第30話 今度こそキミを(3)
玉藻前の体は完治したものの、心の傷は治ってはいなかった。それに気がついたのは、玉藻前と話した次の日のことだった。玉藻前が発狂しながら、暴れ始めたのだ。
「ああ、許せない。あの男を許せない。私が、私が殺してやる。身体中何箇所も刺して殺してやるんだから」
「……ああ、ダメよ。そんな簡単に殺したら。ちゃんと苦しんで死んでもらわないと。ゆっくりと時間をかけて、悶えるように殺すの……」
「私が何がいけなかったの?私の愛が足りなかった?どうして?私がもっと愛してたら、私がもっと早く妖狐ということを打ち明けてたら、彼は許してくれたの?ああ、大好きなのに、大好きなのに」
「あははは!楽しいわ。人生って楽しいわ。あんな男のことは忘れましょう。今ならなんだってできる気がするの。ああ、今、私は最高に幸せだわ」
怒り、憎み、哀しみ、笑う。相反する感情を露わにして、泣き叫ぶ。
罵倒しながら、恨みながら、酷く愛し、哀しみながら、幸せを感じ、そして絶望する。感情が歪んで、捩れて、くしゃくしゃになる。掴みどころがない。当人でさえ、自分の本当の気持ちがわかっていないのかもしれない。
花札が花吹雪のように森の中に散乱する。
ミケツは、そんな痛々しい玉藻前を見ていることができなかった。受け止めることができなかった。
だから、あの日、膝を抱え込み俯いている玉藻前に、
「なぁ、玉藻前。……もう、やめよう。大丈夫だ。不義理を働いた人間は、地獄に行く。死後たくさん苦しむんだ。お主を苦しめた連中は皆、地獄に行くだろう。だから、大丈夫だ。もう、忘れてしまえ。過去のことだ。もう、お主が苦しむ必要はないのだ」
と、言ってしまった。無責任で酷な言葉だったと、今ならわかる。でも、あの時は、過ぎ去った過去は変えられない、そこに執着している限り、いつまでも玉藻前は前に進めないと思っていた。玉藻前が過去のことだと割り切って、全てを忘れてしまえば、元通りになると本気で信じていた。
心が深く抉れ、蝕まれているのに、……いわば、体の内臓が重篤な病で侵され、加えて、足の骨は骨折し立てない状態と同じなのに、その痛みを無視して立ち上がれ、と言っていることと同義だということに、この時は気がつかなかった。
目に見えぬ心の傷を軽んじていたのだ。本当に必要なのは、彼女の痛みを受け入れてあげることだったのに。
玉藻前はゆっくりと膝から顔を離し、こちらを見つめる。
無表情だった。そこからは何の感情も感じ取れない。
「貴方も、私を突き放すのね」
玉藻前の目元が緩む。
「貴方は、貴方だけは、私の味方でいてくれると思ったのに……」
「ワタシは味方だ。今だって味方だ。……ワタシはただ、お主に幸せになってほしいんだ。お主に笑っていてほしいんだ。もう、お主の苦しんでいる姿は見たくないんだ……」
「ああ、うるさい。うるさい……。うるさい……」
「玉藻前、耳を塞ぐな。周りをよく見てみろ。大丈夫だ。ここには仲間がいる。怖いことなんて何もない。誰もお主を裏切らない。だから、過去のことは忘れて、人間のことも忘れて、ここで一緒に楽しく暮らそう」
「うるさい……うるさい……うるさい……うるさいうるさいうるさい、うるさい!貴方はいつもそうやって……っ、模範解答ばかりもってくる……!本当につまらない。つまらないわ。貴方にはいつだって、上からモノを言うのよね。まるで自分は世の中のことなんでもわかってるみたいな口調で。私の気持ちなんてこれっぽっちも理解してないくせに!……忘れろ?楽しく暮らせ?私だってそうしたいわよ!でも、できないからこんなに苦しんでいるのに!どうしようもないのよ!私にはもう、どうしようもないの……」
玉藻前は手のひらに顔を埋め、嗚咽も立てずに泣いた。一瞬の間と静寂。その静けさに胸が張り裂けそうになる。玉藻前の震える肩に手を伸ばそうとしたその時、玉藻前が顔を上げた。なにかに納得した、といった表情だ。
「……ああ、そうか。あなたも私を手籠めにしたいのね。私を見る目つき、ずっといやらしかった物ね。私が欲しいんでしょ?」
「……は?お主、何を言っているのだ?」
「だから、私を自分だけのものにしたいのよね?醜い嫉妬なのよね?だからそうやって過去の男を忘れろっていうんだわ。……いいわよ。遊んであげる。ちょうど私も男と遊びたい気分だったの」
玉藻前がゆらりと立ち上がった。玉藻前の細い指が、ミケツの胸元を這う。だらしなく歪んだ唇が恐ろしい。玉藻前の卑しげな目つきがミケツの体を舐め回した。
ミケツは思いっきり、玉藻前の手を振り払った。
「違う!ワタシはお主にそのような感情を向けたことはない!ただ、ワタシはお主に元気になってほしいだけだ!恨みなんて感情に支配されてほしくないんだ……。もうこれ以上、傷を作ってほしくないだけなんだ……」
「何よ……。何よ何よ何よ……!こんなに酷いことをされたのに忘れろなんて戯けたことを言ったと思ったら、今度は女としての尊厳まで傷つけるの?どうして貴方は、貴方たちは、いっつもいっつも、そうなのよ!味方のふりして近づいて、最終的には私を受け入れず、突き放すの!ああ、もういい。もういいわ」
玉藻前がミケツと距離を取り、再び、ゆらりと揺れた。と、思った瞬間、頬に何かがかすめる。花札だ。
「もう疲れちゃったの。貴方ならわかってくれるって思ってた。どんな私も受け止めてくれるって思ってた。でも、それも幻想だった。私に待っているのは拒絶だけ。また私が傷つくだけ。もう疲れちゃったの。……あんなに暴れといて自分勝手よね?そうよ。私は自分勝手なのよ。でも、どうしようもないの。感情もコントロールできないの。どうしたらいいかもわからないの。何がしたいとか、どうなりたいとかもわからないの。人間を殺したい?妖狐のみんなと楽しく暮らしたい?復讐したい?死にたい?……わからない。何が正解かもわからない。こんな状態でここにいたら、みんなにもミケツにも迷惑かけちゃう。気が触れた妖狐なんて、彼のいう通り、化け物だものね。だから、ここ出るよ、私。じゃあね、ミケツ。今までありがとう。さようなら」
「おい、待て!玉藻前!」
寂しそうにはにかんで玉藻前は走った。森の奥深くまで走って行った。ミケツも叫んで追いかけたけれど、遅かった。追いつかなかった。時折、花札が邪魔をして行く手を阻み、ミケツは追いつくことができなかった。
玉藻前が消えた日、一晩中玉藻前を探したが、見つからなかった。ミケツは力無く立ち止まり、白くぼやけ始めた夜明けの空を見上げる。
ワタシは彼女を守れなかった。ワタシが弱いから、気が触れた彼女を受け止めることができなかった。ワタシが肉体的にも精神的にも強ければ、彼女のありのままのその姿を愛し、受け止めることができたはずなのに。一番辛いのは彼女のはずなのに、何も苦しんでいないワタシがそんな姿を見ていられないからという理由で彼女を突き放してしまった。
口の中に嫌な苦味が広がる。後悔しても、もう遅い。星がキラキラと瞬き、ミケツを嘲笑っているかのようだった。
玉藻前がいなくやってから、ミケツは森を美しく保つことを心がけた。森だけではない。町や村が豊かになるよう力を捧げた。
それは、玉藻前が帰ってきたとき、万全の状態で受け入れるためだった。居心地のいい場所だと、ここが自分の場所だと思ってもらうためだった。
強くなること。彼女をいつでも受け入れることのできる環境と心構えを作っておくこと。それがミケツの行動原理になった。
時折、町や村で玉藻前の目撃情報を耳にするようになった。彼女は人間に化けて、男を誘惑し、死なない程度の暴行を加えているらしい。殺しはしないものの、顔をただれさせたり、歩けなくさせたり、重傷になるような傷を負わせたりしているという。きっと、人間に対する復讐なのだろう。
今は人を傷つけるだけに留まっているが、いつか、彼女は人を殺めてしまうかもしれない。一線を超えてしまったら、きっと彼女は傷つく。元来、優しく慈悲深い女なのだ。彼女の柔らかく脆い心は粉々に砕け、本当の手遅れになってしまう。後に引けなくなる。戻れなくなる。
だから、ミケツは守った。
五感をフル活用させ、玉藻前の気配を感じ取っては、彼女の元へ向かった。
無理やり森に連れ戻したいとも思ったが、それでは彼女を本当に受け入れたことにはならない。だから、細心の注意を払い、人間に危害を加えないように行動した。
「なんで人間なんて下等生物を守るのよ!」
と、玉藻前に怒鳴られたりもしたが、それは勘違いだ。全て、玉藻前の心を守るためだった。彼女を守る。ミケツの心にはそれしかなかった。
そうこうしているうちに、何百年も経ち、いつの間にか、日本は人間に淘汰され、人ならざる者は地獄に行くことになった。
知らないうちにミケツは、大地を守り、人を守る者として、神になっていた。
玉藻前のことしか考えていないような男なのに神になれるなんて、神様はなんで安っぽいのだろうと心の中で苦笑したものだ。
ただ、玉藻前を守る中で、人間の存在を認め始めたという事実もあった。ミケツは、最初、玉藻前を傷つけた『人間』が憎かった。そして、愛する人を簡単に裏切る『人間』という存在が恐ろしかった。玉藻前の代わりに復讐してやろうと思った日もあった。でも、その思いはいつしか小さくなり、共存を望むようになった。何百年と人間と共に生きる中で、人間のどうしようもない優しさにも触れたからだ。親が子に与える暖かい視線、友人を信じきる心、愛する者を慈しみ、最後まで愛し抜く者。下劣な人間もたくさんいたが、それと同じくらい、優しさで満ち溢れた人々を見た。千年という長い年月をかけて、人間に絆されてしまったのかもしれない。悪いのは罪を犯した人であって、種全体ではない。そう思うようになったのだ。
人間も妖怪も神も何も変わらない。
人間が人ならざる者を傷つけることもあるが、ミケツが玉藻前を傷つけたように人ならざる者が人ならざる者を傷つけることだってある。つまり、同じ種族だって傷つけ合うのだ。それならば、人間と人ならざる者が一緒に暮らしたって同じじゃないか、と思ってしまう。
そんなことを考えているから、玉藻前に呆れられ、毛嫌いされるのだろう。それでも、長く生きれば生きるほど、ミケツの思いは固まっていった。
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