第29話 今度こそキミを(2)


 玉藻前たまもまえは妖狐の中でも、とびきりの美貌を持つ少女だった。よく笑い、よく怒り、表情がコロコロ変わる素直で誰からも好かれる少女だった。


 当時のミケツは引っ込み思案で、人間を恐れ、妖狐の群れと一緒に森の中で静かに暮らしていた。人から隠れて森の中で静かに暮らす、それが1番の幸せのように思えた。


 ミケツが「森の中から出たくない」と言うと、玉藻前は決まって、


「ミケツってつまらないよね。私は早く大きくなって、森の外に出たいな。それで、人間とお友達になるの!そしたら絶対たくさん楽しいことがあると思うわ!それに、妖狐って人に化けるのが上手じゃない?だから、私もうまく人間たちに馴染めると思うのよ」


 と、明るい口調で笑顔で語っていた。ミケツにとっては眩しいくらいの笑顔だ。


 ミケツと玉藻前は同じ森で生まれた。幼馴染というやつだ。天真爛漫な玉藻前はミケツにとって憧れであり、尊敬の人であった。


 それから何十年か経って、ミケツと玉藻前が青年と言ってもいい年になった頃、玉藻前は夢を叶えた。人間の住む街に住むことになったのだ。


 玉藻前は幼い頃の美貌をそのままに、大きく成長した。目元に色香が漂い、誰も彼も惹きつける、聡明な女性になった。シルクのように滑らかな肌と雪ほど白い儚い肌、美しいという言葉では言い表せないほど、見目麗しい女性だった。


 それは人間に化けた時も同じだったようで、人間の世界のえらい人に大層気に入られていたそうだ。時折、森の中に帰っては、人間の町で見た面白い出来事、愛の素晴らしさ、人間の素晴らしさを説いた。


 そんな玉藻前がやはり眩しくて、彼女を真っ直ぐに見つめることができなかった。


 ある日、木々の影の間に二つの影が長く伸びている夕暮れ時、玉藻前は深刻な顔で、


「彼、体調が芳しくないんですって……。今度、陰陽師の方に来ていただくそうよ……」


 と、俯いて話していた。長いまつ毛が陽に照らされて煌めく。彼というのは、玉藻前が愛し、愛されている男だろう。


 人は人ならざる者よりも脆い。怪我をして、病気をして、お腹が空いて、水で溺れて、たった数十年で死ぬ。どんな屈強な人も、どんなに富や地位がある人も死には勝てない。それはどう足掻いても変えられない事実だった。


「私、何もできない自分が悔しくって……。私たちの方が人間よりも寿命が長いのは、知っているし、彼を看取る覚悟もしてる。……でも、まだ彼が死ぬには早すぎるのよ……。彼はまだ寿命じゃないわ……」


「本当にお主はその男を大切にしてるのだな」


「ええ。私は人間よりも強いんだから、私は彼を守りたい。いいえ、彼だけじゃないわ。人間ってね、みんな素晴らしいのよ。時に底意地の悪い人がいたり、人間同士で諍いがあったりするけれど、それでも、義理も人情もあって……、なんていうのかしら、風情があるの。私たちと同じでみんな一生懸命に生きているわ。そんな人間がわたしは愛おしいの。ああ、私にもっと力があって、もっと人間のことを守れたらいいのに」


 夕日が玉藻前の頬を染める。くっきりとしたシャープな輪郭が凛として美しい。心も顔も本当に美しい女性だと思った。


「玉藻前は、強いな……」


「……そう?」


「ああ。ワタシは、まだ人間が怖い。腹の底で何を考えているかわからないと思うってしまう。ワタシたち妖狐を神と崇めて尋ねてくる人間が時々、途方もなく怖い祈りを捧げていく……。嫉妬、憎悪、傲慢、怨み、呪い……。そんな感情に支配されている姿を見ていると、まるで人間が恐ろしい化け物のようでな……、どうも受け入れ難いのだ……。まぁ、彼らからしたらワタシが化け物なのだろうが……」


「ふふ、それは、ほんの一部だわ。そうはいっても心の奥に優しさを持っているものよ。人間は心を大切にしているの。見た目だけじゃなくて心を見てくれる人も大勢いるのよ。だからね、私も時が来たら、彼に本当のことを話すつもりよ。もし、彼に受け入れてもらえたら、その時は貴方のことも紹介するわ。あっ、そうだ!ミケツも町に出てきたらいいのよ!人間と触れ合わないから、そんな偏見を持ってしまうのよ。そうよ、それがいいわ」


 そう無邪気に笑う玉藻前があまりに眩しくて、ミケツは目を細めた。心臓がゆっくりと波打つ。彼女の言葉はスッとミケツの胸の奥に溶け込んだ。彼女の信じている人間を信じたくなったのだ。


 それから程なくして、ミケツは玉藻前に言われた通りにし、町に出ることが多くなった。時には商人として、時には武家の者として、さまざまな者に化けながら、多くの人間と関わり合った。


 玉藻前の言う通り、町に暮らす人々は義理人情が厚く、味わい深い情緒のある者たちで溢れていた。半端者や自堕落な者、不誠実な者や闇を抱えた者、そんな人たちもたくさんいた。それでも皆、愛すべき生き物たちだと思った。人々の生活の中に、愛があった、慈しみがあった。ミケツは無知だった自分の愚かさを恥じ、人間に礼を尽くすようになった。


 それからまた数日が経った日のこと。町から森へ帰るまでの道中、茜色に染まる夕暮れだったが、それとも漆黒が包む真夜中だったか、風景が霞む出来事のあったあの日。忘れもしない森の中腹で、玉藻前が傷だらけで1人寂しく倒れていた。


 ミケツは息を呑んで、玉藻前に駆け寄り、頭を抱え上げた。


「おい、どうした!どうしたんだ、玉藻前」


 血の匂いが鼻にツンとくる。玉藻前の顔は血の気がなく、雪以上に真っ白だった。肌が切れているばかりか、真っ白な肌に青紫色の生々しいアザが散らばり、目を逸らしたくなるほどあまりに痛々しい。


 玉藻前がわずかに動き、微かな呻き声をあげる。


「おい!おい!玉藻前、聞こえるか?返事をしてくれ!」


 ミケツの声に応えるように、玉藻前がゆっくりと瞼を持ち上げる。目の中の光は消え失せ、焦点が合わない。玉藻前はぼんやりとした瞳で空を見上げながら、唇を動かした。


「どう……して……?どう……してなの……?」


 瞳に大粒の水が浮かぶ。その表情は悲哀に満ちていた。


 誰だ。誰だ、こんなことをしたのは。


 ミケツは唇を噛み締める。この時、初めて自分の非力さを知ったような気がする。


 彼女の痛みも悲しみも何一つわかってあげられない。何一つ変わってあげられない。どうして、こんなことになってしまったんだ。こんなことをしたのは、誰なんだ。


 頭が混乱し、心に鈍い痛みが走る。玉藻前が再び瞼を閉じた。ミケツは玉藻前を背中に載せ、集落へと戻る。温かい鼓動が背中越しに伝わってきたあの感覚を何百年、数千年経ったでも覚えている。


 それから、玉藻前は三日ほどで目を覚まし、一週間が経つころには、顔や体にできた傷も治り、体調も完治していた。我が種族ながら、妖狐の回復力には驚いてしまう。


 玉藻前が回復し、面会が許されるようになった後、ミケツは玉藻前に呼び出された。


 玉藻前は大きな岩に腰を下ろしていた。


「ミケツ、来たの。ほら、こっちに座って?」


 涼やかな声で、ミケツを隣に促す。ミケツは隣に腰掛け、彼女の美しい顔を見つめた。彼女の表情からは何も伺うことができない。全くの無表情だったのだ。玉藻前のこんな表情は今の今まで一度も見たことがなかった。


「何があったんだ」


 極めて優しく声をかける。この一週間、玉藻前が心配で生きた心地がしなかった。


 何があったのか知りたい。どうしてあんなに傷だらけだったのか、あんな涙を流したのか、ワタシに教えて欲しい。


 心がはやった。彼女の痛みを少しでも取り除いてやりたかった。


 玉藻前はこちらを一度も見ることなく、あの倒れていた時のように空を見つめながら、何が起こったかを事細かに話してくれた。


 陰陽師が玉藻前が妖狐であることを見破ったこと。妖狐だとわかった瞬間、愛した男が、周りにいた者たちが、豹変して悪意を向けてきたこと。あまりの出来事に反撃することすらできず、たくさんの暴力を振るわれたこと。殺されそうになったところをなんとか逃げてきたこと。


 玉藻前はまるで他人事のように、淡々と話した。痛みなんてこれっぽっちも感じさせない口調で、語る。そこに感情は何一つ乗っかっていない。泣き叫んでも、恨み言を言ってもいいはずなのに、彼女の言葉は凪ぎ、少しの荒波も立っていなかった。


 いつも全身全霊で笑っていた彼女が、全てを諦めたような目で前を見つめている。


 悔しかった。憎かった。許せなかった。


 玉藻前をここまで傷つけた人間が今もなお、飄々と生きているだろうことを想像すると、憎悪が体の内から湧き出て身を包む。


 ミケツは歯を食いしばった。


「許せないな……」


 ミケツは小さく、けれどしっかり、心のうちを声に出した。


「許せない……?ミケツは私のために、怒ってくれるの…………ありがとう。ねぇ、ミケツ。貴方の言った通りだったわね。人間は腹の底に何を抱えているのかわからない化け物よ。……私は何を人間に夢見ていたのかしら」


「玉藻前……」


「ああ、そんな優しい声を出さないで。ありがとう、ミケツ。……ちょっと一人になりたくなっちゃった。なんだかもう、疲れちゃって。……私が貴方を呼び出したのに、勝手にごめんなさい。貴方に聞いてもらったら、楽になると思ったの」


「……楽には、なったのか?」


「……どうかしら」


 夕暮れ時の岩の上、一番星が輝き始めた頃、玉藻前は光の宿らない目を細め、ふっとぼやいた。


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