第24話 お狐様(1)


 走る。走る。走る。走る。


 ひたすら走る。


 とにかく走る。


 どこに向かってるかもわからないまま、走る。


 周りの景色が駆け抜け、祭りの明かりはもう見えない。


 暗闇の中、風を切り裂き、竹林を越えた森の奥の奥の奥へ、一心に走る。


 道とは言えない獣道を走り抜ける。


 足も上手く回らない。ただ、ヨウコに引っ張られ、無心で足を動かしているだけ。

 木々がミコトの体を切り付け、熱風がミコトの肺を襲う。足がもつれ、倒れそうになる。甚平ももうボロボロだ。


 痛くて、苦しくて、辛い。


 それでも、走り続ける。歩みを止めることができない。


 暗闇がうごめく。


 肉体的な疲労からか、ヨウコに対する執着心はほとんどなくなっていた。


 どのくらい走っていたのだろうか。一瞬のような気もしたし、一時間くらい走っていたような気もする。


 ヨウコのスピードが段々とゆっくりゆっくり落ちていく。


「着いたよ、ミコトくん」


 ヨウコが完全に止まった時、そこには大きく太い大樹があった。


 大木には、しめ縄が巻き付かれ、小さな小さな石の鳥居が飾られている。


 いつからここにあるのだろう。木の幹も鳥居もしめ縄も苔むし、厳かな雰囲気を漂わせている。


 緑が深い。緑あふれる香りが吹き抜ける。


 空気がピリッと張り詰め、清爽な風が時折吹く。


 ふわりと、ヨウコの手が左手から離れた。そこで一抹の寂しさを覚える。目の奥が少しだけ熱くなり、石段でのヨウコに対する感覚が戻ってきてしまうような気がした。


 ミコトはその感情を誤魔化すように大きく深呼吸をする。あれだけ走ったのに、不思議と息は上がっていない。


 顎から汗が滴り落ちた。


「キミか。ミコトという少年は」


 不意に、声が聞こえた。


 静かで重々しく威厳のあふれる声だった。


「……誰?」


 大木の影から何かが現れる。


 それは、大きくてふわふわとした黄金の毛と美しい瞳を持つ狐だった。よく見ると大きな尻尾がたくさんあり、妖怪であることが察せられた。


 大木の前に尻尾を広げ立った大狐は、まるで絵画の一枚絵のようだった。堂々とした端厳な姿は、様になっていて、かっこいい。


 この大狐もうさぎと同じく、体が美しい光に包まれていた。銀と金が混じり合い、光のハーモニーを奏でている。


 うさぎなんかよりも、この大狐の方がずっと神様らしい。


 二メートルほどある大狐はじっとこちらを見つめる。その真剣な眼に目を逸らすことができない。

 沈黙が流れる。


 ミコトも隣に立つヨウコも大きな狐も、そこに張り付いたようにじっと動かない。


 品定めをされているのだ、と思った。


 だけど、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。


 大狐から発せられる淡い光が周辺に広がる。呼応するように大木が揺れ、葉っぱの先々がキラキラと風に揺れ波打った。


 光が心に染み込んでくる。胸の内が軽くなる。大狐は何も言ってはいないけれど、こちらの全てを受け入れてくれるようだった。


「……ふむ。人間の子、ミコトよ」


「はい」


 大狐が口を開く。


 ミコトの背筋がしゃんっと伸びた。口調が思わず、敬語になる。


 きちんと話を聞かないといけない気がしたのだ。この者に敬意を払い、話を一言一句漏らさずに聞かなければ。


 大狐にはそう思わせる佇まいと気品と威圧があった。


「……お主のことはフゥリから聞いている」


「フゥリ……?」


「ふむ……、ミコトはフゥリに名前を聞かなかったのか。フゥリとはそこにいる妖狐の名だよ」


 あぁ、そうか。


 ミコトは頭の中でヨウコと妖狐を結びつける。


 山彦のマビに『マビ』という名前があるように、河童のタロジに『タロジ』という名前があるように、妖狐のヨウコにも『フゥリ』という名前があるのだ。


 なぜヨウコが妖狐だと気がついた時に本当の名前は何かと疑問に思わなかったのだろう。


 ミコトは気まずそうに鼻先をかいた。


「そう、だったんですね。すみません、彼女からはヨウコ、と聞いていたので……」


「なるほど。……フゥリよ、なぜこの者に名前を教えなかった?」


「ミコトくんに、みんなに呼ばれてる名前、を教えて、って言われたから。地獄で、人間は、わたしのことを、『フゥリ』なんて、呼ばない。……みんな『ヨウコ』って呼ぶ。だから、人間のミコトには、ヨウコって教えた」


「ふむ……。いいか、フゥリよ。名を問われた時は、本当の自分の名を教えるものなのだ。……ミコト、すまないな。この子はまだ幼い上に、今まで地獄から出たことがないんだ。だから少し、無知なところがある。許してくれ」


 大狐が深々と頭を下げる。


「いえ、そんな。大丈夫です」


 ミコトは手を振って、顔を上げるように促す。大狐は「ありがとう」とだけ簡潔に言って、顔を上げた。そして、上げた顔をぐっと引き締め、凛とした面持ちでミコトの目を見据える。


「さて、ここからが本題だ」


 真面目な口調で言うと、大狐は尻尾を広げたまま、背筋を伸ばし座りなおした。その姿もまた、様になっている。


「人ならざる者が見える人間の子、ミコトよ。なぜ、お主はここに来た」


「なぜ……」


 理由を問われ、返答に困ってしまった。


 なぜ来たのか、それはヨウコ、いや、フゥリに連れてこられたからだ。


 自分の意思ではなく、半ば強引に。


 それに、フゥリが妖狐の姿になってからは意識がぼんやりとしていて、よく覚えていない。意識がはっきりした時には、フゥリに引っ張られながら、走っていた。走って走って走って、気がついたらここにいたのだ。


 しかし、そう正直に述べるのは自分がないみたいで恥ずかしかった。凛とした大狐には、凛とした自分でいたい。


 ミコトが返答に窮していると、


「わたしが、連れてきたの」


 とフゥリが代わりに答えた。


「それは何故だ」


「ミコトくんは、友達だから。初めての、私の友達だから。……友達のミコトくんが、困ってたから、私は、連れてきたの。お兎様が今、神社で、妖怪を、捕まえてる。地獄に、帰すんだって。ミコトくんの、人じゃないお友達も、追いかけてた。……ミコト君は、お狐様と同じように、人間と、妖怪の、共存を、願っているの。でも、ミコトくんは、どうしたらいいか、わからなかったみたいだから、ここに、連れてきたの。お狐様に、会わせたいと思ったから……」


 フゥリがここまで声を発しているのは初めてだった。彼女のシャーベットのような涼やかな声に胸が躍る。


 フゥリはミコトの斜め後ろにいた。でも、ミコトは彼女の姿を見れなかった。もし、姿を見たら、神社の時のように頭がぼんやりしてしまうような気がしたからだ。


「……あのバカうさぎはそんな強硬手段に出たのか……。力で抑えつけてしまえば、妖怪の反感を買うだけだろうに……」


 大狐は困ったように額に手を当て、首を二度、左右に振った。


「あの……、えっと……、お狐様……はうさぎのこと知っているんですか……?」


 フゥリに合わせてお狐様と呼んでみる。


「お狐様じゃなくて、ミケツ、とでも呼んでくれ。あまり様付けされるのは好きではない」


「ミケツ……、さん」


「あぁ、それでいい。……さて、うさぎを知ってるか、という質問だったな。それならば知っている。なぜなら、ワタシもいわゆる神の一人だからだ」


「神、様……?」


「そうだ。八百万の神の一人、とでも言えばいいかな。この地の守護神みたいなものだ」


「守護神……」


「そうだ」


 ミケツは大きく頷いた。


 ミケツが神様であるという事実に妙に納得してしまう。彼の威厳と彼の発する空気感は神というのにふさわしい。


 神社の神様だって稲荷様という狐なのだから、神としての親近感もある。あのちっぽけなうさぎよりも信憑性があった。


「ミコトよ、お主は人と人ならざる者の共存を望んでいるのだったな。それは何故だ」


「それは……」


 言葉が詰まる。ミコトは目を落とした。


 うさぎに言われたことが脳内によぎる。


 共存を望むのは同情。共存を望んだ先に待っているのは争い。人間と妖怪は根本から違うから、共存なんて不可能。


 考えれば考えるほど、うさぎの述べる言葉が正しいように感じる。反論の余地がない気がしてしまう。反論するには、ミコトの経験力不足が否めない。


 胸の奥がざわついて、喉がつっかえる。


「お主の心のうちを素直に申してみよ。ワタシは決して、それを否定しない」


 ミケツの眼を見返す。目の奥が煌めいている。厳しくも優しい瞳だった。


 この人は、すべてを受け入れてくれる、そんなふうに思わせる瞳。


 ミコトはミケツの瞳を見つめたまま、口を開いた。

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