第26話 2人の関係

 ゲームセンターを出た俺たちは、まるで別世界に足を踏み入れたかのようだった。喧騒の余韻が耳の奥にかすかに残るなか、夜の街は驚くほど静かで、街灯の光が淡く地面を染めていた。アスファルトを渡る夜風が、少し汗ばんだ肌をそっと撫でていく。ふたりで歩くその時間は、まるで時の流れが緩やかになったように感じられた。


「そういえば、お前ってどこに住んでるんだ? 遠いなら送ってくぞ」


 何気なく口にした言葉だったが、双葉はふっと驚いたように目を丸くしてから、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。


「初めて会った場所から、歩いて五分くらいのところだよ。全然平気。……ほんと、助かってるんだよね。朝、遅刻しそうなときとかさ」


 “初めて会った場所”――その言葉に、俺の中でもあの朝の記憶がよみがえる。交差点で、立ち止まっていたあの瞬間。何気なくかけたひと言が、こんなふうに今へとつながっているなんて、あのときは思いもしなかった。


 俺のアパートの近く、か。意外と……いや、きっと必然の距離だったのかもしれない。だがそれ以上は、深く踏み込まない。双葉の中でその距離が“ちょうどいい”ものだと感じられているのなら、それでいい。


「でもさ、あのときはちょっとびっくりしたよ。知らない人に、いきなり声かけられるなんて、そうそう無いじゃん?」


 くすっと笑う双葉の声は、どこか懐かしさを含んでいた。戸惑いも、少しの勇気も、そこにはあったのだろう。


「ほんとに遅刻寸前だったし! あのまま行ってたら、完全アウトだったんだよ? だから……あのとき、声かけてくれて、すごく感謝してるの」


 ちらりと、俺の顔を見上げてくる。その瞳はまっすぐで、飾り気のないままに真心が込められていた。


「……いや、そこまで大げさに言うことでもないだろ」


「むー……りんくんって、ほんと鈍感だよね」


 軽く頬を膨らませながら、じっと睨むように見上げてくる仕草は、どこか小動物のようで。思わず笑いが込み上げてくるのを、なんとかこらえた。


「でもさ、どうしてそんなに自分のことを悪く言うの? りんくんって、本当はすごく優しいよ。私だけじゃなくて、ちゃんと周りのことも見てるし……。みんなが噂してることも、私は“誰かのためにしたこと”だったんじゃないかなって、そう思ってる」


 その言葉に、心の奥がかすかに揺れる。まるで、閉ざしていた扉にそっと手を添えられたような感覚だった。


「……りんくんが黙ってるのって、きっと理由があるんだよね。だったら私は、無理に聞かない。だけど……自分をもっと誇っていいと思うよ。最近はその噂も、少しずつ消えてきてるみたいだし。安心して?」


 その優しさに、ほんの少しだけ救われる気がした。


「お前こそ、自分の力をちゃんとわかってるか? 転校生があっという間にクラスに馴染めるなんて、普通じゃあり得ないんだよ。お前のその空気を変える力が、すごいんだって」


 俺がそう告げると、双葉はぱちりと目を見開いて――そして、はにかむように笑った。その笑顔はあたたかく、少しだけ照れているようでもあった。


「だから、頑張ってるんだよ。クラスの子たちとも、ちゃんと話したくて。少しずつでいいから、ちゃんといい関係を作っていきたいって思ってる」


 その瞳には、確かな意志が灯っていた。見違えるように強くなったわけじゃない。けれど、自分の殻を一歩ずつ越えようとする、その気持ちが見て取れた。


「だったら……俺と一緒にいる時間を、少しだけ減らしてみるか。俺がそばにいると、話しかけづらそうなやつもいるしさ」


 口にするには勇気がいった言葉だった。けれど、それが彼女の背を押すことになるのなら、俺はそれを選べる。


「……えー、それはちょっと、寂しいかも。でも……うん、分かった。りんくんがいないときは、少し頑張ってみる」


 名残惜しそうに笑うその顔に、少しだけ覚悟がにじんでいた。その成長が、なぜか少しだけ誇らしかった。


「無理するなよ。少しずつでいい。ゆっくりでも、前に進んでるなら、それでいいんだ」


「……うん、ありがとう」


 双葉の返事は、か細いけれど、確かに真っすぐだった。


 ――この夜風のように、いつか彼女の背中を、優しく押してくれるものが増えていけばいい。そんなことを、ふと思った。

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