駅からバスに乗り、終点で降りる。そこからさらに少し歩いて、山の中に入った。道なき道をひたすらに登っていく。鷺若丸（さぎわかまる）は息を荒げながら、前を行く天涅（あまね）に聞いた。

「もしかして、ここは学校から近い場所か？」

「そこそこ距離はあるけど、近所と言えなくもない」

　背後の急こう配を振り返ると、木々の隙間から見える町が、他の山に遮られて見えなくなっていた。随分と奥の方まで登ってきたようだ。鷺若丸は息切れでバテバテだった。

　いよいよ倒れそうになった時、ようやく天涅が足を止めた。見れば鬱蒼と生い茂る木々の中に、石が四角く並んでいる。建物の基礎だ。付近に、小さな石碑があった。文字がかすれるほど古くからある物だ。鷺若丸には見覚えがあった。脳裏に、千年前の光景が蘇る。

「まさかこの場所は……」

　彼が数年を過ごした、行儀見習い先の寺。その成れ果てだった。天涅が視線を巡らせる。

「ここは、この一帯でもっとも強い龍脈が通る山。精怪（せいかい）たちが棲む世界――狭界（きょうかい）と接触できる可能性が、最も高い場所」

　鷺若丸はあの日のことを思い返す。霧深い森に迷い込み、囲碁を打つ童子たちと出会った。天涅はあの場所のことを、「この世界と重なる別の時空」と称した。たとえるなら、それは碁盤の線と線の隙間にある空間のようなものだ。石を置くことはできないが、確かに盤上に存在する、ルール外の領域というわけだ。

「おまえをここに連れてきたのは、千年前に戻る方法について、話をするため」

「……！　戻り方を知っているのか？」

　しかし彼女は首を振って否定した。

「そんな方法は誰も知らない。わたしだってそう」

「……。……陰陽師の不思議な力でも、できぬのか？」

「確かに陰陽術を筆頭に、物理法則を超越する呪（まじな）いの技術は数多（あまた）存在する。これは人の意識を世界に干渉させることで、事象を書き換えてるの。つまり、意識で現実を捻じ曲げてる」

「意識で現実を？」

「突拍子なく聞こえる？　でも神や妖といった存在だって、人の意識の産物。多くの人がいると信じれば、そこに怪異は産まれるし、いないと信じれば、怪異は力を失っていく。この世界は、意識で色付くの」

「そう聞くと、なんでもできそうな気がするが……」

　しかしもちろん、そんなことはない。

「それでも決して干渉できない絶対の領域が、この世界には存在する。どれだけ強力な術を使っても、どれだけ大勢の意識を操っても変更できない、大小併せて七項のルール――通称『不能七題』。例えば、『光よりも速く動くこと』。『無限のエネルギーを得ること』。あるいは……『時を遡ること』」

「……」

「幾多の研究者たちが、自分のみならず子供や孫、更にその先に連なる子孫たちの人生を費やして、それでも尚、変えることのできなかったルールが、おまえの前に立ちはだかってる。まずはそれを理解して」

　鷺若丸には話の半分も分からない。だが、「時間遡行が難しい」ということだけは十分に伝わってきた。

「……つまり、囲碁に待ったがないように、人生をやり直すこともできぬ、と？」

「ええ、そうかもね。でも、気を落とさないで。現時点で不可能とされているものが、明日以降も不可能なままとは限らない。実際、人類は歴史の中で、いくつもの不可能を可能に変えてきた。時間遡行の件だって、解決策のアイデアがないこともない」

「……！」

　期待する鷺若丸の前で、天涅は指を一本立てた。

「もう一度、会いに行けばいい。その童子たちに」

「狭界……？　に行くのか？」

「そう。こことは違う原理で時間と空間が存在するあの場所になら、方法があるかもしれない。それを探し出せば、あるいは……」

　これは光明だ。しかし天涅は、厳しい現実も一緒に指摘した。

「ただし、もし向こうに行けたとして、本当に千年前に戻れるとは限らない。時を遡ろうとして、逆に途方もない未来へ放り出されるかもしれない。それどころか、時間の狭間に迷い込んで、どこにも辿り着けなくなるかも……」

　狭界は人の知が及ばない、未開の領域だ。土御門（つちみかど）の陰陽師にさえ、明言できることはないということか。

　厳しい話は続く。

「それにそもそも、行き方が分からない」

「分からぬのか……」

「二つの領域が繋がるのをただ待つしかない」

「なら、いつ？　いつ繋がる？」

　天涅は再び間を挟んだ。

「……分からない」

「分からぬのかぁ……」

「二つの領域が繋がるタイミングは、数分後かもしれないし、あるいは数百年後かもしれない」

　数百年も待っていたら、寿命で死んでしまう！　なんとか方法がないものか、頭をひねった鷺若丸は、ふとあることを思い出した。

「〈囲碁の極（きわみ）〉……」

　鷺若丸が口走った脈絡のない言葉に、天涅が首を傾げる。鷺若丸は慌てて説明した。

「山を下りようとした時、童子たちから告げられたのだ。『〈囲碁の極〉に辿り着いたら、また遊びにおいで』、と！」

　天涅は顎をさすりながら、考え込む。

「条件を満たせば、向こうから招待される？　それなら見込みはあるのかも……？」

「まことか！」

「だけど、〈囲碁の極〉とやらに辿り着くには、どうしたらいいの？　というか、そもそも、なに、〈囲碁の極〉って？」

　今度は鷺若丸が首を傾げる番だった。

「囲碁の道の果てにある、誰も辿り着いたことのない境地、らしいが……」

「……おまえも、よくは知らないのね」

「しかし、前進は前進なり！　よし、よし！」

　鷺若丸は、素直にはしゃいだ。その様子を、天涅は静かに見守る。