第42話 エピローグ


 東京は夏休みが終わったと言うのに、相変わらず蒸し暑い日が続いている。


 排気ガスの匂い。車の走る音。人々から出る熱気。いい香りもしなければ、心地のいい鳥のさえずりもない。あれだけうるさかったセミの鳴き声も、都会の喧騒に比べれば情緒がある。


「ああ、東京だな……」


 と、教室の片隅でぼやいた。


 井戸で妖怪たちに別れを告げたあの日から、なぜか妖怪が見えなくなった。もしかしたら、ユトが何かの能力で妖怪を見えるようにしていたのかもしれない。よくよく考えれば、ユトが現れるまで妖怪なんて見えていなかったのだ。ユトのなんらかの能力により妖怪が見えていたのではないかと疑ってしまう。


 それにしても、神様の力っていうのも不安定なものだ。


 あの日、みんなを見送った後、おじいちゃんの家に帰ると血相を変えた奈緒に詰め寄られた。


「ねぇ!ミコト、みんながおかしいの!昨日の変な河童とか変な生き物とか絶対に本当にあったことなのに、みんな集団で見た幻覚だって言ってるんだよ?絶対、おかしいって!」


「え、あ、そうなの?」


「そうなの?じゃないよ!ミコトだって不気味な河童に殺されかけてたじゃない!私がそれを助けたでしょ!今でも首を絞められた感覚が残ってるんだから!……もしかして、ミコトも覚えてないの?私がバカなこと言ってるって思ってる?」


「……ううん。俺も覚えてるよ。奈緒ねぇがバカなこと言ってるなんてことも思わない。昨日の出来事がありありと思い出せるから。……あのさ、昨日言えなかったけど、奈緒ねぇ、怖かったのに助けてくれてありがとう。俺、奈緒ねぇがいなかったら、多分、死んでた。本当に助けてくれてありがとう」


 ミコトは深々と頭を下げた。前までは奈緒にお礼を言うなんて考えられなかった。だけど、奈緒は命の恩人だ。ミコトの大切な家族だ。だから、お礼をした。


 それからミコトはミコトの部屋で、この夏、ミコトが体験したことの全てを奈緒に話した。


 奈緒に妖怪のことを聞かれた時、そんなの幻覚だよと笑い飛ばしてもよかった。妖怪なんているわけないさと誤魔化してもよかった。でも、できなかった。あった出来事をなかったことにはしたくなかったのだ。奈緒にもさまざまな事情を抱えた妖怪たちのことを覚えておいて欲しかった。人知れず戦い苦しんだ者たちの思いを知っておいて欲しかった。


 奈緒はただ静かに受け入れ、話が聞き終わった後、ミコトを思いっきり抱きしめた。ほのかに制汗剤の匂いがした。


「ミコトはずっと一人で抱え込んでたんだね。大変な思いをたくさんしたんだね。話してくれて、ありがとう。お姉さんとか言っときながら、お姉さんらしいこと、何もできなくてごめんね。今度は絶対助けるから、どんなことも信じるから、絶対に味方になるから。だから、何かあったら私のことも頼ってね」


 と、優しく言われた声が今でも耳に焼き付いている。そこには確かに奈緒の愛があった。心からミコトを思っているのを肌で感じる。だけど、思い出すのは少しだけ気恥ずかしい。


 しかし、そんな田舎で起きた非日常は終わり、いつも通りの教室、いつも通りの同級生がいる、いつも通りの日常に帰ってきた。


 そんないつも通りの幸せを噛み締めながら、いつも通りであることの退屈さに身を焦がす。ミコトは夏前よりも少し低くなった机で頬杖をつき、気だるそうに黒板を見つめていた。


「おーい、みんな席に着けー。夏休みが終わって浮ついてるのもわかるけど、新学期が始まるぞー。気を引き締めていけー」


 教室の中に担任の福永の声が響きわたる。福永は全員が着席したのを見届けると、


「さて、今日はみんなに重大な発表がある。今日という新学期という節目にうちのクラスに新しい仲間が増えるんだ」


 と、紹介した。


 静かだった教室の中がざわつき出す。


「どんな子?」

「男の子?女の子?」

「え、何それ知らなかった。みーちゃん知ってた?」

「知らなかった」

「誰も知らなかったの?」


 教室に様々な声が行き交い、鬱陶しい。


 転校生なんてよくある普通のことじゃないか。


 ミコトは興味なさげに頬杖をついたまま、ぼんやりと前を見続ける。


 ほら中に入っておいで、という福永の声をきっかけに、ポス、ポス、ポス、と軽やかに音を立てて、一人の少女が教室に入ってきた。


 少女のしなやかで華奢な肉体が目の中に飛び込んでくる。手から顔が離れ、口が無意識に開いた。


 ……まさか。まさか、まさか。


 ミコトは息を飲んだ。いや、ミコトだけではない。教室の誰もが息を飲み、入ってきた少女を見つめる。


 歩くたびに揺れる長い黒髪、白いワンピースから覗く細い手足、雪のように真っ白な艶やかな肌、長いまつ毛にほんのりピンクに色づく薄い唇。


 一瞬にして、教室の全員が目の前の美しい少女に目と声を奪われたのだ。


 教室の窓から生暖かい風が吹き抜ける。クリーム色のカーテンがふわりと膨らみ、少女の美しい艶やかな黒髪がなびいた。


 少女は儚げな顔で柔らかくはにかむ。


「初めまして。神野ヨウコです。これからたくさん遊んでくれたら嬉しいな。よろしくお願いします」


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ボクたちはキミたちとともに 佐倉 るる @rurusakura

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