『五年前』
校内を駆けた
「あら、やっぱり来てくれたピョン」
「様子を見に来た。ステラ殿も心配している」
「そう? 計画通りだピョン」
ペナルティの語尾でおどける姿は、すっかりいつも通りに見える。勝っても負けても、ただでは転ばない女の姿だ。鷺若丸は首を傾げた。
「よもや、さっきの話は嘘だったのか?」
「……いや、あれは本当」
雪花は近くの壁にもたれて、いたずらっぽく笑みを浮かべる。そして語り始めた。
「あたしのお母さんさ、元は
「……」
「メッチャ短気で、怒るとすぐその辺の物とか凍らせちゃうんだけど、でもいいお母さんだったよ。あたしは好きだった。正体を誤魔化すために、あちこち転々とする暮らしも、苦じゃなかった。お母さんと、お父さんがいて、あたしがいる。それで十分、幸せだった。……でも、たまたまこの近くに立ち寄った時、
「大好きなお母さんが目の前で溶けていくのに、あたし動くこともできなくてさ。その後、陰陽師の攻撃があたしに向いて、ああ、もう駄目だなって思った時、お母さんの持たせてくれた御守りから飛び出してきたのが漆羽様だった。漆羽様はあたしの代わりに、陰陽師を八つ裂きにしてくれた。おかげであたしは、生き延びたってわけ」
鷺若丸は言葉を失った。かける言葉が見つからない。それでも彼女の話は、まだ終わりではなかった。
「……お母さんがいなくなって、引っ越しを繰り返す必要はなくなった。生活も楽になった。けど、お父さんはすっかり気力を失くしちゃった。それどころか、あたしにお母さんの面影を重ねて、距離をとる始末。酷いもんでしょ? 結局、あたしの家族はあの時、とっくに終わっちゃってたのよ。あたしは晴れて独りぼっち……」
「雪花殿……」
鷺若丸は一歩、進み出ようとした。それを遮るように、雪花は突然、声を大きくする。
「なーんて話をして! 悲劇の女の子を演じて、あんたらをあたしの虜にしちゃおうかなって算段だったんだピョン!」
両手を兎の耳にして、彼女はおどけた。
「でも予定変更。よく考えたらあたし、他人にちやほやされるのは好きだけど、哀れまれるのは大嫌いだったピョン」
つま先でこすった床を見下ろしながら、彼女は自嘲気味にため息をもらした。
「なんていうか、勝負に負けてちょっとカッとなった。でも冷静に考えたら、昨日今日ルールを覚えたばっかのあたしが、勝てるわけないし。ちょっと調子に乗ってた。……ピョン」
慌てて付け加えた語尾は、彼女がペナルティのことを忘れるほど真剣に、自分の内面を見つめていることの証左だった。彼女はなにかを誤魔化すように肩をすくめる。
「まああたしは所詮、人数合わせだし。大会での活躍なんて、もともと求められて――」
「8の九!」
「……!?」
鷺若丸は声を張り上げた。そして、雪花の網膜に焼き付いた九路盤を指し示す。
「自らの石をわざと敵に喰わせて、肥えさせる」
即ち、自滅の一手だ。しかしその石は獅子身中の虫となる。生還することはかなわないが、敵のフットワークを鈍らせる。
「そこを外から〈押シツブシ〉て、とどめを刺す。どうだ。正解していたか?」
「……ッ!」
雪花が下唇を噛んだ。その反応ではっきりと分かる。彼女はその答えに辿り着いていた。しかし、捨て身の初手に自信が持てず、躊躇してしまったのだ。直前までできていたことが、勝負の場でできなかった。負けられないというプレッシャーに負けたのだ。だから天涅に先を越された。
「ステラ殿は今のそなたが辿り着ける、ぎりぎりの問いを用意した」
それは雪花をよく見ていなければ、できないことだ。
「彼女はそなたのことを、ただの人数合わせなどと思っていない」
「……ふん」
噛み殺された雪花の吐息は、しょっぱい響きを帯びている。目元を引き締めるように、顔が歪む。凍える気温でもないのに、拳が震えている。
彼女の仕草の正体を、鷺若丸はよく知っていた。彼自身、千年前に何度も、何度も、何度もやった。そして同じ数だけ、何度も、何度も、何度もさせた。
そう、彼女は悔しがっているのだ。負けても仕方がないなんて、思っていない。もしかしたら勝てていたかもしれないと信じている。だからこそ、敗北を呑み込めないのだ。
純粋に勝利を渇望し続けた敗北者だけが見せるその姿は、青くて、みじめで、見苦しい。しかし強くなるためには、必ず経験しなくてはならないものだ。
「その口惜しさが、そなたを大いなる高みへ連れていく」
「……強くなってどうすんのよ」
「勝ちたいのだろう? 土御門の陰陽師に」
「……!」
雪花の目に溜まっていた涙が、とうとう決壊した。ダムの放水もかくやという勢いで、ジャバジャバ噴き出してくる。
「うああ~。あのクソ陰陽師、マジムカつく。ぶっ殺すぅ!」
「あ~、ならぬならぬ。物騒はならぬ」
「……じゃあ囲碁でぶっ殺す」
「よーし! よいぞ! その調子だ! 根絶やし根絶やし!」
使命があるわけではない。金品が懸かっているわけでもない。それでも雪花の心には、とても単純で原始的な欲求――「勝ちたい」という気持ちがあふれているはずだ。そして、それこそが一番重要なものだと、鷺若丸は信じていた。
しがみついてくる雪花に肩を貸しながら、鷺若丸は遥かな過去に思いを馳せる。
「千年前、我にも勝ちたい相手がいた」
あの少年と出会ったのは、寺に預けられた夏のことだった。その日の内に寺から逃げ出した鷺若丸は下山中、追剥の少年に襲われた。くんずほぐれつの激闘になり、山を転げまわった。
相手が飢えていたことが幸いし、その取っ組み合いは痛み分けに終わった。しかしその後、ひょんな会話から二人は、お互いが囲碁の愛好者であることを知った。秘密のねぐらに碁盤も碁石も揃っていると言われては、囲碁をやらない選択肢はない。そして彼との闘いの日々が始まった。
「奴とは、勝って負けてを繰り返した。実に五百勝、四百九十九敗。終生の宿敵と思った」
「ズビ。五百に四百九十九って……千局も? なんでそんな……」
「決まっている。お互いに、勝ちたいと――相手の上に行きたいと、求め続けた」
そうやって二人で競い合い、腕を磨いたのだ。
「己の宿敵を瞳に収め続けよ。さすれば、いずれそなたは強くなる。あるいは我を超え、〈囲碁の極〉に至ることもあるかもしれぬ。すべての碁打ちには、無限の可能性があるのだから」
「あたしの宿敵……」
それはもちろん決まりきっている。あのいけ好かない陰陽師だ。
「そなたが彼女を厭う理由のあることは分かった。我が口を出すべきにあらず。されど、我は土御門の天涅殿を、部に引き入れる。それはそなたにとって、倒すべき敵を間近に確かめ、いずれ戦うための絶好の場となるはずだ」
「……ふん」
「で、ものは相談なのだが……」
鷺若丸はここで声の調子を変えた。懐から取り出したのは、先ほど渡された天涅の便箋だ。
「さっき天涅殿にこんなものをもらったのだ。代わりに読んでくれぬか?」
鷺若丸は、まだ現代の文字を読み書きできない。誰かに文面を読んでもらわないと、内容が分からないのだ。雪花は渋々、便箋を開ける。
「えーっと、なになに。『平安の君へ。明朝九時に
よほど衝撃を受けたのか、彼女の涙はいつの間にか引っ込んでいた。
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