぇ?」


 そう怒鳴りながら、父は母の身体を何度も足蹴りにする。


「お前、俺を馬鹿にしてんのか。おい、言ってみろよ。この飯は誰の金で作れている?お前らが生活できてるのは誰のおかげなんだって、言ってみろよ!」


 そう声を荒げたのと同時に、父がダイニングテーブルを力任せに蹴飛ばした。夕食が並べられたテーブルが大きく傾いたその瞬間、ガッシャアアアンと物凄い音が家中に響き渡った。


「お父さん……」


 お父さん、違うの。沙楽はそう言って立ち上がる。父が沙楽の方を振り返ると同時に、ようやく母から手を離した。


「おとうさん、おかあさんは……」

「沙楽、これは『躾』だ。お前の母親は、この家の決まりを守らなかったから、罰を受けている。これは当然のことなんだ。分かるだろう?」


 先ほどまでとは打って変わって、父は冷静な口ぶりだった。その声音だけ聞けば、まるで聞き分けの悪い幼子を諭すような光景にも見える。


「ち、ちが…」

「そこをどけろ、沙楽。さもなくばお前も…」

「ち、違うの。あのね、おかあさんがクラリネット吹いてたのはあたしのせいなの」

 

 父と母の間に立ちはだかって、震える声で言った。声だけではなく、体も震える。目の前の父が怖い。何されるか分からなくて、怖い。


 この家には、父の決めた『ルール』がいくつも存在する。父が帰ってくるまでに夕食や風呂を必ず用意しておく。総菜や冷凍は禁止で、すべて手作りにしておく。買い物に行ったらレシートを父に必ず見せる。父の許可無しで外出してはいけない。そして、家の中で楽器を吹いてはいけない。


 そのルールが少しでも破られると父は、『罰』だと言って暴力を振るうのだ。家族に容赦のない制裁を加えるその様は、沙楽からすれば怪物そのものだった。


「あたしがテストでいい点とったから、お母さんに吹いてって頼んだんだよ。おかあさん悪くないの。だから…」

「沙楽!」


 怒鳴られるように名前を呼ばれて、沙楽はビクッと肩をすくめる。振り返ると、父から暴力を受けうずくまっていたはずの母が、沙楽の腕にしがみついていた。


 母が沙楽を呼び捨てにするときは決まって、怒っているときだ。母に引っ張られるまま床に座り込むと、母は表情を崩さないまま、


「沙楽は部屋に行ってなさい」 


 でも、と沙楽は戸惑う。目の前の母の顔は、悲惨という言葉そのものだった。最初に殴られた頬は真っ赤に腫れあがり、口からは血が流れている。痛いからなのか、沙楽に傷を見せないためか、母は頬を手で押さえていた。


 視線をそのまま下げると、服の隙間から痣があちこち覗いている。赤黒いものもあれば、時間が経って茶色になっていたり。


 きっと、たった今出来た傷だけではない。こんなことは、しょっちゅうあるのだから。


「ねぇ、さっちゃんは良い子だから、おかあさんの言うことちゃんと聞けるよね?おかあさんのことを困らせるような、悪い子じゃないよね?」


 ぐっ、と沙楽は唇を嚙み締めた。沙楽が自分の意志に反した行動をとったとき、母は他の家の母親みたいに感情的になって怒ったりしない。その代わり、いつもこの言葉を言い聞かせる。そうすれば、沙楽が逆らえなくなると分かっているからだ。


 分かった。沙楽は、諦めてそう頷いた。ごめんね。でもおかあさんは大丈夫だから。そう言って、母は俯いた沙楽の頭を優しく撫でた。



【♪♪♪】


「ド――レ―ミ―ファソラシド~…八色の音符奏でたら~…」


 電気のついていない真っ暗な部屋。沙楽は自室の扉にもたれかかるように一人、座り込んでいた。


 ぐぅぅぅ、とお腹が鳴る。食べ始めたばかりだった夕飯は父に全部ひっくり返されてしまったので、沙楽は全くお腹いっぱいになれなかった。


 床に落ちてぐしゃぐしゃになった星形のハンバーグに思いを馳せる。けど、平気だ。空腹には慣れている。この家で、満足に食事ができる方が珍しいから。


 沙楽は「ファッちゃん」のぬいぐるみを、体操座りをした膝の上に座らせる。目の前で沙楽をじっと見る、黄色の毛皮を被った綿の塊。


 ずっと昔、まだ母が現役で演奏していた頃。沙楽はあまり覚えていないが、母のコンサートに連れて行ってもらったことがあったそう。


 その帰り道、楽器の不調で向かった楽器店の入口付近に並べられてあった、「おんぷちゃん」シリーズのぬいぐるみ。まだ物心つく前の沙楽が一目で気に入った。


 だが、結局そのぬいぐるみは買ってもらえなかった。きっとお金が無かったのだろうと、今の沙楽なら理解できる。しかしその頃の沙楽にそんな事情が理解できるはずもなく、ただ駄々をこねるばかりだったらしい。


 しかしそれから一週間後、母に「ファッちゃん」の手作りぬいぐるみをプレゼントされた。そのぬいぐるみは、あの楽器店のものとそっくりだった。


『おんぷちゃん』の八人の戦士の中で、沙楽は『ファ』の音の『ファッちゃん』が一番好きだ。


 自由奔放で気分屋の『ファッちゃん』は、他の仲間と一緒にいるときでもすぐにどこかへ行ってしまうのだ。


 そして大体ドッくんたちが「あれぇ?またファッちゃんがいない!」とみんなで探し出す。するとファッちゃんは、その背中の羽をはためかせ、自由に空を散歩している。


 アニメの中でもだいだい三話に一回は出てくる、定番の流れだ。だいたいその後、戻ってきたファッちゃんはみんなに怒られるのだが、いつしか沙楽はそんな彼女に心惹かれるようになった。


 あたしも、あんな風に空を飛びたい。我慢なんて覚えず、やりたいことをやりたいときにやって、自由に生きたい。


 ファッちゃんは、沙楽の憧れだ。彼女を見るといつも、羨ましいと思うのだ。


「音楽の魔法のパワーで~…みんなが笑ってる~…」 


 扉の向こうからは、まだ父の怒鳴り声と、母の悲鳴が聞こえてくる。囁くように歌いながら、沙楽はファッちゃんを抱き寄せる。


『とびだせ!おんぷちゃん』のオープニングソング『ドレミファソラシド』。父が母を殴るとき、沙楽はいつもこの曲を歌う。


 ドッくんたちが、来てくれるかもしれないから。アニメの世界みたいに、颯爽と沙楽の家に現れて、暴れる父をやっつける。そして自分と母に向かって、「もう大丈夫だよ」と笑う――――


 そんな瞬間を、沙楽は何度だって夢見てきた。


 おんぷちゃんたちが、おとうさんから、あたしとおかあさんを守ってくれますように。この家から逃がしてくれて、おかあさんがちゃんと笑顔になれますように。


 そう願ってきた。何十回、何百回だって、ずっと。


「ぼくらはいつだって、君を、助けに行くよ―――」


 真っ暗な部屋の中、少女の歌声だけがひそかに響いていた。

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