ドキュメント 委員長
のべたん。
第1話 金魚釣り堀
ここは、東京都荒川区にある、とある釣り堀。
都会の喧騒のなか、住宅街のなかにぽつんと現れる、深緑色の水を湛えた釣り堀は、静かなオアシスのようにも見える。
その日は定期テストの最終日。学校は午前中で終わり、制服姿の学生の姿が、ゲームセンターや公園にちらほらと見られる平日の昼下がり。
そんな学校帰りの生徒たちを尻目に、委員長は、ひとり奥まった細い路地を通り、この釣り堀の門柱の前で立ち止まった。
前々から、気になっていた場所であった。
けれども休日は、沢山のひとで賑わうために、足を運ぶのを躊躇っていたのであった。
なぜなら委員長は、人ごみが苦手だからである。ひとが苦手だとか嫌いだとか、それとは違い、ひとの大勢いる場にいると、なんだか自分という個人がどろどろに溶けてなくなって、ひとつの不定形の塊になってしまうような、そんな気持ちになる。
委員長は鳥が大群で空を黒く染めるのを好まない。それより彼女が好感を覚えるのは、群れから離れた個体であって、それは彼女自身のことも指す。つまりは自分と同じような人や場所を探し求めているのだ。
委員長は同年代の女子たちが行くような、カラオケやデパート、ファミレスなどには、まるで興味が沸かなかった。
委員長の興味のあるところは、たとえば寂れた商店街や時代遅れの遊園地など、皆がまっすぐ前を向いて進む集団のなかから外れてしまった個の場所。そういった場所に、彼女は無性に惹かれるのだ。
委員長は空を見る。
生憎、灰色の雲が青を隠し、湿っぽい空気が肌に纏わりついている。
生け垣のむこうに、深緑色の水を湛えた釣り堀が見える。委員長はローファーのつま先をたて、なかを覗いてみる。釣り堀にはひとりふたり、釣糸を垂らしているのが見えた。
パナマ帽を被った老人が竿をあげると、しなった竿の先に、鮮やかな朱色のちいさな魚が、静かな宙を泳いだ。
そう、ここは全国でも珍しい『金魚専門の釣り堀』。
【金魚】
それは、古くから人びとのあいだで広く愛されてきた魚のひとつ。
元をたどれば、中国のヂイというフナの一種が、ある日突然変異で赤くなったことが始まりなんだって。
日本には、室町時代の中頃に、明(現在の中国)から泉州(現在の大阪)に伝わったとされています。当時、金魚はとても珍しく、飼うことが出来たのは貴族や大名など、限られた一部の富裕層だけでした。
それが江戸時代後期になると、養殖技術の向上に伴い、庶民の間に空前の金魚ブームが広がりました。人びとは金魚玉と呼ばれる、ガラス製の入れ物や、タライなどに金魚を入れて、その優雅な姿を楽しみました。
明治時代以降になると、出目金など、おなじみの品種が中国から多く入ってくるようになり、新しい品種の作出も盛んに行われるようになりました。
現在でも、たくさんの品種が作り出され、いまでは、百種類を超えると言われています。
この釣り堀のなかには、和金やランチュウやなど、十五種類以上の金魚たちが飼育されています。
よし、と心のなかでちいさく決意をして、委員長は入り口を抜ける。
入ってすぐに、受付けの掘っ建て小屋があり、中には気のよさそうな四十代くらいの、水色のポロシャツを着た男性が、椅子に腰掛け、新聞を読んでいた。
彼は委員長に気がつくと、腰をあげて微笑み、いらっしゃいと声をかけた。
はじめてであることを委員長が告げると、男性は小屋の隅から竿を持って出てきた。竿は竹製で、一メートルくらい。竿先に結ばれた釣糸には、既に仕掛けが施されている。釣糸は竿とほぼ同じ長さで、糸の真ん中には先が橙色に塗られた棒ウキ、端にはちいさな釣り針が光っていた。よく見ると、釣り針からすこし離れた位置に、オモリのガン玉がつぶれている。
「これが餌ね」
そういって、次に男性が取り出してきたのは、年季のはいった木の升で、なかには薄黄色した団子状のものが入っていた。
「これをすこしちぎって」言いながら男性は団子の端を親指と人差し指で、つねるようにして取り、指先で捏ね捏ねし、米粒くらいの塊にして、釣り針を隠すように指で押してくっつけた。
「あとは釣り堀に入れて、釣れるのを待つだけ」
説明を終えた男性は、釣竿とエサの入った升、取っ手付きのポリバケツを委員長に手渡した。
「楽しんでね」
手渡された道具を持って、委員長は釣り堀に向かう。
穏やかな風が吹く。
塀の向こうにそびえ立つ、背の高いマンションやビルの群れが、こちらに向かって覆い被さってくるような威圧感を感じる。
いつかはこの場所も、コンクリートの建物が聳え立つようになって、跡形もなく消えてしまうのだろうか。
委員長は寂寥感を感じる。
長方形の釣り堀の縁に沿って、ビール瓶のケースを裏返しにしたものが並んである。これが椅子の代用らしい。委員長はとりあえずアサヒビールのケースの裏に腰を下ろした。
深緑色の濁った水面に、赤い魚影が揺れるのがいくつも見えた。群れでいるのもいれば、一匹だけゆらゆらしているのもいる。
ぱくぱくと空気を吸うちいさな口を見ていると、それはまるで餌を欲しがっているようにも見え、自分が思っているよりずっと、金魚を釣ることは簡単なのかもしれないと、委員長は思いはじめていた。
彼女は釣り竿を握り、針を引き寄せ、升に入った団子をつねって捏ね捏ねし、昔作っていたねりけしみたいだなぁ、とか思いながら、釣り針にくっつけ、こんなものかしら、首をすこし傾げ、まあいいやとりあえず、エサを手離すと、ぷらぷら、橙色の棒ウキが揺れ、腕をゆっくり下ろすと、水のなかへ仕掛けが沈んでいった。
指先で軽くついたような、ちいさな波紋が水面にひろがる。
水中でオモリが沈み、斜めのウキがぴんと立つ。ウキの先端に塗られたオレンジが、深緑色の穏やかな水面にはっきりと映えた。
静かだな。
委員長は思った。
近くにある駅から聞こえる電車の走行音や、車のクラクションの音が、柔らかな薄い膜に包まれて、耳に入ってくるような、音がないよりむしろそういった都会の喧騒が、遠くから別の世界を眺めているみたいに、委員長の気持ちを落ち着けた。
釣り堀を囲う背の低い柵に沿って植えられた萩の木が揺れる。
水面に風のあとが立って消える。
委員長はウキを注視していた。じーっと見ていた。
ウキが微かにぴくりと振れた。委員長の瞳に光がさす。いきおい竿を上げそうになった手を止めて、思案する。
気のせいではないだろうか。
そんな気がしただけ、じゃないだろうか。
竿をあげてみようか、どうしようか、悩んだ末に委員長は、おそるおそる竿をあげてみる。
金色の釣り針が、ふらふらと揺れていた。
委員長は唇をすこし尖らせる。
再びエサをつけて仕掛けを水中に投入。今度はすぐにウキが動く。
パッと竿をあげる。エサはない。
委員長の目尻がぴくりと上がる。
再度エサを付け直し、ウキが動くのをじっと待つ。
どうやらウキは、完全に沈むわけではないようだ。と委員長は考える。それなら僅かな動きも見逃さずに、竿をあげればいいのでは。けれどもさっきは、ウキが動いてすぐ竿をあげたのに、エサだけ取られてしまった。
うーん。委員長は思案顔でウキを見つめる。
委員長はスマホを持たない。
こんなときは、確かに色んな情報が調べられる、とても便利なものかもしれないけれど、だれかと常に繋がっている、という感覚が、委員長の好むところではなかった。
便利すぎるのも考えものじゃないかしら、スマホを持っていないことを、クラスの同級生に驚かれた委員長は、決まってそう返答していた。
でもこのままじゃ一匹も釣れる気がしないから、あらかじめ家のパソコンで、金魚釣りのコツなんかを調べておくべきだったかも、などと考えていると、今度は急にウキがちゃぽんと深く沈み込むものだから、びっくりして、あわてて竿を上げてみる。やっぱりエサはなくなっていた。
エサを捏ね捏ね、竿を降ろしてアタリを待っていると、水の跳ねる音がした。
視線をあげると、堀を挟んだ対面に、先ほど金魚を釣り上げていたパナマ帽の老人が、にぎりこぶしくらいもありそうな、大きな金魚を釣りあげていた。金魚は、空中を昇るようにして尾を激しく揺らし、ぱちゃぱちゃ、水滴を散らし、緑色の水面に、無数の波紋が広がった。
自然と老人と目が合った。
彼は親しげに微笑むと、委員長に向かって手招きをした。
委員長が堀の角を二回曲り、対面にいた老人の傍に近寄って、彼の腰かけているビールケースの横に置かれたトタンバケツを覗いてみると、色とりどりの金魚がからだを互いに擦り合わせている。なめらかな飴を流し込んだように、水が揺れていた。
パナマ帽の老人はビーチサンダルを履き、足元にはワンカップ大関が置かれていた。見るからに常連さんである。
「あなた、ここはじめて?」
老人は見た目通りの穏やかな口調で、視線を水面に浮くウキから、傍に寄った委員長に移した。
「ここにはね。いろんな種類の金魚がいるよ」そう言って老人は、竿をあげてワンカップの傍に置くと、体の向きを変え、バケツのなかに骨張った手を滑らせて、白地に赤や黒のぶちのある、下腹の膨れた金魚のからだに手を差し入れ、水から出さずに水面すれすれに引き上げた。金魚は立派な尾を垂らし、とくに抵抗もせず、からだの半分を日の光に晒している。
「これ、チャリコ」
「これがオランダ獅子頭」チャリコを離し、次に手を差し込んでからだを引き上げたのは、頭に瘤がいくつも集まった、といえば醜いと感じていまいそうになるが、そこが逆に言い様もない品を感じさせる、オレンジ色をした流線型の美しい金魚を手に乗せながら、
「釣ってみたいだろ?」
老人は、挑発するような、一緒に面白いゲームに参加しようよと、子供に言い聞かせる口調で、その声は、委員長の耳に心地よく、どこか懐かしい気分にさせた。
彼女は一度釣竿と餌、バケツを取りに戻り、老人の隣の、サッポロビールのビールケースに腰を降ろした。
針にエサをつけ、水面におとす。ウキが立つ。老人は委員長のウキを横目で見ながら、自分の竿からも、釣糸を垂らしている。
どんよりとした曇り空のなかから、一筋の光が差し込み、スポットライトのように、深緑色の水面の一部ををあかるく照らし出した。
微かにウキが揺れた。
「いま!」
突然、老人が言った。
委員長はびくっ、と驚きながらも勢いよく竿をあげた。
釣り針がぷらぷらと揺れていた。
「口がちいさいから、針にかりにくい。さっきみたいに急いであげるとね、針が外れてしまうんだ。急いでゆっくりあげるのがコツだよ」
急いでゆっくり、矛盾したふたつの言葉に、委員長の頭は混乱する。
「大丈夫。何度でもやればいいんだから」
優しく諭すように、老人は言った。
そして、ウキの沈んだ自分の竿を、手慣れた動きですっ、と上げ、また一匹、丸々した立派な金魚を釣り上げるのだった。
並んで腰を降ろし、釣糸を垂らす。
二言三言、言葉を交わす。
聞けばこの老人、去年まで近所にある小学校の校長先生をしていたそう。委員長の通っていた小学校ではなかったが、定年になる前から、約三十年、週末にはここへ来て、金魚釣りを楽しんでいるとのこと。でもまだまだ古株がいて、その人は五十年以上、ここへ通っているんだって。
「最初はね、ぼくも釣れなかったんだよ。金魚釣りなんて簡単だと、甘く見ていたんだね。だっていままで真鯛やカンパチなんかの大物を、釣っていたんだから」
「はじめての日は、結局一匹も釣れなかった。それが悔しくて悔しくて。それから毎日のように、通うようになっていくと、次第に常連さんたちと仲良くなって、いろいろ、コツなんかを教えてもらってね。それからだよ、釣れはじめたのは」
昔を懐かしむ老人の顔は、穏やかで、波の立たない水面のよう。
「はじめて釣れたのは和金だった。よく金魚すくいで泳いでいるやつさ。それからその日に大きな琉金を釣ったんだ」
琉金。委員長はそれがいったいどんな姿の金魚なのか、想像がつかない。ただ、美しいんだろうな、とは思う。
「ぼくの通っている小学校には、靴履場からあがったところの通路に、ちいさな水槽が置いてあったんだ。前はメダカなんかが入っていたんだけど、水の管理が悪かったのか、全滅しちゃってね。かといって、生き物を入れても、また死んだりしたら可哀相ってことで、砂砂利と水草しかない、なんだか風景画みたいな水槽だなって、いつも思っていたんだ。だから休みの日に、ぼくの釣った琉金をこっそり入れておいたのさ。そうしたら次の日、たくさんの子供たちが、押すな押すなして、ぼくが釣った金魚を見ているんだ」
「それがとっても嬉しくてねぇ」
老人の口元に、深い皺が波のように広がる。
空を覆っていた薄暗い雲は、いつのまにか姿を消していた。濁った緑色の水が、本来の明るさを取り戻す。
ウキがかすかに振れるのを、委員長は見逃した。ウキから少し、離れたところの水面に、赤い魚影がいくつもまとまって、たわむれるように尾をゆらしている。そのうえを、一匹の蜻蛉が音もなく飛んできて、水面に薄い影を落とし、なにも残さず飛び去ると、やわらかい風が吹き、さざ波が拡がった。
釣り堀から視線を上げた老人は、白い帽子をかぶった髪の長い女性が、受付けで談笑しているのに気がつくと、腕時計をちらりと見て、
「じゃあそろそろ帰ろうかな」
よっこいしょ、と腰をあげ、老人は立ち上がり、自前の竿を仕舞い、後片付けをはじめた。最後に、鈍くひかるバケツの取手を握り、引き上げる。水の揺れる音がした。
委員長はお礼をいって、丁寧に頭を下げた。
「釣れるといいね」
老人はそう言って去っていった。
さて、この物語にはもうひとりの主人公がいる。
彼女の名前は佐々木あかり。
三年前に愛媛から上京して、都心にある広告会社で働いている。
憧れの都会、憧れの仕事。でも、全部自分の思い通り、というわけでもないみたい。
仕事が午前中で終わり、駅前にあるアパートに帰っても、特にやることのないこんな日には、釣り道具の入ったリュックサックを背負い、自転車を走らせ、この釣り堀へやってくる。
「あれ、今日は仕事休み?」
「ううん。午前だけ、仕事だったの」
受付の男性と話を交わし、入場料を支払い、釣り堀へ向かおうとしたときに、入れ違いにやって来たパナマ帽の老人から声をかけられた。あかりは、嬉しそうに顔をほころばせ、
「校長、もう帰るんですか?」
「うん、三時からフラダンス教室に」
校長と呼ばれたパナマ帽の老人は、フラダンスの動きをしてみせた。あかりは文脈的に、それがフラダンスの手の動きであることは、理解できたが、あまりにも奇妙な、陸地に打ち上げられたタコのようなその動きに、苦笑いをしてしまった。
「今度、あかりさんにも見せてあげますよ、ぼくのタンゴを」
「うーん。楽しみにしてます」
すこし困った表情で、あかりは答えた。
「そうだ。あの子、可愛らしいお嬢さん」
校長の指差した先に、釣糸を垂らし、真剣な目付きでウキをじっと見つめている委員長の姿があった。
「珍しいですね。女の子ひとりで」
「悩みがあるようには見えませんでしたけどね」
「あかりさん、よろしければ彼女に釣りのコツを教えて差し上げたらいかがでしょう」
元教育者らしい威厳のある口調で、校長はそう言った。
「釣れてる?」
不意に声をかけられた委員長は、ウキから顔をあげる。
「ここ、いい?」
委員長が頷くと、あかりは微笑み、隣のビールケースに腰を降ろし、肩掛けしたリュックサックから、常連さんから貰った和竿と、自作のエサを入れたミニタッパーをリュックから取り出した。仕掛けを準備しながら、ウキの動きを見ていたあかりは、
「それ、もうエサないと思うよ」
言われて、委員長は竿をあげる。
言われた通り、エサは取られていた。
「ちょっとでも(ウキが)動いたかな、と思ったら、あげたらいいよ」
すこし、上から口調だったかもしれない、出来上がった仕掛けを水に入れながら、あかりは内省した。
委員長はエサをつけなおす、捏ね捏ね。
なぜならあかりもこの釣り堀に通いだしてから、まだ半年も経っていなかったからだ。
みどりに濁った水面に、ふたりの姿が映っている。なめらかな鏡のようである。委員長はゆっくりと竿を降ろす。ウキを中心に波紋が広がる。隣に立つ、朱色に塗った棒ウキが、かすかに振れる。あかりは自分よりも、委員長のオレンジ色のウキを横目で見ながら、自分がはじめてこの釣り堀に来たときのことを、ぼんやりと思い返す。
水面に浮かぶオレンジ色の棒ウキが微かに揺れたのを、隣に座る仙人のように長い髭を垂らした老人から指摘されるまで、あかりはまったく気が付かなかった。
言われるままに竿を上げると、太陽のひかりを反射した鈍色の釣り針に焦点が合った。ぼんやりとした風景のなかに、それは空しく揺れていた。
「お嬢ちゃん、悩みでもあるのかい?」
仙人は自分のウキから目を離さず、静かで、独言のような口調であったが、その言葉はするすると、水のように、あかりの耳のなかへ滑り込んできた。
彼女はそれには答えず、どこか離れたところに場所を変えようと、あたりを見渡してみたが、休日の釣り堀はとても込んでいて、座るところはないようだった。あきらめて、彼女はエサをつけなおし、竿を下ろした。
ウキの立つすこし手前の水面に、水のなかから細かい泡が浮き上がって、はじけて消えた。
『あかりは色々と考えすぎだよ。他人は他人。自分は自分。この境界線をぐちゃぐちゃにしちゃうと、誰だって、疲れてしまうよ』
しばらくするとウキがぴくりと反応した。
竿を上げると、エサはなくなっていた。
「女で若いのに、こんなところに来るなんて、生きるのに悩んでる奴に違いねぇ」
あかりは、つぎになにか言われたら、もうアパートに帰ってしまって、二度とここへは来るまいと、固く自分に誓い、エサをつけ、仕掛けを少々乱暴に、濁った緑色の水のなかに投げ落とした。波紋がじーんとひろがった。
手荒く投げ入れたからだろうか、どれだけ待っても、ウキにはひとつもあたりはない。
そうなると、思い出さないようにしていた記憶の泡がまたぷくぷくと浮かび上がってきた。
『佐々木さん、社会人なんだから、一度教えたことはちゃんと覚えてちょうだい。あなたのために使ってる時間なんてないのよ』
『佐々木さんって、誰かとお付き合いしてるの? よかったら今度、ぼくと……』
『佐々木先輩って、ちょっと優しすぎるというか、まわりから便利に使われてますよね』
『わたし、ああはなりたくないです』
ウキが微かに振れた気がした。
躊躇いがちに竿を上げると、竿先がしなり、一瞬の手応えを感じたあと、引っ掛かりがとれるように、手応えがぷつんと途切れ、空振りの釣り針が宙を舞った。
『そうやって迷っているうちに、餌だけ取られちまうんだ』
ウキがぴくりと動くのに、すこし反応が遅れてしまう。
案の定、エサはなくなっていた。
自嘲気味に笑い、恥ずかしいなぁ、偉そうにアドバイスしたくせに、などと思いながら、あかりは再度、仕掛けを落とす。
いくつもの蜻蛉の影が、水面を泳いでいる。
どこかで工事の音がする。クラクションが鳴り響く、その音が、どこか遠い世界の出来事のように思われる。
そのときウキが微かに揺れる。
微妙な変化を見逃さず、あかりは素早く竿を上げた。朱色の金魚が滴を散らして、ばたばたと空中を暴れる。赤い鱗に反射した光が、鮮やかに輝く。委員長の瞳にその赤が映る。
あかりは竿を動かして、手元に金魚を引き寄せると、仙人から貰った手製の針はずしで器用に口から針を外した。
ぽちゃん、と金魚が釣り堀のなかに落ちて消える。
委員長は、金魚の落ちたあたりの水面を見ていた。
「きみには、琉金を見せてあげたいな」
「見たことある? 琉金」
委員長はふるふると首を振った。黒髪が左右に揺れる。
再び出てきたこの名前に、委員長のなかで、おどろきと共に、琉金は特別な存在へと昇華した。
「きれいなやつ」
それだけしか、あかりは説明しなかった。
委員長はスマホを持たない。
けれどもこうやって、空想上の琉金が、頭のなかで瑞々しく泳ぎまわるというのは、彼女にとって楽しい経験で、たとえそれが思い描いていた姿と違うものであったとしても、それはそれで良いのだと、委員長は思うのであった。
サンダルを鳴らし、受付けの男性がやってきた。委員長とあかりのバケツをチラリと見て、
「釣れますか?」
委員長が口をひらきかけたそのとき、彼女のオレンジ色のウキが、ぐんと沈んで色を変える。
「あ、ほら、引いてる引いてる!」あかりは水面を指差して、この日いちばんの声をあげた。
委員長は慌てて竿をあげる。竿を握った手のなかに、重い力がずしんとかかる。弓なりに竿がしなり、水面から伸びた糸がぴんと張り、すばやく右左に動きまわる。握りしめた竿がぶるぶると震え、心臓の鼓動が早まる。
竿を持ち上げると、赤い魚影が水のなかで微かにちらついた、かと思えば底の方へ引っ張られて消える。
「慌てちゃダメ。ゆっくり、魚の動きに竿を合わせて」
あかりの指示に、委員長は水面を走る糸の動きに合わせて竿の向きを変える。
しばらく続けていると、次第に糸を引っ張る力が弱まっていくのが分かった。
「竿をあげて!」
時は去り行く。
とどまる雲がないように。
燦々と降り注ぐ陽の光が、街を、建物を、人を、風にそよぐ木葉の一葉一葉を、等しく照らし出している。あらゆるものは、そこにあり、過ぎ去りし時の流れのなかに、例外なくその身をすり減らしていく。それでも確かにそこにあった、そのことが、その瞬間にこそ、永遠があるのだとすれば――
ばちゃばちゃと激しく水面を叩く音が、しずかな午後の釣り堀に響く。
ドキュメント 委員長 のべたん。 @nobetandx
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