第35話 見越し入道(1)


「元気かい?って、そんな寝転がって言うことじゃないでしょ!一体、どうしたの?」


 ミコトが声かけをしてもうさぎはただ唸るだけで、何も答えない。うさぎの顔が苦しそうに歪んだ。


「ねぇ、うさぎ?大丈夫?」


 再び声をかけても一向に立ち上がろうとも答えようともしない。ミコトがうさぎに近づこうとした次の瞬間、空気が大きく揺れた。辺りが振動し、突風が巻き起こる。再び、砂煙が舞い、目が開けられない。


「なんだよぉ。人間は潰せなかったのかよぉ。人間も一緒に踏み潰したかったのになぁ……」


 砂埃が舞う中、くぐもった声が聞こえる。ミコトは目の周りを手で覆い、目を細めながら、辺りの様子を伺った。


 うさぎがいたはずの場所に、声の主はいた。巨大化したうさぎよりもずっと大きな黒い何かがうさぎを押し潰している。


 砂埃が落ち着く前に、黒い物体がもぞりと動き出した。


「ミコト、危ない!」


 その声と同時に、突風がミコトをその場から押し出す。


 ドンッという衝撃音と共に、ミコトの体に稲妻が走る。ミコトの体は屋台に打ち付けられ、ミコトは力無くその場にへたれ込んだ。


「いててて……」


「おい、ミコト、平気か!」


「ミコトくん、大丈夫?ごめん……、痛かった、よね?ごめんね……」


 フゥリとタロジがミコトの元へ駆け寄り、ミコトを抱え起こす。脇腹や背中に鈍痛があるが、幸いにも、大きな怪我はしていないようだ。


 ミコトはフゥリとタロジに支えられながら、ふらついた足でなんとか立ち上がる。


「ごめんなさい……。でもこうするしかなくて、ごめん……」


「仕方ないさ。ああでもしなきゃ……、ミコトは……」


 フゥリとタロジの話にいまいちついていけない。


 あの風はフゥリちゃんが起こした風ってこと……?


 どうして?


 疑問が頭にわく。疑問がわくが答えは出ない。ミコトは、二人の肩を掴みながら、辺りを見渡した。


 砂埃が引き始め、うさぎを踏みつけている物体の姿形が露わになる。……巨人だ。ゲームの敵として出てくる巨大なトロールのように見える。


 よく見ると、ミコトがいた場所に巨屋台よりも大きな巨人の手が置いてあった。


 もし、あの場所にずっと立ったままだったら、ミコトは今頃、あの手にぺちゃんこに潰されていただろう。それをフゥリがミコトを風で吹き飛ばすことで助けてくれたのだ。


 死ぬところだったんだ。


 胸のあたりがヒュンっと震え上がった。遅い恐怖心がミコトを襲い、足も震え出す。


「フゥリちゃんが助けてくれたんだね。ありがとう」


「……でも、ミコトくんに怪我させちゃった」


「こんなの、どうってことないよ。死ぬのに比べたら、どうってこと……」


 声が震え、足がすくむ。妖怪の反乱が始まってから、怖くて痛いことだらけだ。妖怪と共存したいと望んでたのに、そんなことを忘れてしまうくらい、怖い。痛い。苦しい。ここにいる妖怪が全員地獄に戻ればいいと思ってしまうほどに、この一瞬で妖怪に傷つけられた。心も体もいっぱいいっぱいだ。今すぐ安全な場所に逃げ出してしまいたい。


 だけど、今はそんなこと言っている暇はない。


 ミコトは溢れ出そうになった涙を裾で拭い、巨人を見据える。


 目の前のこの巨人をどうしかしない限り、この苦しみや恐怖が一生続く。この巨人がこの神社から出たら、ミコトだけではなく他の人間を押し潰そうとする。


 それだけは、避けなければならない。


 なにがなんでもうさぎに勝ってもらわなければならない。


 うさぎやミケツに「人間と妖怪が共存したい」なんて大見得を切っていたのに、このザマだ。うさぎの言っていた人間と妖怪の共存がいかに困難かということを身をもって知ることになるなんて。


 いくら綺麗事を言おうとも、人間と妖怪を天秤にかけた時、結局人間を取るのだ。その自分の選択に浅ましさすら感じる。


 ミコトにとって希望の星のうさぎは巨人に押し潰されたまま、ぴくりともしなかった。気絶しているのかもしれない。


「あれぇ……?潰したはずの人間がいないぞぉ?」


 突然、巨人が手を持ち上げ、じっとその手のひらを見つめる。のんびりとした抑揚がなくくぐもった声だった。その不気味な声が、ミコトの心臓を締め上げる。


 巨人が辺りを見渡す。ミコトは彼から目を逸らすことができなかった。巨人に怖気つき、支えてくれる二人を掴む手に力が籠る。


「あ、いた!キミ、なんで逃げられたのぉ?……ってあれぇ?隣にいるのは、河童のガキと妖狐のガキぃ?」


 腕越しにフゥリとタロジの体が緊張で硬直したのが伝わる。


「その人間、こっちに連れてきてくれるぅ?オレが始末してやるよぉ」


「渡さ、ない!」


 声を上げたのはフゥリだった。


「えぇ?」


「だから、渡さない!」


「は?なんでぇ?」


「悪いな。オイラもこの妖狐もミコトの友達なんだよ。だから、手は出させない」


「えっ?キミたちはオレたち側なのに、どうして人間の味方をするのぉ?どうしてぇ?」


 巨人は妖怪と人間が友達という事実が理解できないのか、不思議そうに首を捻る。


「だから、友達だからって言ってんの!それ以上もそれ以下もないんだ!人間の味方とか、オイラたち側とかそんなの関係ない!友達を殺されて喜ぶ奴がどこにいるんだよ!」


 タロジが必死の形相で叫ぶ。タロジのその言葉にミコトの背筋がシャンと伸びた。


 ……俺はなにをしているのだろう。


 人間を取るとか、妖怪を取るとか、今はそんなことを考えている場合じゃない。自分を責めている場合じゃない。


 ただ、大切な人を守りたい。大切な人を殺されたくない。……だから、今は目の前のことに集中して、戦わなくてはいけないのに。


 タロジの言葉に頬を叩かれた気分だった。


「まぁ、なんでもいいかぁ。敵はみんな、潰せばいいんだぁ」


 ノロノロと巨人が動き出す。押しつぶされていたうさぎが、ゲホッと息を吐いた。巨人は少なくとも四メートルはありそうだ。緩慢な動きだが、あの巨体に踏み潰されたらひとたまりもない。


 何か策はないかと、慌てて辺りを見渡す。


 辺りにはボロボロの屋台しかない。この下に隠れたとしても、あの巨体に潰されたら、屋台ともどもぺたんこになってしまうだろう。


「クソッ!アイツ、オイラたちを踏み潰すつもりだ!……おい、妖狐!お前、風出してたよな?アイツを吹き飛ばせないのか?」


「ごめん……、無理……。私、力が強い方じゃ、なくて……。カッパ、くんは……?」


「オイラもだよ!というか、オイラはまだ何の能力も発現してないんだ!くっそぉ……。ミコトは人間だから何の力もないし、だれか、助けてくれる奴はいないのか?」


 注意を周囲に移し、境内の状況を確認する。


 境内では、あっちこっちで妖怪と神がぶつかり合っていた。長い首の妖怪と虎のような姿をしている妖怪が絡まり合い、傘の姿をしている妖怪と布のような妖怪締め付け合い、……さまざまな姿をした妖怪たちが対峙し合い、闘いあっている。悲鳴、怒声、風を切る音、唸り。そんな音が混じり合い、爆発するかのように響いていた。誰かもこちらのことなど気にしていない。自分のことで手一杯なのだ。この調子だと増援は厳しいだろう。


 この場には、ミコトたちの体を守ってくれそうなものはなにひとつなかった。


 ミコトたちはあまりに無力だ。それを悔しがっている暇はない。巨人はゆっくりと立ちあがろうとしている。


 ミコトは二人の肩から手を離した。


 走って、逃げるしか道がない。


「二人とも、走ろう……!」


「え、でも……、ミコトくんは、私の、せいで、怪我が……」


「大丈夫!全然痛くないから!」


 嘘だった。本当は右半身がかなり痛い。激しい痛みではないが、ジンジンと身体中に響く痛みが体の芯を蝕んでいる。


 ミコトはそれを誤魔化すように、その場で二、三回飛び跳ね、微笑んだ。


 ここにいたら確実に三人とも潰されてしまう。確率は低いが、火事場の馬鹿力を発揮して、逃げ切れる可能性もある。だから、走って逃げるのだ。


『地上で人間と一緒に暮らすための方法を探るためにオイラは戦い、人間を守るんだ』というタロジの凛とした声を思い出す。


 戦うためには、生きなければいけない。三人とも生きなければいけないんだ。


「三手に分かれるようにバラバラになって逃げよう。そうすれば巨人は誰を襲えばいいかわからなくなるはずだ。もし巨人が襲ってきたとしても、バラバラで逃げていたら、全員が潰されることはない。被害を最小で抑えられる。……今から言う方向に二人とも逃げてほしい。タロジは前の鳥居へ向かって、フゥリは巨人を横切るように真横へ、俺は後ろの広場の方へ走る。わかった?」


「で、でも……」


「だけど……」


「大丈夫!絶対走り切ってみせるから。だから、二人もちゃんと逃げ切って。そしたらまた、どこかで落ち合おう!」


 ミコトは不安げな二人の言葉を遮り、再び微笑んだ。巨人はほとんど立ち上がっている。


「巨人がこっちにきちゃう。時間がない。さぁ、逃げるよ!」


 ミコトは叫んだ。タロジとフゥリは頷き、いっせーので走り出す。


 ジンジンする右半身を押さえ込み、必死で走る。


 走るのは得意じゃないのに、今日はずっと走ってばっかりいる。しかも、人類を救うために走るとか、誰かを守るために走るとか、そんなかっこいい走りじゃない。逃げるために走っている。


 でも、生きるためには逃げなくては。無力なミコトにはそれしかできないのだから。


 必死で走った。必死で走っているのに、体が鉛のように重たい。体が全然進まない。


 それでも、必死に足を交互に動かし続ける。


 痛みも忘れ、走ることだけに意識を集中させていたのに、突然、体中に鋭い痛みが駆け抜けた。


 足がもつれ、身体が前にのめり、足が滑る。


「あっ」という声をあげる暇もなく、ミコトは地面に打ち付けられてしまった。


 膝も、腰も、脇も、体全身が痛い。痛みで目の前がぼやけ、体に力が入らない。


 足を引きずるように前へ、前へ進む。少しでも、遠くへ。遠くへ。


 体がざわりと震えた。


 嫌な予感と共に、大きな影が落ちてくる。


 ミコトは恐る恐る、上を見上げる。


 見上げた瞬間、血の気が引いた。体が強張り、体温が一気に下がる。一瞬にして、汗が吹き出てきた。


 真上には、巨人がいた。巨人の大きな身体がミコトの体をすっぽりと覆っていたのだ。


 倒れてくる。


 巨人はミコトの方へ倒れ込もうとしている。


 ミコトは唾を飲み込み、その場から動けず、ゆっくりと倒れかかってくる巨人をただただ、見つめていた。全てがスローモーションのように見える。


 遠くで、フゥリとタロジが叫ぶような声が聞こえてくる。


 あぁ、これで死ぬんだ。


 直感した。


 どく、どく、どく、と心臓が鳴り、速い鼓動が刻まれる。


 わかっていた。人間を恨んでいる巨人は人間の命を狙う。だから、バラバラに逃げた場合はミコトを狙うだろう。


 だから、人間のいない広場の方へ走った。もし、鳥居の方まで逃げてしまったら、ミコトを潰した後に、神社の外へ出ることが予想できたからだ。すでに、うさぎは巨人にやられてのびている。他の神々は他の妖怪で手一杯。つまり、この巨人を止める人は誰もいない。そうなったら、巨人は鳥居の外に出る。そうして、鳥居の外に逃げた人間を傷つけるだろう。


 だから、広場の方に逃げることにした。自分がやられる可能性も考慮して請け負った。


 わかっていたのに、いざ死を目の前にすると、怖い。全身が震える。


 死にたくない。


 でも、体が動かない。恐怖と痛みが入り混じり、体を鉛のようにさせる。そもそも、体を引きずって逃げたとしても間に合わない。


 諦めてはいけないと、わかっている。わかっているけど、どうすればいいのか見当もつかない。


 ミコトは自分の頭を抱え、縮こまった。

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