第17話 “善人だが浅慮”、対話を試みる


「“中型免許”さぁぁぁぁぁん!!」


 “善人だが浅慮”の悲痛なる呼びかけにも、“中型免許”の反応はない。

 意識を、失っているのかもしれない。


(逃げなきゃ……逃げなきゃダメ)


 そのことは、当然、理解できていた。

 が、“善人だが浅慮”の華奢きゃしゃな足は、デス畳が声に反応してこちらを見、「タミィ」と破顔はがんするにおよんで、まったく力が入らず自由にならない。


 彼女のひざは、ドアのむこうへ、行くべき方角へとふるえながらむいている。

 が、ふくらはぎや足首は、まるで足先を釘で打ち抜かれたかのように、凍りついてしまっていた。


「ま、待ってデス畳さん!」


 “善人だが浅慮”がとっさに呼びかける。

 デス畳がピタリと停止した。

 おやと思いつつ、ことばをつなぐ。


「話し、話しあいましょう。なにが望みなの?」


 デス畳の右目の眼光が、ほんの少し、やわらいだようにも思われる。


「あなた、本当はこんなことしたくないんでしょう? きっと、そうに決まってる。能動的に、意味もなく命をうばいたい人なんて、ううん生きものなんて、いるはずがないものね。私には、わかるの。あなたの気もちが。ねぇ、あなたがなにを欲しているのか、私にだけそっと、聞かせて……?」


 そう“善人だが浅慮”がささやくと、デス畳はしばしの沈黙ののち、「タミ!」とさけんでズズンと音を立てると、横になった。

 二畳が整然とならんでおり、フローリングの上とはいえ、前後の事情を知らなければ尋常じんじょうの畳としか見えない。

 和解のしるしと受けとった“善人だが浅慮”は「やっぱり私が正しかったじゃない!」と喝采かっさいをあげかけたが、デス畳はさらに「タミ!」と声をあげてなにかを催促するようにバウンバウンとその場ではねた。


「ふ、踏めってこと? かしら……」


 おそるおそる聞くと、デス畳は「タミ!」とこたえてニッコリとその巨大な目尻をさげた。


 彼女のくつ下は、日本製のオーガニックコットンで編まれた上等なものである。「はだしのほうがいいのかしら」と口のなかで迷いをつぶやいた“善人だが浅慮”であったが、しかしお値段はしたもののはき心地抜群の日本製オーガニックコットンを、それを製造した日本企業の実力を信じた。


 信じて、デス畳の上へ足をのせる。


 ふみり。


 踏んだ瞬間、“善人だが浅慮”の脊髄せきずいに電撃がはしった――


 彼女は、幼少のころより「善人であれ」と父母にさとされてそだった。「人に迷惑をかけるな」と。

 そうして、実際に善人として現在まで成長してこれた自分のことを、彼女は誇りに思っている。

 同時に、自分がもって生まれたある「うしろ暗い部分」には、背後になにかヽヽヽがあるヽヽヽことに気がつきながらも、知らぬふりをしてすごしてきた。


 しかしデス畳を踏んだ瞬間、彼女のその「うしろ暗い部分」が、隠して目をそむけつづけてきた「嗜虐心しぎゃくしん」が、この生命すらあやうい異常な状況下で、他者を踏みつけにしたことによってあまりにも突然、海底火山が噴火するがごとき暴力性でもって目ざめたのだ。


「横になってこォんな小娘に踏まれて、みじめだなぁデス畳よォ! ほら、ほら、踏まれたかったンだろかよわい女の子に踏みにじってもらってさ、倒錯した欲望をいだいて生きてきたンだろ!? なぁにがいい子でいなさいだ、なぁにが人に迷惑をかけて生きるなだ。世の中は、周囲に迷惑をかけて、しかもそれを自慢して生きてるバカばっかじゃないか! なんで正直者がバカを見る世の中になってるの!? なんでバカより善人がわりうようになってンの!! そんなのおかしいじゃん。パパなんかえらそうに言っといてさ、自分はわるくないのに同僚の不祥事にまきこまれて田舎の関連会社に出向しゅっこうだって。もう一生出世できないんだって! 勧善懲悪なんてフィクションの中にしか存在しないじゃん。あげくに私はこんな山奥でこォんなわけのわかんないバケモノに殺されかかってる。ぜったい、ぜったい、ぜったいおかしい。こんな世の中のほうがおかしい。おまえが、おまえが、おまえみたいな正しい世の中をねじまげる存在さえなかったら……ッ!」


 語りながら徐々に興奮し、足の裏でにじる、ダンダンと何度も踏みたたく、ときにツツツと親指の先でいぐさをなぞる、かと思えばかかとでいぐさをつぶすようにる、足ひとつでできるさまざまな踏みかたをした“善人だが浅慮”であったが、最後に卒然そつぜんことばを切ったのは、デス畳が「うーん」という目をして


「タミ?」


 という声をあげたためであった。

 そうしてスルッと水平移動をしてズレると、体重をのせていた“善人だが浅慮”はずるりとすべり、デス畳のうえへ尻もちをついた。


 デス畳は高級ワインを舌のうえで転がすかのごとく“善人だが浅慮”の尻の感触を味わい、


「タミっ!」


 とニッコリ笑うと――


 バグンッ


 とあっさり“善人だが浅慮”を喰らった。

 デス畳がなにを考え、なにを欲していたのか、やはり人類には理解し得ないものなのか……。

 そのような空気を断ずるがごとく、ビシャリと“善人だが浅慮”の血肉が飛散した。


「解釈違い」


 という文字が、千羽鶴らしきシルエットともにえがき出される。

 こうして、もはや復讐の鬼と化した旧デス畳が、この屋敷のなかへと解き放たれたのであった――

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