第26話 息をのむほどの魅力(1)
再び、走る。走る。走る。走る。
ミコトはミケツの上に乗って、森を駆け抜ける。
今度はどこも痛くないし、苦しくもない。代わりに、ミケツのふわふわの毛が甚平から出ているふくらはぎをくすぐる。
ミケツが走ると、森が大きく揺れる。葉っぱが風を受け、七色に輝いて見えた。幻想的だ。ミケツの後ろにフゥリが続き、吹きつけるみずみずしい深緑の匂いが肺を満たす。
もっとも、ミコトには景色も匂いも気にかける余裕はなかった。
気持ちだけが逸る。神社が近づくにつれ、光と地鳴りと胸の鼓動が強くなる。
お父さんは、お母さんは、奈緒は、おじさんおばさんは、おじいちゃんおばあちゃんは、マビとタロジは、……みんなみんな、大丈夫なのだろうか。
みんな無事でいて欲しい。
ミケツにしがみつきながら、ミコトはひたすらに祈った。
たくさんの木々を抜けて、竹林に入る。風を切る音がうるさい。井戸を越え、柵を越え、本殿を通過し、本殿前の広場まで駆け抜けた。
ミケツが止まる。ミコトは人の姿に戻ったフゥリに支えられながら、ミケツから降りた。先ほどまで激しく揺れていたからか、少し気分が悪い。
呼吸が乱れている。軽い深呼吸を三度繰り返す。だけど、胸の動悸は全く治らない。
広場はがらんとして、人も妖怪もいない。
代わりに、広場の石段を降りた先の境内が人と妖怪がひしめき合っている。
光輝くお祭りの煌めきはすでに消え、叫び声が飛び交い、悲鳴がこだまする。
人間の四倍ほどの大きさのある背の高い妖怪が人間を踏み潰そうとしていたり、カメラの形をした妖怪がフラッシュを焚いた時のように眩い光を放ち目くらましをしていたり、人間のような鳥が人間を抱き上げ空を飛びまわっていたり、巨大な猫が人間を引きずりまわったり、……たり、……たり、……たり。
大小様々な妖怪が暴れ回り、人間が泣き叫んでいる。
絶望的な光景だった。地獄のような光景だった。
体中から血が抜けたような感覚になる。体温が、グンッと下がった気がした。
俺が、妖怪と共存したいって言ったから。
俺が、妖怪を許すなんて甘いこと言ってたから。
俺が、迷ってたから。
こんなことになっちゃったの?
ミコトは覆いたくなる目をグッと堪えて、それを見つめる。
「止めなくちゃ……。行かなくちゃ……!」
「ダメ、危ない」
石段を駆け降りようとしたのに、フゥリに裾を引っ張られ、動きを止められる。
「どうして!なんで止めるんだよ!早く行かないとみんなが……!」
「お兎様も、押されてる。ミコトくんじゃ、勝てない。妖怪の力、舐めちゃダメ」
「うさぎ?」
フゥリが境内を指差す。そこでは、青い光を発する大きなうさぎが四メートルくらいの大男と対峙していた。相撲で力士が組み合っている時のような形でお互いを牽制しあっている。互角のように見えるが、若干うさぎが押されている。巨人にじりじりと追い詰められ、いずれは倒れてしまいそうだ。
「あらあら、もしかして、ミケツガミ?」
突然、この場にそぐわない妖艶な甘ったるく美しい声が本殿の方から聞こえてきた。振り向くとそこには、妖美で色白な女性が立っていた。
空気が変わる。あまりの艶やかさにミコトは息を呑んだ。黒い髪が非常によく似合う色っぽい女性だった。
「玉藻前……」
玉藻前と呼ばれた女性は、白地に紫色の花々が散っている美しい着物を着ていた。黄金の帯がきらりと光る。着物に疎いミコトでも、その着物が上等なものだということが簡単に予測できた。
「お久しぶりね、元気だったかしら?……あらあら、そちらの可愛いお嬢さんは、私のお仲間ね。やっぱり狐は美しいわ。人間なんかよりもずっと、美しいわ。美しい私たちに地獄は不釣り合いだわ。ね、狐のお嬢さん。貴女もそう思うわよね?」
切れ長の目を優しく細めて、頬に指を添えた。何気ない仕草なのに、艶っぽい。美しさが零れ落ちる。
美しい瞳がミコトを捉える。
心臓がどきりと跳ねた。こんな状況なのに美しさに魅入られて、全てを忘れてしまいそうになる。
感情の読み取れない瞳だった。先ほどまでの艶は消え失せ、目の中に光が宿っていない。深い闇底のような眼だ。その闇に引き込まれてしまいそうで、恐ろしい。
「ねぇ、可愛らしい狐のお嬢さん?隣の汚らしい坊やは誰?ダメよ、汚い性根の腐った人間なんかに触れたら。貴女の美しい手が腐っちゃうわ。坊や、ほら、こっちにおいで」
玉藻前が手のひらを上に向け、指を一本一本滑らかに転がし、ミコトを招く。
頭の奥が次第にぽーっとしてくる。頭の中に白い靄がかかる。代わりに、胸の奥の炎が小さく疼いた。
あの女性の元に行ったら気持ちがいいだろうなぁ。
なぜだか、そう確信している。彼女のそばに行きたい。そばに行けば、幸せになれる。
……行かなくちゃ。彼女の元に行かなくちゃ。
「玉藻前、お前、ミコトになにを……!」
「なにもしてないわ。こっちにおいでって言っただけよ。本当にミケツガミは人間様が大切なのね。……あ、手を出したらダメよ?今の彼は洗脳状態なの。下手に手を出して、彼の欲望を邪魔したら、一生私を追い求める亡霊になってしまうでしょうね。……ふふ、貴方に邪魔されないように、洗脳の方法を変えたのよ。だから、邪魔しないで?」
誰かが誰かと喋っている。なにを言っているのだろう。耳の奥が耳鳴りのようにジーンと響いてよく聞こえない。
でも、そんなのどうでもいいか。
ミコトの頭の中の雑多な考えが少しずつ消え、感情が曖昧になる。
「ミコトくん、ダメ!」
急に誰かが裾を引っ張り、転げそうになる。誰かが歩みを止めようとしてきているのだ。
あぁ、鬱陶しい。鬱陶しいな。
ミコトはその手を思いっきり振り払った。
早く、あの女性の元へ行きたいのになんで邪魔するんだ。
苛立ちが募る。邪魔者は全て排除したい。でも、そんな願望よりあの女性を切望する気持ちの方が強かった。ミコトはよろけた足に鞭打って、玉藻前の方へ再び歩み出る。
「あら、女の子を振り払うなんて、坊やは酷いのね。ホント、男の人って百五十年前、いいえ、千年前から変わらない。自分の私利私欲のために、暴力を振るい、人を踏み台にする。……坊や、そんなにふらふらした足取りで、私のところまで来れるのかしら?ふふ、滑稽で惨めな動きね。変な格好だわ。……ああ、男ってなんて哀れで意地汚い生き物なのかしら」
玉藻前が口元を緩ませ、蔑んだ目でミコトを見下す。けれど、ミコトにとってはそんなことはどうでも良かった。ただ、着物を着た美しいあの女性に触れたい、それだけだった。
「ミコトくん、行っちゃ、ダメ!」
不意に、動物の耳を生やした少女が目の前に立ち塞がった。少女に、威勢よく肩を掴まれ、体が揺さぶられる。
「わたしの、目を、見て!」
黄色をした力強い眼が、ミコトを射抜く。ガラス玉のように透き通って、いつまでも眺めていたいほど美しい。
「あっ……」
「わたしから、目を、そらさないで」
少女と視線が絡み合う。体中から抜けていた熱が徐々に戻ってくる。たちまち熱がたちのぼり、体が火照った。
この少女は、ずっとずっと大好きだった……。
「ヨウコちゃ……、ううん。フゥリちゃん、だね。……あぁ、フゥリちゃん、フゥリちゃん」
ミコトは貪るようにフゥリに抱きついた。頭がのぼせてしまいそうだ。
「あらあら、お熱いのね」
妖艶な声が聞こえる。もう玉藻前のことなんてどうでもいい。それよりも今はフゥリの声が聞きたい。フゥリの肌に触れ合いたい。
艶かしい玉藻前よりもフゥリの方がずっと見目麗しく、魅力的な女性に思えた。
愛おしい。このまま抱きしめていたい。
「ミコトくん、しっかりして!」
突然、おでこに衝撃が走った。
フゥリに再び強い力で肩を掴まれ、思いっきり、頭突きされたのだ。痛い。じんわりとおでこに痛みが広がる。
「正気を、取り戻して。惑わされないで」
目の前には清らかでかわいい少女、フゥリがじっとミコトを見つめている。フゥリの頭には獣の耳はもう生えていなかった。
「お願い、落ち着いて。本当の、ミコトくんに、戻って」
彼女の瞳がミコトを射止め、次第に頭の中の霧が晴れてくる。目の前の靄が晴れてくる。
俺は、また、変になったんだ。また、魅了されて気持ちが制御できなくなってしまったんだ。
自分の弱さに泣きそうになる。情けない。どうしていつもこうなんだ。
参道の方から何かの叫び声と、何かの笑い声が入り混じって聞こえてくる。この声を一瞬でも忘れてしまったなんて、我ながら最低最悪な下劣野郎だと思う。
ミコトの肩にあった手はいつの間にかミコトの両手を包み込んでいた。ほんのり暖かい。
「ミコトくん、大丈夫だよ。大丈夫。まだ、間に合うよ。ほら、見て」
フゥリが参道を指差す。フゥリの左手はミコトの右手を握ったままだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます