第21話 双葉の才能

「双葉さん、おはよ」

「おはよ!! 今日も暑いね!」


 教室に入るなり、またしても双葉に声をかける生徒が現れた。その声は明るく、作り物のようなよそよそしさは感じられない。どうやら俺の言い分が届いたらしく、双葉に対する態度は自然なものに見える。だが、その光景を間近で見つめながら黙って立っているこの状況は……なんとも形容し難い居心地の悪さがある。


「双葉さんって、部活とか入らないの?」


 彼女にとって転校してからの日々は、学校という枠に触れない時間でもあった。勉強、行事、部活動……どれも積極的に関わろうとしていなかったのは、俺もよく知っている。


「そうだな。もう少し学校に慣れたら、かな。絵を描くのは好きだから、入るなら美術部かなって思ってるよ」


 双葉の声は柔らかいが、どこか遠慮がちで探るようだった。その理由は、話を続けるうちに少しずつ見えてくる。


「そうなんだ。……よかったら、双葉さんの絵、見せてくれないかな?」


「うーん……あんまり見せたくないんだ。ごめんね」


 双葉は笑顔を崩さず、丁寧に断った。だが、その奥にわずかに揺れた瞳を、俺は見逃さなかった。


「そっか、残念。あ、また話そうね!」


 生徒は急に話を切り上げ、教室を出ていく。その視線の先にいたのは、椎崎だった。


「あの人、椎崎に調査でもさせられたのかな?」


「考えすぎだ」


 双葉を中心に話しかけていても、椎崎が来たらそっちに流れる──それはこのクラスにおけるある種の“法則”のようなもの。椎崎の近くにいなければ、仲間外れになるという空気が、どこかにある。椎崎自身はそんなこと気にしないはずなのに、周囲が勝手に気を回してしまうのだ。


「そっか。……でも危なかったから、よかった」


「危ない?」


「絵のこと。話をつなげるために、つい言っちゃったんだけど……」


 双葉は小さく息を吐き、視線を伏せた。絵が恥ずかしいとか、下手だと自覚しているとか、そういうレベルではない何かが感じられる。


「そんなに気にすることか? お前の絵って、そんなに人に見せられないものなのかよ」


「……ちょっと待ってて」


 そう言うと、双葉は自分のバッグをまさぐり始めた。中から取り出されたのは、一冊のノート。表紙には小さく、でも力強くこう書かれていた。


《希望》


 ノートのタイトルにしては、あまりにも明るく前向きすぎて、逆に妙な違和感を覚える。だが双葉はその表紙をじっと見つめ、ためらいがちに俺に差し出した。手はかすかに震え、目は強張っている。


「そんなに無理に見せなくてもいいぞ」


「大丈夫。りんくんには……今度、家にも来てほしいって思ってたし。そうなったら……どうせ、バレるから」


 家に呼ぶ──その発言もかなり気になるが、今はそれ以上追及しない方が良さそうだった。


「そうか……」


 俺はそっとノートを受け取り、一ページ目を開いた。だが、そこには何の絵もなかった。ただ、真っ黒に塗りつぶされたページだけが広がっていた。


「そのページは、気にしないで。次のページから」


 すぐに双葉が促す。まるで、そのページには触れてはいけないと言わんばかりに。


 次のページを開くと、そこには黒鉛筆だけで描かれた、モノクロの学校の屋上の風景。細部まで精密に描かれたフェンス。左上には小さく《最後の夕日》というタイトル。


「これのどこがダメなんだ? 独創性あるし、構図もうまい。ちゃんと見せられる絵だと思うけど」


「……フェンスのところ、よく見てみて」


 言われた通り目を凝らすと、フェンスの向こう側に“黒い人影”が立っていて、手前には“白い人影”がぽつんと立っている。まるで、お互いに交わることなく、永遠にすれ違うような構図だった。


「これって……何か意味があるのか?」


 双葉は目を細め、唇をかみしめながら言った。


「私の絵……黒が中心にあるものは“触れる”物体。白が中心のものは、逆に“触れない”ものを描いてるの。無機物とか、もう存在しないものとか……」


 その言葉に、俺は絵をもう一度見返した。校舎や背景には、どこかに白が混ざっているが、メインはやはり黒。そうなると、黒い人影は実在の人物、白い人影は……存在しないもの。もしくは、もうこの世にいないもの。


「なるほどな……」


 幻想的に見えていた絵は、実は「喪失」や「別れ」を内包していた。きっと何枚も見れば、誰もがその異様さに気づいてしまう。そして、双葉自身もそれを恐れている。


「……嫌いになった?」


「いや。余計な要素があろうがなかろうが、これは“うまい”絵だよ。ちゃんと、描きたいものが伝わってくる」


「……そっか。ありがとう」


 双葉の表情が、ようやく少しだけ緩んだ。だが、俺の中には一つ、どうしても気になる点が残る。


 ──最初のページ。


 ただ、黒一色に塗りつぶされたそのページだけが、説明から外れていた。黒が中心のものは“実体”。だとすれば、あの黒の塊は……?


 双葉があれだけ慌ててページを飛ばさせようとしたのは、ただの落書きだからではない。きっとそこに、“触れたくない何か”が存在しているのだ。

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